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"本当の声を聞かせておくれよ"手塚awesome!さん【浦和サポインタビュー】



取材日 2023年11月4日 9:00

『キャプテン翼』でサッカーと出会った幼少期


ーじゃあ、よろしくお願いします!

(手塚awesome!さん)お願いしますー

ーこんな大変な日にお願いしてしまって・・・。この後なんの試合があるんだろう?と思ったらルヴァンの決勝だったんですね?笑

そうなんですよ笑

ー僕J2ばっかり見てたからJ1のスケジュールを知らなくて。リーグ戦かな?と思ったら「決勝じゃん!?」ってなって笑

そうなんですよねえ笑

ーしかもこの後試合を観に行かれるという

はい。これが不思議な話で。私、一応浦和のサポではあるんですけど2019年はアビスパ福岡を応援してて。足繁く福岡に通ってた、というのもあったりして。だから、すごい感慨深い・・・ですよね。

たぶん浦和サポでそんな人はあまりいない気がします。で、特に前(福岡)と岩尾(浦和)っていうのはどっちのチームの中心選手でもあるんですけど。2019年の最終戦が福岡vs徳島で、福岡での試合で。勝った方が優勝みたいな試合で引き分けて徳島が優勝したんですよね。

で、そん時前(福岡)と岩尾(当時徳島)が中心にいてっていうので。それが今度決勝でまた戦うっていうので。ちょっとそういうエモーショナルもあるなぁと思いながら。感じてますね。

ー手塚さんはいまおいくつなんですか?

同い年ですね、45です笑

ーああ、そうでしたね笑

昭和53年生まれですね

ー出身はどちらなんですか?

私は埼玉です。本当に実家が浦和で。

ーあ、浦和に住んでおられるんですね?

今は実家を離れて都内にいるんですけど、もともと駒場が生活圏というか。後々駒場までほんとに自転車で五分くらいのところに引っ越したりもしたんで。要はJリーグができたときから「浦和を応援しなければいけない」って思ったんですよね。

ーJリーグができたときっていうと93年からですね

93年ですね。「地元にほんとにできるんだ」っていうのでめちゃくちゃテンション上がったのは覚えてますね。

ー”あのJリーグ開幕の空気感”は僕も覚えてます。地元が岡山なんで、地元にJクラブがないんですよね。だから、僕は横浜マリノスを応援してて。わりかし岡山ってアンチ巨人が結構強いので

なるほどなるほど。

ー「読売嫌い」みたいな風土があって。流れで「読売を誰が倒すんだ?」ってなったときに、「横浜マリノスじゃない?」みたいな。2003年くらいまでは横浜を見てましたね。

ああ、そうだったんですね。

ーサポーター歴的には1993年からずっと浦和という感じですか?

一応、うーん、ちゃんとこうスタジアムに通ってみたいなのは、もうちょっと時代が下ってからですけど。それでも一応、こころとしてはもう、浦和レッズで、っていうのはありましたね。

ー先ほど言われてましたけど、アビスパ福岡も並行してみるみたいな感じですか?いわゆるかけもちサポというか

えーと、これはですね。ゼロファジさんにはお伝えしたことがあったと思うんですけど、要はミシャサッカーが一時期、まあそれはそれは嫌いになった時期があったんですね。

ーああ

そのきっかけは矢島慎也だったんですよ

ーおお!?

原口元気とか、山田直樹、岡本拓也とかがいて、ユースの黄金世代っていう人たちがぼこぼこ、オスカー・フィンケが監督になったときにみんな引き上げて、ユースの選手を使い始めて、っていう流れがあって。それできてたんですけど。

それで「ああ、これで今後楽しみだな」と思っていたタイミングで、一年でフィンケが解任されてしまって。そもそも、このフィンケの解任自体が私は納得いってなくて。表向きは置いておいて、フィンケが切られたこと自体が、サポーターの圧力に負けてるんですよね。そこがまず納得いってなくて。

ーなるほど

それでやってきたのがミシャ・ペトロビッチで。いざ選手獲得はどうなる?って思ったら、そのユースの選手たちを使わなくなって、広島の選手をみんな使うようになるみたいな流れになって。選手がぼこぼこ出ていったタイミングで。矢島慎也も岡山に行きましたよね?

