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しがらみから解放された自分

古くからの知り合いの詩人Tさんは師匠筋の
鈴木志郎康から 自分だけのもの を書くよう
繰り返し言われたそうだ 自分だけのもの を
誰にでもわかる言葉 で 丁寧に書く という
こと

人が何か 作品を書くときには その人の個人
的な現在の状況 いわゆる しがらみ に絡め
とられて その現実と作品内の現実をごっちゃに
して書くのではなく 作品の中の世界は現実
と切り離したうえで その世界の中での自分を
出していく それはきっと難しいことだが どう
しても現実世界の自分に引きずられてしまうだ
ろうが その葛藤が作品内に反映されるかも
しれないが 出来る限りしがらみから解放された
作品内の自分 と言う意識で作品をつくる と
いったことなのかな と私なりには考えてみた
実は その Tさんのツイートを読んだときに 意
味がよくわからなかった 昨日 以前書いたもの
を少し気になって探していたら メモ代わりの
コピペでそれを読んで こういうことかな と思っ
たのでこうして書いている 作中の人物になり
きってその人物で語る ということは しがらみ
を断ち切った自分の言葉 という事なのかと
思い至った

詩人の入沢康夫は 作者=主人公(作品内の話者)ではない
という事をひたすら言い続けてきた わかったよ
うな気になって ずっと気には留めていたが鈴木
志郎康は同じことを別の言葉で言い換えている
のだろうか こういう主張と言うのは 言わんとす
ることを言い当てる こうと断言することには そ
れほど意味が無いような気がする 主張を自分
なりに咀嚼して 極端に言えば曲解で構わない
と思うが 自分なりの血肉として作品に取り入れ
ていく 作品を作る時の考えに取り入れていく
というのが重要なのではないかとおもう

思ったことがそのまま作品のレベル というひ
とは天才 大抵は自分なりの作品のイメージ
手本 みたいなものを持っていて それっぽく
言葉を作り上げてみる 趣味としてはこのあたり
のレベルに作品は落ち着く 風変わりで ちょっと
読んだことないなと言うところは一歩芸術にち
かづいて そこから 共感が得られる または
共感が全く得られないが なんだか 誰が見ても
これは凄い となる作品になればこれはアー
チストレベルになる と言えるかもしれない
とりあえず 詩人 と言う自称を対外に発出す
るなら すくなくともそのレベルにあることは当然
になるだろう 私については放置をお願いいた
します

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