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アレクサンダー・テクニークと坐禅

『thinking』と『非思量』についての一考察②

 前回、矢が弾道より後に的に向かっていった話をしましたが、矢なので「弾道」ではなく、「矢道」であるとのご指摘、有難うございました。
「弾道」ということについて、思い出したことがあります。また合氣道の植芝翁の話ですが、モンゴルかサハリンか、忘れてしまいましたが、に行ったときに、銃で撃たれたことがあると。
その時、「殺気」が先にやってきて、それを避けたら、後から「弾」がやって来たと。
ほんと?!マトリックスだ!!(笑)
神業です・・・・

 一方の私はというと、あれ以来(といっても夏休みだけの教室でした)、「矢道」は一度も見えず、的に当たり損ねた矢は沢山で、当たる方が稀でした。しかしながら、的に対する態度が変わったというか関係性が変わったというか、「的にとらわれなくなった」とも言えると思います。「当てることに力を入れなくなった」。「自分の力だけでやろうとしなくなった」。「的」や「矢」や「弓」を「見る」というか「一緒にいる感じ」がしました。「親しくなった」ということでしょうか。
これが「思う」ということなんじゃないかな。とこの頃は思ったりします。

禅では「物我一如(もつがいちにょ)」なんて一足飛びに言ってしまいますが。

 草刈りをしている時に、どうしても腕が痛くなる。草刈り機のハンドルを強く握りすぎてしまう。「腕の力だけ」で草を刈ろうとしている。草を刈るのは「私」ではなく、草刈り機の「刃」です。「刃」を「思う」。すると、「腕に力が入らなくなる」。スムーズに草が刈れる。草もスパッと刈られて、苦しまない⁈「あっ!?草のことまで『思える』?!」(笑)。今までは草刈りを「草刈り機に任せてなかった」とも言える。「共に行う」、「協同作業」なんです。アレクサンダー・テクニークでは「ただ一緒にいる」という表現もしますが、「ただ思う」も同じところを言っていると思います。

さてさて、前置きが長くなりましたが、そろそろ「坐禅」の方に入りたいと思いますが、
それはまた、次回に(笑)

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