ーレンタル移籍で岡山に来てくれましたね

その時に浦和への気持ちが完全に切れてしまって。「俺は、浦和の選手を応援しよう」と思って、岡山を見にいきはじめたのがきっかけだったんですね。

ーああ、そういうきっかけだったんですね

そうなんですよ。で、あの年の岡山は面白かったですね。ちょうど、加地(亮)さんが岡山に入ってきて。岩政先生も後ろに来るようになって。

ー前線に赤嶺もいましたしね

いましたねー。そう。そういうのがきっかけでそこからJ2全般を注目するようになったんですよね

ーうんうん

きっかけは岡山で。最初は岡山中心で観てたんですけど、その同じ年かな?次の年だったかもしんないけど。それで、レノファ山口の「上野サッカーがめちゃくちゃおもしろいぞ!?」ってなって。そこからレノファをちょっと追っかけるようになったんですね。

ーじゃあ、結構浦和スタートでいって、フィンケの一件があってからちょっと心が「おや?」ってなって。矢島きっかけで岡山にいって、J2も観だして、その都度おもしろいサッカーをしているところを見にいくみたいな感じだったんですね?

そうですね。ミシャサッカーが、うーん・・・。選手もそうですし・・・。あの政権が6年くらい続いたのかな?

ー長かったですよね?

長かったですね。その6年の間に、もう試合中の流れがほぼ全部一緒で。それがもう勉強しない、セットプレーで失点するとか、クロスの対応が雑すぎるみたいな、おんなじパターンがほんとに嫌になって。それでもうほんとに浦和を離れちゃったという感じがあって。

で、そこからJ2観たらいろんなおもしろい選手がたくさんいて。「おもしろいサッカーがここにはあるなぁ」っていうのがわかって。ちょうどあの時期のJ2って・・・なんて言うんですかね。戦術がめちゃくちゃ、こう、積み重なってるというか。どのチームもいろんなことをやろうとしていて。ちょっとまえのJ2っていわゆる”2部リーグのフィジカルサッカー”みたいなところから変わっていくタイミングだったような気がするんですよね。

ー僕が観始めた2011年あたりからJ2でもだいぶボール持ったりするし、キャラが立ってるチームが多かったですよね

そうですよね。おもしろいのはレノファ追いかけてた時期に、私ジェイさんと知り合ってたんです。

ーああ、そうなんですか!

なのでジェイさんともお会いしてお話してて。今のタイミングでジェイさんが浦和の担当になってるのがおもしろいなっていう笑

ーほんとですね笑

そういうことがありましたね。

ー手塚さんのパーソナルな部分もお聞きしたいんですけど、ご家族はどんな感じの構成だったんですか?小さい頃のお話を聞きたいなぁと思いまして

えーと、両親がいて、弟が一人。途中から母親だけになって、弟と3人で暮らしてたって感じですね。母親がめちゃくちゃ西武ライオンズのファンだったんですよ。たぶん母親が西武ライオンズファンだったことの影響がめちゃくちゃあると思っていて。

ー実は僕の父親もガチの西武ファンなんですよ

あー!そうなんですね。

ー父は福岡の人なんですけど

あー、はいはい!じゃあ西鉄時代から?

ーそうなんです。子ども時代からファンというので。移転してもずっと西武ファンは継続していて。たぶん、手塚さん同い年だから知ってる西武の選手もめちゃくちゃかぶってるだろうなという。石毛とかあの頃ですよね(笑)

そうですそうです(笑)そのころ母親に連れられて、小学生時代とかめちゃくちゃ西武球場行ってたので。

ーああ、そうなんですね!

だから、一番いい時期の西武ライオンズを生で見てるんですよね

ーあの黄金時代の・・・それは凄い経験ですよね?

