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同じクラブが好きなサポーターなのに「こころひとつ」になれないのはなぜか?という話

どうも、ゼロファジ(@Zerofagi)です。

「一丸となって」という言葉があるじゃないですか?関係する人すべてが心を一つに同じ目標に向かって一致団結するという意味ですけども。Jリーグサポーターの間でも「チームとサポーターが一丸となって共に戦う」ことを表明した横断幕やスローガンを見つけることができます。きっと、スタジアムでみかけたことのあるひといるんじゃないでしょーか。

「みんなおなじクラブを応援しているのだから、その時点でみんな同じ方向を見ているはずだ」と思うんですよ。

でも、実際にはなんか出来事があると同じサポーター同士で「あっちは○○」「自分たちは〇〇」というように意見が真っ二つに割れてモメることがある、と。一方が一方にたいして「こんなやつらがいて許せない!」とSNSなんかで批判すればそれが雪だるま式に膨れ上がって、みたいなね。

同じクラブを応援するグループの中に、小さなグループがあってそのグループ同士が「それはちがう!」「あいつらは間違っている」と反目しあう。こういう構造って結構あるあるだと思っていて。

こりゃ、いったいどういうことなんだろう?どうしたらいいんでしょう?というのが今回のお話です。


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結論から言うと、

ひとの脳は、そもそも誰かと対立することが自然であり、対立するようにできています。攻撃対象を見つけて叩くとき、脳の快楽中枢が刺激され、快楽物質のドーパミンが放出されます。自分のとる立場や集団を守るために、他の集団を叩くことは正義であって、その正義の基準にそぐわない人を「悪人」として叩く行為に快感が生まれるようになっているそうです。

例えば、よく意見が分かれる「ブーイング」について考えてみましょう。

チームの不甲斐ない姿に「拒否」の姿勢を示すブーイング。これについて「サポートするはずのサポーターがチームを拒絶してどうする」と考える立場の人(ブーイングなし派)もいれば、「チームを愛しているからこそこの現状を否とする態度は示すべきだ」という立場の人(ブーイングあり派)もいます。両者は「ブーイングありなの?なしなの?」というポイントで対立しています。しかし、どちらもそれが「サポーターとしてとるべきだ」と思う(正義)行動をとっていて、いってみればどっちもチームがすきなひとたちなわけですよ。

ブーイングなし派のひとからすると、ブーイングあり派のひとたちは愛するチームを不当に叩く裏切り者のように映ります。したがって、チームを守るため、いや、実は、自分たちと同じ意見の集団を守るためにブーイングあり派を叩くわけです。そして、それが気持ちいいと脳は感じるようになっている。

一方のブーイングあり派のひとからすると、ブーイングなし派のひとたちはチームの成果にこだわりの足りない甘い集団に映ります。チームのために、やはり、実は、自分たちと同じ意見の集団を守るためにブーイングなし派を叩く。そして、そこに脳は快感を覚えるようになっている。

片方が片方を叩けば叩くほど、それぞれの集団の結束は高まります。そうして自分たちの取る立場の正当性を疑わなくなっていく。それが、SNSの増幅機能にのっていくと流れがさらに加速していくことになります。自分のとる立場が多数派であればあるほど、その意見に賛同する人は増える傾向があります(バンドワゴン効果)。すると、多数派の意見が圧倒的になり、少数派の意見はとるにたらない異端扱いになる。

結果、「ああいうやつら」は言ってもしょうがない。「ああいうやつら」は見なかったことにするしかない。みたいな態度をとるしかなくなってしまう。しかし、少数派の意見が間違いなのか?は未検証な場合が多く、簡単に切り捨てていいのかどうか?は疑問です。

それにしても、おなじクラブを応援する「サポーター」に変わりはないのに、こうまで分断されてしまってほんとにいいのか?と思うんですよねえ。なんか、もったいない。もうちょい、なんかいいやり方はないんだろうかと。

個人的には違う立場があることを認めることしかないのかなぁと思います。前述のとおり、人間の脳はオートマチックに対立するようになっていますから、自分の意見と違うひとたちに拒否反応が出るのは避けられないでしょう。でも、そこで脳に操られて自分の正義感を振りかざすと、その先には分断という谷しかない。それでいて、「サポーターも一丸となりましょう」と言うにはさすがに無理がある。それはさすがに嘘でしょう。


ですから、正義はいくつもある。答えは一つじゃないと心がけておくのがいいのかもしれないな。というのがいまのところ一番しっくり来ています。自分の脳の「対立するやつを叩きたい!」という欲求をひとまず置いておいて、「まあ、ちょっと聞く耳だけは持ってみるか」とか「どういう背景がそう言わせるんだ?」と違う意見に関心を持ってみるという工夫が大事になるんじゃないかなぁと。

こころひとつにともにたたかうためには工夫が必要なのかも?というお話でした。とはいえ、ルール違反は問題外。ここだけはハッキリ明言しておきます。

そういえば、長く続くものには多様性があるそうです。いろんなひとが集まれる場所は長く栄えるというわけです。おそらくサッカーも同じで、多様なひとに開かれていて、敷居が低い方が間違いなく栄えていくことでしょう。

そうなると、なおさら正義はいくつもあるという考え方が大事になるように思います。「こうあるべき」はある集団にとっては快感でも、ほかの集団にとっては不快感になる場合がある。なるべくたくさんの「こうあるべき」が衝突せずに、共存する。そういう形がいいのかもしれません。

サポーターにとって一番大きな「こうあるべき」は「サポーターはクラブをサポートしてなんぼだろ?」だと個人的には思っていますが、これも部外者からしたらとっつきにくい正義なのかもしれない。べつにクラブを熱心に応援していようがいまいがスタジアムに来ていいし、来なくてもいい。その人の自由だし。

サポーターであることを押し付けてはいけないなと、改めて自分の襟元を正した次第です。


それではまた。




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