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『サッカー経験者以外はサッカーを語るな』が自殺行為な理由を考えてみた


常々サッカーって実際どうなのよ?ってところが知りたいので、いろんなものと比較しながら「あっちはこうだけどサッカーはこうだよね」みたいにやるんですけどね。改めて考えてみると野球って非常に優れたスポーツだなって思うんですよ。特に注目したいのが野球の持つわかりやすさの部分。ここはマジですごいデザインになっているなあと感心することが多いです。

たとえば、野球って基本的に1対1のバトルの繰り返しでゲームが進んでいくわけじゃないですか。ピッチャーとバッターの対戦、それを3つのアウトで攻守交替するまでやっていくっていう。チェンジとなったら入れ替わって、今度は相手のピッチャーとバッターがまた対戦していく。それを9回終わるまでずーっとやっていく。もちろん、野手とか走者も含めて攻撃・守備なんだけど、1対1を起点にしてゲームが進んでいくってデザインがまずわかりやすい。

観客の目線を考えてみると、まずは何はともあれピッチャーvsバッターの対決に注目すれば十分に楽しめるし、打球が飛んだらその方向に視線を移せばいい。ランナーがいればその動向も合わせてチェックするけど、そこまで視線をせわしなく動かす必要はない。

さらに、状況を理解しやすいという点もあります。たとえば、「2-1で負けてる6回裏の攻撃、2アウトランナー1塁。バッターは前の打席ソロホームランを打ってる好調の4番バッター」みたいに状況設定がとても言語化しやすい。そう言葉にするだけで、だいたいどんなシチュエーションなのか?は伝わるし、言わば”シーンの頭出し”がとてもやりやすい。

そこから自分の応援しているチームにどういう展開を望むのか?って絵を描きやすいじゃないですか素人でも。子どもの頃毎日やってたプロ野球中継をかじってた程度の自分でも、この場面では「2ラン欲しいな」とかって勝手に想像を楽しむことができる。

しかも、(最近は短くする工夫があるとはいえ)投手が一球投げるまでに間があり、そこで観客は次の展開を予想するゆとりが設けられている。この次の展開を予想するって行為は極めて大きなスポーツ観戦の楽しさのひとつで、そこに時間的余裕を確保されている野球は実に優れているなと思うわけですよ。

もちろんいかにわかりやすいとはいえ、野球の底が浅いなんてことはなくて。玄人でないと読みとれないような深みは引退した野球選手のYouTubeとか見てればわかるじゃないですか。だからこそ、プロの技が解説できる解説者が必要だし。

わかりやすい、言葉にしやすいっていうことは観客にとってめちゃめちゃ大きなことなんですよ。人間って心が動くと誰かに伝えたくなる生き物じゃないですか。いい映画を観たら友達と感想を交換したくなるとかさ。スポーツもいっしょで、実際にゲームを見て心が動いたことを誰かに伝えてシェアしたいなって気持ちが生まれるんですよね。そこで、大きなカギになるのが言葉にしやすいってことだろうと思うんです。

言葉にしやすいってことは、誰かに話しやすいってことだから、ゲームの中身についてコミュニケーションが生まれるってことでしょ?ゲームを見て「ああだった」「こうだった」「あそこはこう思ったけど実際はどうだった」とかね。

その点において野球にはそういう優れたデザイン性があるんですよね。誰かが言っていたけど、「野球って素人がわかったようなことを言いやすいスポーツだよね」って。ちょっと言い方意地悪すぎだろ!って思うけど、実際のところほんとそうで。語りやすいっていうめちゃめちゃ優れた長所を持ってるなと思うんですよ。語りやすいことで、ゲームそのものを話題にしやすいじゃんっていう。

素人が多少不正確な認識を元に誤った結論持ったって別にいいんですよ。だって素人だもん。それに間違いはいずれ修正できるからね。自分で学んでいけば。多くの商売だってそうで、業界人しかしらないような専門的な知識をお客さんが店の人より持ってることなんてほとんどないでしょ。どんな分野においてもそうした情報格差の構図はあると思う。

ウチの父は80近い今でも西武ライオンズをずっと応援してるんですけど、子どもの頃野球をTVで見てるときわかんないことがあったら父に聞きゃあいいって感じだったんですね。だいたいそれらしい答えが返ってくるし、子どもにとってはそれで十分だった。大事なことは父が質問に対して言語化して伝えられた、ということで。野球の持つ言葉にしやすい特徴はそういう場面でとても強力に作用するんです。

誰かに「あれはこうだと思うよ」って解答案を提示できるってことは、その人の中で筋の通ったロジックが組み立てられているからでしょう?子どもの頃の自分はそうした口伝で野球を知っていったし、言わば父が野球の先生だったわけです。もちろん、父がプロの解説者みたいな深みを持っていたわけじゃないと思うし、持つ必要もなかった。だけど野球の語りやすさは父を先生にしてくれたよなって思うわけです。多分、そういう身近な先生が野球にはいっぱいいっぱいいたんだろうと思うんですね。

広く知識を共有するってめちゃくちゃコストがかかることで、だからこそ公教育といって国とかが義務教育という形で必要なことを教えましょうってなるわけじゃないですか。国が金出すわ!って。その点、野球の言葉にしやすさが名もなき大量の教師をいろんな家庭に生みだしていたのでは?と考えると、なんてリーズナブルなんだ!と思うんですよ。知りたい人が質問し、語れる人が教える。そういうコミュニケーションをたくさん生み出していたんじゃないかなと。そりゃリテラシーはあがるでしょ!っていう。