そうなんですよ。母親がスポーツを見にいく文化を先鞭付けてくれたみたいな感じはあると思いますね。

ー小学校の頃はどんな感じの子どもだったんですか?

小学生は野球はやってましたけど、そのタイミングで『キャプテン翼』が来ました。

ーはいはい、確かに!

『キャプテン翼』が来るタイミングで、まーみんなそろってサッカーやり始めるみたいな。隣の近所の公園が、一気にサッカー場みたいに変わりましたね。住んでいたところがマンションが集まってるところだったので、結構子供がそこそこ集まって。全然知らない人も混ざってサッカーをみんなでやってたりとかしましたねえ。

ー学校の中でも「サッカーきてるからサッカーやろうよ!」みたいなムーブメントがあったり

そうそう、そうですね。間違いなくありましたね。

ーサッカーとの出会いは小学校の「みんなでやろうぜ!」的なところから?

『キャプテン翼』で知って、自分でもやるようになるっていう感じだったと思いますね。

ー中学校はどんな感じでしたか?

中学は、地元を離れて、都内の私立に進んだんですよ。そこで一回スポーツから離れたんですよねえ。あんまりやらなくなって、文化部に入ったんで。あー、一応野球はやってたなたしか。野球はやりました。

ー小学生のころはみんなで楽しくサッカーやっていたけど、中学に行ったタイミングでは続ける気にはならなかった感じですか?

うーん、中学のとき・・・。やっぱりまだサッカーはメジャーではなかったですよね。部活としても規模も小さかったなぁって思いますね。

ー中学生のころっていうと93年にドーハの悲劇があったと思うんですけど、あれから日本代表の注目度がガーッて上がっていったじゃないですか。あのあたりはどういう風に見てたんですか?

リアルタイムで、うーん。見てた気はします。追いかけるほどまでではなかったですけど。それでも中山(雅史)を知ってたんで、当時まだJリーグに入るクラブじゃない中山を知ってた、ということはそこそこ知ってたのかなぁとは思うんですよね。

ー代表選手がどこのチームに所属してるか代表戦で知るみたいなのありましたよね。「あ、この選手ヤマハなんだ」とか

そうそう、そうでしたね。

ー浦和サポーターになったきっかけは何だったんですか?

浦和ってどっちかというとマイナーな都市なんですよ。埼玉の中でいったら大宮の方が大きい街で。県庁所在地なんだけども、規模としても小さいタイプの都市で。ということがあった中で、そのオリジナル10の10の中に浦和が入ってるってことがうれしかったですね。やっぱり。

ーあー、なるほど。まあ、他は大都市ですもんね。100万人都市とかそんな感じの

そうそう!そうなんですよ!それがあって、地元のチームとして誇りを持ったんですね。おそらく笑

ー周りが大都市の中で「10の中に入れる街なんだ」みたいな?

そうそう!もちろん三菱が浦和になった経緯なんて当時は知る由もないし。うーん、そうですね。静岡、名古屋、大阪、って並びの中で、それこそ東京とか福岡とか北海道なんかを置いて、浦和っていうのが。ほんと感じましたね。

ーJリーグは開幕から見始めた感じでしたか?

そうだったと思いますね。94年スタートのあそこのタイミングからずっとJリーグのファンではいると思います。で、一番、選手とかを知ったきっかけになったのが、当時めちゃくちゃ出てたサッカーゲームだったんですよ。

ーあー、スーファミが出たタイミングでしたもんね

そうそう。えーと・・・ナムコの『プライムゴール』っていうファミスタみたいなゲームのやつとか。エポック社の『エキサイトステージ』ってゲームとかが出ていて。

ー僕もめちゃくちゃやってました笑

あれで、こう、選手のフルネームとかを結構すんなり覚えたんですよ。

ー全然自分のチームじゃない選手も覚えるんですよね(笑)

そう!そう!(笑)当時の選手を覚えてるのはそこらへんの影響もあると思いますね。

ーJリーグ開幕したあたりでは浦和の試合を見にいくって感じじゃなかったですか?

