新聞の一日遅れ
風呂上がり 半裸で新聞を読むのが習慣 以前は朝
新聞を読んでいたが 単身赴任で新聞を取らず ひととき
習慣がなくなった かの地では山梨日日新聞というのが
ポピュラーな新聞なのだが 全国紙との内容の差異は
読んでいないのでわからない ツイッターの文学アカの
方では時々地方紙に掲載されました という詩人の投稿が
上がっているので それなりに詩のコーナーもあるの
だろうか 朝日でも夕刊では時折 詩の時評や作品が
載っているようだが読んでいないのでわからない 詩の記事は
昔から記事の埋め草的傾向が強かったが現在もそれは
変わっていないのだろうか
昨日読んだ新聞 私は前日の新聞を夜に読むので 現在からすると
おとといの新聞となるのだが 二つの記事が目に留まった
ひとつは高校生の投書 ひとつは今日の言葉 といったコンテンツ
だ
高校生の投稿はメルカリなどフリマ経済と環境問題について
メルカリで品物を売ると新製品の生産を押さえられるが 物流
コスト 梱包コストを勘案するとどちらが環境にやさしいのだろう
という疑問であった
面白いところに目を付けたな と感心するとともに 社会の仕組みってものをよく知らないのになんとなく偉そうだな と少し癪にも触る感じ まあ
こちらも年端が行っているだけで仕組みなぞよくわかっちゃいない
やや老害の入った盆暗者なので人のことを言えた義理はない
しかし その コスト比較というのは数値的に見るとどのような
物なのだろうか 物流はメルカリだけで動いているわけではないし
段ボールの生産がメルカリの発生でどのような変化をとげたのか
調べられそうで調べようがない感じがなんとも不思議な感覚を
呼び起こして胡坐で裸で そのまま少し固まってしまった
もう一つは詩人辻征夫の「詩人であるべく呪われている」という
自分に対する感覚と 詩人が嫌になって小説家になった という
その欄の筆者の説明である
私は辻征夫をほとんど読んでいないが その世界では洒脱な
ライトヴァース(軽い読み味の詩?)の書き手と言う評価の人と思う
この人が詩で食べていたのかどうかは知らないけれど 呪われている
と言う言いようからは自分の詩人としてのアイデンティティが確固な
ものであるという自負 心理がうかがえる あくまで個人的にではあるが
そこになんか 青臭さと言うか 文学的なナルシシズムを感じて
しまって 微妙な気持ちになってしまったというわけだ
たとえば 作家は 作家であるべく呪われている とは思ったとして
それを職業としているのだからそこに呪われ続けなければ
オマンマの食い上げで そういった覚悟を背負って渡世をしているのだと
思うが 詩に呪われて小説家に転向 ってなんだか読者を
軽んじてない? とかへそ曲がりだから思ってしまったという具合で
単純に 嫌ならやめればよくて そのあとは自分の中の詩人なんて
棄てちまえばいいだけの話 世の中のほぼすべての人はそうして
生きているというわけで 特別な自分を抱きしめながらの苦悩
なんていい大人が口外すること? と思ってしまったのだ
裸で 胡坐で
何篇か辻征夫の詩は読んでいるが 小説は読んでいない
今度 詩の苦しみから逃れた小説とやらはどんなものなのか
読んでみようでないかい? などと考えたりもする
あくまで今日の言葉 から抱いた印象で曲解かもしれませんが
今風に言えば「あくまで個人の見解です」ってなところか
なんだか 偏屈爺になっていくのがわかる 妻が最近
私をかなり憂いている
とここで付記します
ちょっと気になり当該記事を読み返してみた
折々のことば 鷲田精一
に書かれた記事
まず この記事は辻征夫に対して小沢信夫が言った言葉に対しての
記事である
「詩人でしかありえない」運命に疲れて その性をかかえた
まま小説家になりおおせた男
と小沢信夫が言っている と言う記事なので
辻征夫が自分を「詩人であるべく呪われている」などとは
一言も言っていなかった
言っていたのは「詩は体に悪い」と言う言葉
したがってこの記事は私の僻み根性からくる曲解も
甚だしいと言わざるを得ない かもしれない
辻征夫ほどの高名詩人であれば自己言及に詩人の
矜持が現れても当然かと思われるが何を私は
いきり立っているのだろう
つまり詩人は特別な存在でありその苦悩は常人には
わからないと上から人を見下そうとする態度が私には
鼻持ちならず(もちろん辻氏がそんな感情を持つことを
この記事から読み取るということは困難であり平たく言えば
一言も言っていない)それは私の中にそのような醜い
意識が確固として存在するからだと裏返されても
何も返す言葉が無いところでもある
とりあえず かなりのニュアンス違いが原記事から読み取れた
のでこの思いを書き加えておきます
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