アレクサンダー・テクニークと坐禅

『thinking』と『非思量』についての一考察①

「速く動こうと思うな、速いと知れ」(字幕)
(Don't think you are , know you are.)
(映画『マトリックス』モーフィアスの名言)

「仏になろうとするより仏で居るが造作がなくて近道でござるわいの」
(盤珪禅師)

 F・M・アレクサンダー(1869-1955)が発明した、ユニークな身心の教育術⁈「アレクサンダー・テクニーク」。
そのユニークさの一つに「thinking」という問いかけがあります。日本語でいうと「思うこと」「考えること」になってしまいますが、「ちょっと思ってみて」ぐらいのニュアンスです。が…シンプルかつダイナミックな「問いかけ」なのではないかと思います。
 ここに、片桐ユズル先生(詩人、アレクサンダー・テクニーク教師。日本にアレクサンダー・テクニークを初めて紹介した人)が受けた初めてのレッスンを紹介したいと思います。

 最初のレッスンでテーブルに横たわってると、私の鎖骨あたりに触りながら彼女(シャーロット・コウ)が「ここははたらきすぎね。もうそんなにしなくてもいいのよ」と言うと私の鎖骨がそれを理解し、涙が出そうになった。「肩はらくにテーブルに落ちて来ます」と言われたので、ごそごそ肩を動かしていると、「何もしなくていいのです。ただそう思うだけでいいのです」。そうか、何もしなくてもよいテクニークとは、こんならくちんな方法はない。「ひざはどこにあるか思ってください」えーっ?そんなこと思ったこともない!でも、なんとなく、あの辺と思うと先生が「グッド!」と言う。
そうか、これは思うことのレッスンなのだ!(『地球人』No.11,2008)


 「ただ思うこと」のレッスン!ユズル先生の感動が伝わってくるような文章です。
「ただ思う」ということは、「思いを込めない」で「思う」ことであるかもしれない。それは「重く」なく「軽い」?!または「ふっと思い出す」感じかも。
 
 あるレッスンにおいてこんなことがありました。(椅子に腰かけている生徒さんに)

「頭のてっぺんってどこだと思いますか?」(私)

「このへんですか?」(生徒さん)(つむじより前をさす))

「(そのあたりを触れながら)ここだと何も変わらない。普段どおりですか?」

「ええ、まあ・・・」

「では、ここがてっぺんだとしたら(つむじのあたりに触れながら)、、、そう、そう、今、何か動いたの気づきました?」

「なんか首が伸びた感じがしました」

「そうですね!わたしにも見えました。そしてわたし自身の後頭部の、まわりの空気がやわらかくなった気がしました?!笑。面白いですね!」

「・・・・・」

「では、立ちあがって歩いてみてください」
(すぐに習慣的な動作(いつもの?からだ)にもどってしまうが・・・)

「今、どんな感じですか?」
「べつに・・・」

「頭のてっぺんってどこですか?」
「ああアア・・・!」
「おお!!」

「今、思い出した瞬間、動きが起こりましたね!」
「はい!」

「そう、それが、プライマル・ムーブメント(またはプライマリ―コントロール)(『原初的調整作用』)と呼ばれるアレクサンダーさんが発見した原理なんです」

ここで、マトリックスの台詞を思い出してみます。
「速く動こうと思うな。速いと知れ」

「速いと思うだけ」と言い換えてもいい?のでは、
厳密には「速い」もいらない。「思う」と「動き」が同時のような「思う」。
「動き」を「思う」のではなく、「思う」がそのまま「動き」。
映画ではさらにこういう台詞が続く。
「Come on! Stop trying to hit me and hit me!」
(「どうした!打とうとするんじゃなくて、本当に打て!」)

すると主人公は「思い方」?!に気づくという。
「打とうと考えることなしに打て」とういう訳のほうがいいかな。
もちろん映画では「マトリックス」という仮想現実の世界でのやり取りなのですが、これは現実での生活にも通じるテクニークです。

合気道の開祖、植芝盛平先生にも似たような言葉があります。
「力を抜くことです。しかし、力を抜こうとしてはいけません」(出典不明)

 中学生の時、弓道を少しだけ習ったことがあります。ある日、的を狙って弓を張っていた時、後ろから急に「離せ(放て)!」と声がして、思わず矢を放してしまいました。すると、矢の弾道が矢よりも先に的の真ん中に当たるのが見えました。一瞬その後を矢が通って的に当たりました。「よし(善し)!」と言われました。その方の名前は忘れてしまいましたが、大変偉い弓道家だったらしいです。後にオイゲン・ヘリゲルという人の『日本の弓術』(岩波文庫)を読んでその体験が腑に落ちました。ヘリゲルさんの場合は「的の方が矢に当たりに来る」⁈

「放そうと思わずに放す」ことが大事です。そんなことできるのか!ヘリゲルさんも師に言います。「じゃあ、誰が放すんですか!」。その「思い」も放すには?

「ぼくの舌うごけ、言うたときには、もう動いた後や、ぼくよりさきに、ぼくの舌うごかすもん、何や」(ある小学生の詩)(山田邦夫『生きる意味への問い』)

一方、「思えないことを思う(考えられないことを考える)箇の不思量底を思量す」ということについて、禅の語録には面白い問答があります。
そのことは次回に。拝

薬山が坐禅をしていたとき、ある僧が質問をした。

僧「ごつごつと坐禅して、どのようなことを考えておられるのですか」

薬山「何も考えないところを考えておる」

僧「何も考えないところを、どのように考えるのですか」

薬山「非思量だ」

(『景徳伝燈録』)


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