都内から中学生でもいけない距離とかじゃないんですけど、ただ、駒場のキャパと、当時の熱狂度の度合いとで、ほんっとうにチケットが買えなかったです。

ーあー・・そうか!プレミアチケット化があったんですよね

そうなんですよ!Jリーグがはじまってから少なくとも2,3年はチケット買えなかったですもんね。もう、ほとんど。

ー僕も、岡山にいて「どこかの試合行こうかな」って思ったんですけど、他県に行かないといけないのと、チケットが取れないっていうのがあって。結局、ずーっと生でサッカー観ることなかったですね

そうですよね。

ー高校はどんな感じでしたか?

私、中学高校いっしょだったんで、周りの環境はほとんど変わらなかったですね。高校も軽く野球をやりながら、サッカーもちょろちょろ見ながらぐらいの感じでやってましたね。

ー家の中ではお母さんがゴリゴリの西武ファンだったということは、子どもとしては西武ライオンズも観ながら浦和もおっかけるみたいな感じなんですか?

どーだったですかねえ・・・。さすがに中学入ってからはそこまで一緒に西武球場に行くこともなくなって。

ーあ、お母さんはずっと通ってるんですね?

通ってます通ってます。

ースゲーな笑

それこそほんとに、福岡にビジターで観にいくってのが年一の楽しみでってのがありましたね。私ほんとに一気に行かなくなったなぁ・・。ちなみに、弟は結構サッカーをやってて。海外サッカーとかも結構詳しくて。弟から勉強することは多かったですね。

ーじゃあ、手塚さんご自身としては海外サッカーはそこまででもなかった?

私の場合はそうでしたね。それこそ、ほんとにW杯アメリカ大会が94年で。おそらくそこで日本でW杯ってものが大々的に周知された記憶があるんですよね。で、アメリカのW杯って言ったら、(ロベルト・)バッジョのPKじゃないですか?

ーまさしく

事前情報として弟から「バッジョっていうすごい選手がいる」っていうのを聞いてて、っていう流れがあった中であのバッジョのPKがすごい印象に残ってて。そっから海外サッカーを意識するようになったというか。海外の選手を知るようになったっていうのがあったですね。ちなみに弟はアントラーズファンです(笑)

ーえ!あれ?(笑)何が起こったんですか?お母さんは西武、お兄ちゃんは浦和、家はオール埼玉で出来上がりそうだったのに

「アントラーズは強いから」っつって(笑)たぶんジーコがいたからだと思います。

ー浦和は最初そこまでビッグネームの外国籍選手いませんでしたよね?

いなかったですね。

ーベギリスタインとかもちょっと後ですもんね

そうですそうです。ベギリスタインが来たのが・・97年ぐらいですねたぶん。なんでそれまでは大物っていうのはいなかったですね。それこそほんと、ベギリスタインとブッフバルトですかね。

本格的にサッカーをプレーした自衛隊時代


ー高校を卒業したあとはどういう進路を歩まれたんですか?

私は高卒で就職して、地方を転々としたんですけど。あの、言ってしまえば航空自衛隊入ったんですよ。だから、いわゆるジョホールバルの歓喜は基地の中で見てて。夜中だったです。あのときはほんとに、消灯の時間なんだけどゴールの瞬間はその宿舎のところどころから歓声があがったんですよ(笑)

ーめちゃめちゃいいエピソードじゃないですか(笑)みんな寝てねーじゃんみたいな

そうそう、そんなんでしたね(笑)で、青森にその後行くんです。そこで、やっと本格的にサッカーを始めたんですよ。自衛隊のチームがあって。

ーああ、じゃあ大人になってからちゃんとプレーヤーとしてサッカーに打ち込むってことになったんですね?

そうなんです。あれは1999年ぐらいからだったと思いますね。

ー自衛隊の中のサッカーってどんな感じなんですか?

自衛隊もちょっと特殊な感じで、なんだろう?・・自衛隊の中でサッカーチームのピラミッドがあるんですよ。

ーああ、Jリーグみたいなディビジョン構造があるんですね?

