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金太郎飴

このところ読んだ批評や書評で 磯崎憲一郎
という名がいくつか見参され その記載から面白
そうだと感じて図書館である本を借りた 私の
町の図書館は人口は山梨の半分以上あるのに
蔵書がとても貧弱で そこに大きな不満がある
が 図書リクエストをバンバン出すのも憚られ
隣町の市や区の図書館を羨んだりしていると
いう余談 このくだり要りますか 要らなくても
特に文字稼ぎでもなくつい書いてしまうこのよう
な運びは現象としての名前が付いていたりする
か お筆先というのともちょっと逸れるか

借りた本というのが 金太郎飴 という小説以外
の氏の仕事集成と言った体の本で単行本二冊分
位に分厚い 少しずつ半月読んでいるが読み
終わらないうちに返却が迫ってきた と言って
読むのに骨が折れる難解な本とは一見して見え
ない 氏の小説作法は一貫していて 始めに
始まりの文章があって そこにつなげる文章
を考える その継続が小説になる というもので
最初にプロットとか構造 設計図みたいなもの
を考えない 書いているうちに小説が動き出す
のだという よく 創作物の中で登場人物が
勝手に動き出す といった神話というかよく言わ
れる言説があるがそうではない 小説そのものが 
小説を構成する文章が動き出すのだ それが
氏の主張だと読めた

それは自分が小説を書いているというよりこれまで
の文学作品の蓄積が作家という装置を使って
小説を書かせるのだ などと少し装置とか一時
流行った言葉などを使って書いてみたものの作家
のニュアンスと合致しているか格好をつけたために
違えていないかやや気にはなる 楽器をやった
ことがある人には経験があるかもしれない 色々
な奏者の真似をしているうちに誰それのフレーズ
が蓄積していって自分がインプロビゼーション
するとき端々に蓄積が顔を出す 過去の音楽の
積み重ねが自分の音楽として音を奏でる クラ
シック音楽に暗いのであくまでジャズやロックを
念頭に置きながら言っているが実際磯崎氏も
レッドツェッペリンのライブにおけるグルーブを
例に出しながら小説観について語っている

カフカ 保坂和志 ここの所読んだ現代小説が
たまそうだっただけかもしれないが いやカフカを
くぐった保坂和志と言った方がひょっとしたら近い
かもしれない ここの所の小説はそういった
雰囲気を纏ったものが多いように思える                乱暴に言うと今の小説の源流の一つ大きな
流れとして保坂和志があるのではないかという
見立て ドラマらしいドラマがなく人がドラマの
ためにドラマチックに死なない 殺されない い
っけん穏やかに見えて何か端々が不穏とか
違和感 表面的な刺激低め 磯崎氏は保坂
和志に小説を書くことを薦められたと明言してい
て彼の影響下にあるのかどうか まだ小説自体
を読んでいないのでわからない それで 氏の
芥川賞受賞作 終の棲家 と言う本を注文した
ワンコイン以下の安さだった 多分 今読んでい
る本の十分の一以下の厚さだろう

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