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そこに愛はあるんか

顔を洗いながら「助けて!助けて!」と叫ぶと面白いです。
どうも、あなたの勇者ぜろ子でございます。

英語の「want」は「〇〇がほしい」を意味する。
しかし、この言葉は元々「欠けている」という意味で、今の「want」の意味はここに由来する。
欠けているものがあれば、人は誰しもそれを必要とするものであり、それを欲するだろうということで、「欠けている」を意味していた「want」に「ほしい」という意味が加わったという歴史がある。
やったね!ひけらかせる豆知識が増えたね!

このように「want」をめぐる意味の変遷を知っていると、僕が何かを欲しいと思うとき、前提として、その欲しいものと思う何かが欠如している状態があるということに気づける。
「I want you」と呼びかけるアメリカの有名な兵士募集のポスターは、戦争をするのに兵士が不足しているという欠如が前提としてあり、その上で兵士となりうる「あなた」を欲していることになる。

それなら、愛の場面ではどうなる?

愛において「僕」が「あなた」を欲するとき、「僕」は「あなた」を欲しているときであって、あなた以外の誰かを欲しているわけではない。そして、のどが渇いた、お腹が空いた、というような欠乏の認識と違って、「あなたを欲している」状態は基盤とするところの欠乏の認識は、ひとりでに湧き上がってくるものではなく、「あなた」との関係性無しには湧き上がってこない(ふとした瞬間に全く知らない他人を愛したという感情は一般に湧かない。朝起きたら全然知らない人に恋をしていたなんてことはないだろうから)。
「僕」に欠乏しているものが、「あなた」以外の人間との関係においても発現するのならば、僕は「あなた」以外に、そうした人間全てと関係を結びたいと思うことでしょう(浮気や不倫)。なので、「あなた」を欲しているとき、自分に欠如しているは、あなたとの関係の中で自己に差し向けられる欠乏なのだろうと僕は思う。
人間は、成長の過程において、鏡に映った自分の姿を見ることで、その像が自己のものであると認識し、自己と同一性する(と思う)。しかし、この場面では、僕はあなたという鏡に映った自己の姿を見ることで、自己の欠乏を認識することになるのではないか。
そして、鏡に映った自己の像が自分とは異なるものである(オリジナルの自分はその鏡を見ている「僕」)ように、「あなた」という鏡を通じて認識した「僕」の欠乏=欲求も、ひょっとすると純粋な自己の欠乏=欲求ではないのでは?という疑問が浮かんでくる。だとすると、「あなた」を欲するという愛の欲求は、「あなた」という存在を経由して翻訳された僕の欲求であり、僕の純粋な欲求と100%合致しているものではないはずだから、ここにおいて僕は、「あなた」を欲することで自己の欲求から少しの程度阻害されることとなる。

ここで視点を「僕」の欲求が対象とする「あなた」の側に向ける。
これ以降、「僕」とは、上での「あなた」であり、「あなた」は上での「僕」になる。ごちゃごちゃしてきたぞ~!

対象を欲するという行為の大元にあるのが自己の欠乏であるならば、対象を欲するという愛の欲求は、自己の欠乏を満たすことを目的とする自己再帰的なものであるとも言える。だから、欲望される「僕」は、「あなた」の欠如=欲求の中に存在し、その「僕」は自らが思っている「僕」と異なるものであるわけである。なので「あなた」から欲求される「僕」の欲求は、あなたから差し向けられる欲求に裏切られる形にもなる。

などと考えていると、愛は間主観的なものであり、愛において「僕」は「あなた」を愛することで「僕」を裏切り、「あなた」からの愛をも裏切っているのではないでしょうか。
愛はそもそもが不可能に満ちているのではないかと……えっ、マジ?

でも、世の中にこうも愛というものが溢れているのを見ると、その不可能をもしかしたら乗り越えられるかもしれないと思い込みことが、ひょっとしたら愛であり、そこに愛が存在しているのかもしれない。
世の中で広く了解されている愛がそもそも不可能であること、不可能を生きているということ。その認識が僕たちの経験するありとあらゆる愛というものを肯定してくれたら……なんていうのは理想にすぎないね。性に合わないことを書いてしまった。

良い夜を

00000 million / bon iver




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