そうそう。その基地の中にリーグがあって、部隊ごとのチームがあるんです。なのでそのチーム同士でリーグ戦をやる。で、それとは別に基地のチームもあるんですよ。基地のチームは社会人リーグに所属してて、青森県リーグで出るんですね。そこの基地のチームと部隊のチームは、別に日本代表みたいなシステムになってるわけじゃなくて、基地のチームに行きたい人が部隊のチームから参加してるっていう感じなんですね。

ーめちゃくちゃおもしろい話ですね。そんな話聞いたことなかった(笑)

それで、基地のチームごとにトーナメントもあるんです。自衛隊の全国トーナメントみたいなのがあって。

ー99年だから大学生ぐらいの年齢だと思うんですけど、取り組みとしてはガチでサッカーに打ち込んでいくって感じだったんですか?

自衛隊の中なんで、時間と場所はあるんですよ。ほんとに毎週5ぐらいで、勤務終わった後2時間ぐらい毎日練習みたいな。そんな環境でしたね。

ープロみたいじゃないですか

そうそう、ほんとそんな感じで(笑)小さいときにボール触ってなかったってこともあって、自衛隊で練習しててもそこまでうまくはならなかったですけど、それでもある程度はできるようになったっていうのは、そういう環境でやってたからっていうのもあったですねえ。

ーでは、サッカーの中身についてしっかり触れるっていうのはその自衛隊で?

そうですね。そこで一緒にやってた人たちが高校のときにそこそこサッカーでいいところまで行ってた人たちだったんで。そういうこともあって、まーー勉強になりましたね。

ー自衛隊に入ってサッカーに打ち込んでる間も浦和サポは継続してる感じですか?

見れるまではいってないですね。一応、気には留めてるぐらいかなあ。

ー2000年くらいになってくるとフィーバーも下火で地上波での中継も減ってきましたもんね

そうですね、あの当時Jリーグの記憶・・・そこまでないんですよね。

ーそこからはしばらく自衛隊ですか?それともなにか転機とか?

自衛隊って最初の下士官の段階って任期があるんですよ。基本的に、2年2年2年みたいな。その任期のタイミングで「実家帰ろう」ってなって。なんとなくですけど、「続けなくてもいいかなあ」と思って、自衛隊辞めて実家帰りましたね。

ー実家に帰ったのは何歳ぐらいだったんですか?

24とか5ぐらいですかね。だから、自衛隊には5,6年いたことになるのかな。

ー自衛隊って行ってみてどうでした?

えーと、なんだろう?楽・・・でしたよ?たまーに朝早くてなんか行事があるみたいなこともありましたけど、結局8時-17時で、お金もらえて、ご飯も出てきて、寝床も用意してくれて、みたいな環境なんで(笑)楽・・・楽ですね。まあ、私が所属していた部隊が楽だったっていうのもあるんですけど。自衛隊を辞めるきっかけは・・・特に覚えてないなあ。もともとそんなに長く続けるつもりはなかったっていうのが確かあったんですよね。ちなみに、同じ部隊にいた後輩にお笑い芸人のフルーツポンチの村上じゃないほう、亘(わたり)がいました。

ー25歳で実家に帰ってきてそこから転職してって感じですか?

思ったより就職が厳しくって、大変でしたけど。なんとかまあご飯食べられるくらいのお金がもらえる仕事になんとかたどりついて、みたいな感じでしたね。その就職して仕事をしているタイミングで、サッカーのコーチの資格を取ったんですよ。C級ライセンスを。一回「やりたいことやれたらいいな」と思って、ライセンスはお金払って講習出ればもらえるっていうのを知って。それで受けてC級とって。そっから、少しだけ2、3年だけ小学生のチームでコーチをやった時期があるんですよ。

ーライセンスをとりたくなったきっかけはなんかあったんですか?

一応、サッカー関係でご飯食べられたら「こんないいことねえな」って思った時期だったんですよ。それでライセンス取ってみて。地域のチームがあって、たまたま文京区のチームだったんですけど、そこで少しだけやらしてもらってたって感じでしたね。

ー指導はやってみてどうでしたか?

