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現代社会のいう「責任範囲」が、この社会を低迷させているかもしれない…っていうボヤキ。

考えてみると、人生を通じてずっと苦しめられている考え方がある。

言った人が、最後まで責任持つべきである。
やりたいことは、最後まで責任持って遂行すべきである。

自分で書いていて、そうだよな〜と思う。
そしてできればそうしたいと思う。
そっちの方が、とても豊かな経験ができるし、学びも多くなるし、充実感・達成感も味わえそう。

きっと、多くの人がこういう社会的思い込みに、翻弄されているんじゃないかな?

でも、でもね?

この考え方…

言い出すの、難くさせてない?
やりたいって、言い難くさせてない?

働いたこともない大学生3年生に、あなたは何がやりたいの?って聞くの、結構酷だと思うんだよね。「(やったことないけど、)これをやりたいです!」って無理矢理言わせる方が胡散臭いなと思う。

「君は何がやりたいの?」みたいなことを、1on1ミーティングで上司に聞かれて、やりたいと確信しているほどのものではないので、「いや、とくにやりたいことはないんですよね」と言葉を飲む。

クソ忙しい業務が立て込んでいる中で、上司から職場を更に良くするための提案が聞かせて欲しい!と言われて、「〇〇したら良いと思います。」と言ったら、「じゃあ、それをやろっか。よろしく頼むな。」なんて言われるんじゃないかとヒヤヒヤすると、軽はずみに言い出せなくなる。

やり遂げなければ意味がない。
やり遂げることに意味がある。
やり遂げる覚悟がなければならない。
やり遂げた先に得られない、学びや体験がある。
やり遂げる責任があればやっても良い。

うん。わかる。わかる。すご〜くわかるよ。
僕も確実にそれが絶対正しいと思っていた。

でも、なんか息苦しくて。

「100回の失敗をしたから、1つの成功がある」風な考え方と同じで、「やりたいのかどうかわからないけどやってみてもいいかなと、たかが2%程度しか思ってもないことを100個やったから、やりたいことが1つ見つかる」みたいな考え方があってもいいんじゃないかと思うんですよ。

「アジャイル式やりたいこと発見法?」とでもいうの?

で、「あ!これだ!」と感じたものを、突き詰めれば良い。


でね、この考え方のもう一つの弊害があると思っている。

なんとなくざっくり話してみると、よく0→1とか、1→10とか、10→100とか、一つの事業やプロジェクトのフェーズを表現する言葉がある。最近になってこのレベルまで、細分化されるようにはなったけど、まだまだ「本当なら0→100までできた方が良い。そう言うやつ、すげぇ!」みたいな根深い考え方があるように思う。

あえて、一旦、自分を正当化してみる。

僕は、直感・ひらめき重視で、モラトリアムで、中二病で、着想癖・妄想癖がすごい。これは、僕に授けられたGiftだと思っている。一方で、その分、めちゃくちゃ飽き性で、熱しやすく冷めやすくて、計画性がなくて、浮気症で、無責任で、後先考えることとかあまり向いていないんです。だから、とてもじゃないけど、0→100の単位なんて、そんな大きな単位、ちょっと責任重大過ぎる。

もうね、0→100なんか絶対無理だし、なんだったら、0→1もまだまだざっくりし過ぎている気がするんですよ。僕的には、0→0.1があっても良いと思うんです。(要は、単なる妄想がめっちゃ得意な人)

いや、正直いうと、僕は、0→0.1は大して得意じゃない。
むしろ、0.3→0.4とか、5→5.1とか、5.7→5.8とか、67.9→68とか、もうね、0.1単位のところにしか才能・Giftがないのよ。

他のことは、できなくもないんです。
やれと言われれば、努力はできる。
だって、これまでそれらを克服しようと、トレーニングされてきたから。

でも楽しくない。

こう書くと…

お前は、無責任だ。お前は、自己中だ。
お前のGiftに合わせて、社会を合わせようとしているだけだ。
できないなら、できないことを努力して克服すべきだ。

…とかって、声が僕の頭の中でガンガン鳴り響く。

だからこそ、その言い分もわかる!

かつて、そうやって僕も自分の「できないこと」を克服しようしてきた。
全体に責任をもって、目的に向けて、計画的に、あれもこれもできないことをできるように努力して…みたいな。

でも、それってみなさん、しんどくない?

むしろ、そんなオールマイティな、攻撃力もあって、防御力もあって、ベホマズンを唱えられて、ザオラルも唱えられて、ギガディンなんて強力な攻撃呪文も唱えられて、イカす感じのイケメンフェイスを兼ね備えた勇者なんて、この世の中に一体何人いるのよ?

むしろ…

その人にとっては「水を飲むように当たり前にできてしまうけど、他にとっては至難の技」ようなたっくさんの才能を組みあせて、ワン・ポイント・リリーフで繋いでいくようなプロジェクトの組み立て方があっても良くね?

そういう視点から、組織やチーム運営を考えてみた方が良くね?

実は、そっちの方が、みんな持って生まれた才能を、ただただ無理なく水を飲むように使っているだけなので、自分を使いやすくねぇ〜か?

…って思うわけです。

もちろん、そう簡単にはいかない。

従来の考え方であれば、3人(先発、中継ぎ、抑え)で済むプロジェクトが、27人(1人ワンアウトづつ取っていく)とか100人(1球1球別の人が投げる)とかになるかもしんね。でも、それで、よりすごいオモローで成果が出るなら、そっちの方がいいじゃん。

その時…

言った人が、最後まで責任持つべきである。
やりたいことは、最後まで責任持って遂行すべきである。

…というこの考え方、弱めていった方がいい気がするんです。

だって、1人1人がもって生まれたGiftを活かすという本来の自然な生態系な感じに、全然馴染まない考え方じゃん?!!

そこにある人の才能に焦点を当て、その才能をどう組み合わせて、有機的なチームを作るか?という視点から考える方が、よっぽど人の生態、自然、ヒューマンセンターな考え方だと思うんです。

みんなハッピーで、しかもなんかすごいモンが生まれる。

すごくね?


最後に、一つだけ思うこと。

「できないことを、克服するための努力をする」よりも、「持って生まれた才能・Giftの活かし方を探求する努力をする必要はある」と思っています。

才能、Giftを持って生まれた責任が、あなたにはある。
そのGiftを、どう世のために役立てるか?、それを探求していく責任が、あなたにはある。

そんなことを最近思っていたりなんかします。

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