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やましいなつ

やましいなつ

本当ならばいちめんに稲の揺れる田圃が広がっているはずなのに、黒い玉が水面にひしめいていた。風なく、波なく、無数の黒い玉は左右左したり下上下したり、まったく落ち着かない様子、それがここ見渡す限り。触れようとすると逃げ、去ろうとすると寄り、ぶつかる音がぽーんと響けばそのあたり喜ぶようにぴょこぴょこする。この平野にもまもなく秋。とんぼは今年も空に高く多分。何という夏だろう。首筋に梵字のタトゥーを入れていた。私には関係もないと。彼女は真っ黒なショートボブに削りかけのうなじ。疚しい部屋。夏をただ見ているだけの。やけになってバスを乗り継いていたらこんなところへ着いてしまった。おそらく二度と来られない。何となくいじっているうち偶然直ったシステムとか、当てずっぽうの絶妙な味付けのようなご到着だ。畦を延々と転がっていく黒い球とすれ違っていく。幼い頃、母の故郷で見た、水栽培を思い出した。雑木林を開いた一角に、冬瓜の池が掘られていた。この地域特別なのだという。口外するなと。かつて一度、水に浮かんだ大量の冬瓜を目の当たりにした夏。玉々がひしめく忘れられまいと。

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