いやー、楽しかったですよ!幼稚園生から小学校6年生くらいまでいて、2学年ごとにグループ分けしているチームだったんですけど。子どもたちの吸収力っていうか、自分の伝えてることが、ほんとに伝わってどんどんうまくなってるみたいなのを感じると、うーん・・・よかったですねえ。

ー手塚さんご自身もプレーされてきてて「サッカーいいな」って思うところもあったと思うんですけど、それはどういうところでしたか?

えーと、なんだろうな、私が小さいころしっかりとはサッカー習ってなくて、大人になってからサッカーをしっかり始めたっていう経験があるんで、ちゃんとしたボールテクニックができなかったんですね最初のころ。なのでそこらへんの苦労を知ってるんで、小さいころにできるようになっておけばそこで苦労することはないはずだっていうのがあったんですよね。そこは重点的に伝えてはいましたね。

ーご自身のプレーの中で「困ったな」というところが指導に生きてたと?

そうですね。

ー子どもたちがサッカーにふれていく姿は見ていてどうでした?

なんだろう。楽しんでくれているのがほんとによかったですね。文京区っていう地域柄もあるんですけど、頭いい子が多くて。聞き分けの悪い子っていうとあれですけど、割といい子が多かったですね。

ー育成年代のチームってけっこうコーチがどうとか保護者がどうとか問題をよく耳にするんですがそのあたりはいかがでした?

私は結構親御さんとも仲良かったですね。子どもたちに言ったのは「好きなサッカーチーム作って、ちょっと追いかけて見てみて」って。で、誰か好きになったら「その選手になりたいと思ってみて」と。そういう選手ができるとそこへむけてがんばるというか、向上心が上がるので。プロの選手を意識させたっていうのはありましたね。サッカーチームを応援させるのは、サッカーを好きになっていくきっかけになってほしいと思って。こう、なんでしょう・・

ー「やるサッカー」と「観るサッカー」みたいな感じですか?

そう!そうですね。きっかけがなんであれサッカーを好きになっていってほしい。今後の人生で。そのきっかけに自分がなれたらいいなと思ってたんですよ私としては。だから、勝敗を求めるわけではなく、そのときの「ボール蹴るのが楽しい」「サッカー観るのが楽しい」っていうのは私としては結構意識してましたね。

ーそう思うようになったのは手塚さんがコーチになってからですか?それともそれまでご自身がサッカーやってこられて「いいな」と思ったからですか?

いや、ほんと、子どもたちにふれるようになってからですね。

ーああ、そうなんですね!

おそらくライセンスの授業の中身に影響を受けてると思うんですけど、コーチにはサッカーを普及する役目があるんだなと思ったんですよ。そのためには、「サッカーを好きになってもらおう」っていうのがまずあって。そうすると、長く好きでいてもらうためにはまずチームを知ってもらって、特にJリーグの好きなチームを作ってもらえたらいいなあっていうのがあったんですよね。

ーサッカーチームって海外もあるじゃないですか、その中でもJリーグをって思われた理由はなんだったんですか?

えーと、それは直接観れるからですね。やっぱり、直接観ることって違いますよね。たとえば、空気感であるとか。

ー違いますよねえ。現物で動いてる感じって映像がどんだけクリアになっても再現しきれないところありますもんね

そうだと思います。

ーコーチは仕事しながらずーっと続けていった感じですか?

そうですね。併せながらやってって。で、最終的に「それだけで食っていけないな」ってなって。ちゃんとはたらく、「ちゃんと働こう」って言い方もあれですけど(笑)諦め・・・うーん、まあ諦めたんですよね。

ー身の振り方を考えて、ってことだったんですね。そこから仕事を変えてって感じですか?

そうですね、はい。

ーそのときもずっと都内住まいで?

そうです、そうです。

ブッフバルト監督就任で盛り上がった浦和熱


ー浦和レッズに再び接近するというか、サポーターとして関心が復活してくるきっかけとかはあったんですか?当時25歳くらいのころもチラチラ気にしてるぐらいな感じですか?

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