ULTRAVIOLENCE-超暴力-

カルバンクラインのパンツを履いてジムに行きたいです。
どうも、あなたの勇者ぜろ子でございます。

バカ!アホ!ウンチ!ビチクソ!

僕の感覚で2011年を境に急速に広まったSNS、平成インターネット時代。僕もそのころにTwitterを始めたんだっけなぁ。
はじめは大人しかった僕も承認欲求という悪霊に憑かれ過激なツイートをするようになった。うわぁぁぁぁめちゃくちゃ恥ずかしい……思い出すと枕に顔を埋めて足をバタバタするムーブをしてしまう。

過激な発言は簡単に存在を明らかにできる便利アイテムのように見えて、ただの劇薬なのである。Twitterのような品性をマリアナ海溝に捨ててきた者の溜まり場でも、人間性や倫理観を忘れてはいけない。僕がこれを言っていいのか?
人と会話するときに言葉を選ぶ。親しい友人と話すときと好きなアーティストに声をかけるときでは話し方は変わる。
人にはそれぞれの特有の会話の温度があって、その温度を探るのがコミュニケーションだと思う。対して親しくない人にゼロ距離会話されたら僕はドン引きする。

SNSでも(よく使うTwitterで例えると)、タイムラインを構成しているフォロワーによって適温を探ってしまう。人が少なければ簡単だけど多いと顔が高速回転する阿修羅のようでパニックになる。僕はポンコツなのだ。それだけ多種多様な人がいる。
過激な差別発言をよしとする人もいれば、傷つく人もいる。攻撃的な言葉を真に受けてしまい病に至ることもあるので、軽々しく言うものではない。僕がこれを言うなよ......

だけど、承認欲求を満たすためや攻撃的な言葉がデフォの人は意外とたくさんいる。というより、こういう言葉を公に発する機会自体がSNSの発達により増えてしまっているので意識しなくても誰でも見れる時代になったというのが正しいのかも。

自分が何も考えず呟いた一言が他人の人生に変な影響を与えてしまう可能性がある時代。

話題はすこし変わって「相手の気持ちを考えなよ」とよく言われる。他人との共同作業が多かった道徳の授業で聞いた気がするフレーズ、相手の気持ちを考えて行動する。
これを全て良しとするのはおかしいと思う。例えば、いじめ。
いじめは相手の気持ちがわからなければ少しも面白くない。自分がされて嫌なことをするから楽しいのである。この時点で善ではない。何が美徳だ。

この「相手の気持ちを考える」はSNSで炎上した人にも使える。
炎上した人に対して罵詈雑言の限りを投げても「叩かれてもしかたない」となる。「叩いても」ではなく「叩かれても
人間は何か悪いことをするとどうしても罪悪感などを抱いてしまう。そこで有効なのが、自分が炎上した人の気持ちになることだと思う。こうすれば「もし、自分がこいつだったら悪いことをしたのだから理不尽な暴力を受け入れる」というふうに正当化できる。
暴力から神罰へのすり替え。まるで錯覚。

これこそ相手の気持ちを考えるということじゃないのかな。
令和インターネット時代に飛び交う言葉の暴力はこうした「相手の気持ちがわかる」人による人を踏みにじる巧妙な技なんだと思う。
脳死した考えをやめない限り、理不尽な暴力はなくならない。


反省と自戒の念とともにこのnoteをここに置いておきます。

良い夜を

digital killing / ultraviolence

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