なんかWBCのときにもありましたよね。ワイドショーのような野球に特化してるわけでもない情報番組でさえ、試合の場面について出演者が「ああじゃないか」「こうじゃないか」っていろんな意見が出たと。つまり、それくらい当たり前に言葉にできるのが野球のこの国における地位だってことです。そんな競技を追いかけるのがサッカーの立場というわけで。

そういうことを考えるとサッカーの置かれている環境はかなりまずいんじゃないの?って思うわけです。

だって、みんなゲームそのものについて言葉にできずにモヤモヤしてるもん。心は動いてるはずなのに言葉にできないもどかしさ。サポーターになってから何百人って人と会話してきましたけど、一番に感じるところはそこなんですよね。サッカーってほんとに言葉にしにくい。

たとえば、シーンの頭出し一つ取ってもそう。野球が「2-1で負けてる6回裏の攻撃、2アウトランナー1塁。バッターは前の打席ソロホームランを打ってる好調の4番バッター」とシチュエーションを詳細に伝えやすいのに比べて、「サッカーは19分のあのシーン、攻撃のときの・・・」と言っても正直19分のどのタイミングなのか?が指定しにくい。誰が何をやって、どうなったか?くらいは話せるでしょうけど、それも一瞬ですからね。野球のような間があるわけじゃない。野球が「素人がわかったようなことを言いやすいスポーツだ」というならば、サッカーは「素人がわかったようなことを言うことすらちょっと難しい」という感じじゃないかと。敷居が高すぎる。そうすると、サッカーの試合の中身について言葉にできるのはそういう知識や経験を積んだ一部だけってことになってしまう。

言葉にできないということは、誰かに話しにくいってことでしょ?ゲームの中身を話題にしたコミュニケーションが生まれにくいということでもある。こうしたサッカーの特徴は、すでに日本のいろんなサッカーシーンで顕著に出ています。

たとえば、日本代表の中継。特に地上波の放送ではライト層のことを考慮して、ゲームの深いところを解説するテイストではなく、なるべく感情に沿うような演出の一部になることが多い。それはそれとしてお金をもらってやる仕事なので、仕方のない部分だとは思うんですよ。でも、自分が父から野球を教わったように、サッカー解説者の見立てからサッカーを知っていくような要素は比較的小さい。あと試合数もそんなたくさんないし。

あるいは現実のサッカークラブの集客においてもそうです。「サッカーはわからなくても、ビールを飲みに来てください」という誘い方が有効であったり、フーズやイベントに厚みを持たせてお客さんを呼び込もうという努力がいろんなところで行われています。その方針はすごくいい。しかし、メインディッシュであるはずのゲームそのものがそういう扱いになってしまうのはサッカーファンとして「うーん」と思わざるを得ない。サッカーを売ろうとしても売れない現実はせつないですよ。

サッカーってのはもう30年も付き合ってきていまだに飽きない大好きなスポーツだし、きっと死ぬまで楽しんでいくだろうなと思っています。だからこそ、この国におけるサッカーの地位が向上してたくさんの人に支持されて、人気を博していてほしい。映画『シーズンチケット』みたいに人気になると大変だけど、あんな映画が作れるくらいに広まってほしいなと思っています。

では、そういう未来に近づくためにやったほうがいいことってなんなんだろう?それは、サッカーを言葉にしやすいように工夫してコミュニケーションを増やすことなんじゃないかなと思ってます。

この国で行われているたくさんのスポーツに関する会話を全部集めて、そのうちどのくらいゲームの中身について語られているか?を競技別により分けたらきっと野球とサッカーではコールド勝ちくらい大差がつくと思います。

語れる人が少ないってことは、学べる機会が少ないってことでしょ?だって、疑問に思ったとき聞ける人がそばにいないもん。そばにいなきゃ「わかんなくても別にいいや」になりますからね普通に。自分が父を質問箱にして野球を知っていったようなルートが、日本全体で少ないってことになってしまう。

つまり、その差はいわゆる初等教育のようなベーシックな知識を伝達する機会の差になり、リテラシーのベースの差になってくるんじゃないかな。サッカーを文化にするとはよく言うけど、具体的にやるならまずもって会話を増やさない?って。サッカーそのものを楽しんでもらって、語ってもらって、伝えてもらって、継いでもらいませんか?と。

そうしないと、多分何年やっても語れる人だけが語れる競技にしかならなくて、ジリ貧になるんじゃないかなあと。その未来の先にサッカーが人気過ぎてチケットが買えない!みたいな未来は絶対にないでしょう。

そう考えると、「サッカー経験者以外はサッカーを語るな」ってのは自殺行為になりかねないって思うんですよね。より話者を減らそう!ってことですから。おそらくそういう強めの言葉を叩きつけたくなるような苦労があるのだろう、とは思います。しかし、観客あってのプロサッカーですからね。観客が減る、寄せられる関心が減ってしまうと、縮小していくのはサッカー界そのものだろうと。サッカーの地位は追い落とされ、バスケに抜かれ、競技人口は減り、と。集まるお金も当然減る。今以上に貧しくすることはないでしょう。サッカーに関わる人にはサッカーに関わってよかったなと思っていてほしい。自分はサッカーに関われなかっただけに。

だからこそ、サッカーを語りやすくする工夫を考えなきゃなと思う日々です。

やっとJリーグ開幕だ。楽しみですね。







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