午前中いっぱいのわが町の旅2
通りのはずれは以前は川べりの道まで建物が詰まっていたが、今は少し開けている。
そこに恐らく以前からある神社が立っていた。
神社の前はアスファルト敷きに白い線を引いた駐車場なのかその跡なのか車は一台も止まっていなかった。水天宮と鳥居の上に掲げられていて安産の神なのかと思ったが、遊郭と安産の取り合わせが少し奇妙に思えた。
さらに奥に行くと近頃建てられたと思われる立派で近代的な社があり、その前に何体かのとりどりの前掛けを付けた地蔵がお守りのように並んでいた。
駐車場には石碑や手水石というのか、神社にある石造りのさまざまな置着物が寄せられていたが、どこかに移転するための仮置きだろうか、それとももう不要になったのだろうか。
その疑問は川べりの大通りから駅への表通りへと曲がったところで判明した。
そうだ、ここの角には木の鬱蒼として薄暗い、古い神社が立っていたのだ。今はマンションになっている。マンションに建て替えられ、古い神社は近代化し、以前置かれていた石碑は駐車場に寄せられた。そう考えたのだがそれであっているだろうか。
古い神社の名残がマンションに囲まれ取り残されている。寄九十九樓と彫られた手水の石台が古い遊郭の名残を守る。
とにかく、みんなマンションになっている。暗い路地を入っていったところにある、独身のややサディスティックな女医がいたいけな私の可愛いお尻に決まって二本、ときに三本注射を打つ小児科やその界隈を形成していた古い小さな家は全部取り壊され大きな集合住宅と化している。マンション、マンション、古家、マンションという感じの街並みに所々大小の祠がたたずむ。そのような光景はやはり古い町場だからこそのものなのだろうか。
同じシタでも、住宅地と商用地を分けるように浅い川が流れている。この町にはこの川と江戸川と、二本の川が繁華街近くを流れているのだ。
二つの川とも、一番親しんでいた小学校の頃は黒く匂う汚い川だった。環境保全の高まりの甲斐あってか、今では都市の川にしてはきれいさは上々と思える。清流とはお世辞にも言えないが水は濁りをかなりひそめて、稲のような葉の水草が流れに方向を揃えて揺れる。そのなかに鯉や小魚が見え隠れするのがわかる。
大きな鯉は群れずに悠然として、小さめのものは何匹かで集団となっている。飼われているのではないれっきとした野鯉だ。本流の江戸川ではそうそう釣れるものではない。
岸辺に目をやると時折小刀のようにきらりと水の中が光る。小魚の群れだ。
あの小魚たちは何だろう。
ウグイか、ハスか。鮎ではないだろう。オイカワか、ワタカか。残念どれも外れのようだ。
写真に撮ったものを拡大してみてみたらどうもイナのようだった。つまり、ボラの子供。
背びれの位置と目の下の丸い模様から見て取れる。オイカワやハスはきれいだ。
ボラの子供もきれいだが飼うのは難しいだろう汽水域の魚。きっと泥底にはマハゼもいる。
しばらく川の柵にもたれて魚の遊ぶ様子を見ていた。
あー撮った。ぐるぐると道を回った。緑の零れ具合と道幅がやはり東京とは大きく違う。
それは後ろに土手と川が控えているかの違いと言えるのかもしれなかった。ならば葛飾や江戸川区はどうだ、といわれればやはり異質な東京だと思う。荒川べりもそうかもしれない。
多摩川べりも。親しい土地でないところについてはよくわからない。
わかり切った町並みであっても、午前中いっぱいの旅、と呼びたい。本物の旅には今出られないから。
帰りにダイエーのダイソーで木箱を何箱か買った。何色の漆で塗ろうか。黒に挑むか。
神社みたいな朱色にするか。
帰宅してエントランスで部屋番号を押すと案の定不在だった。機種変ごときで何時間もかかる。
だからスマホは嫌なのだ。あと、なぜか自分でカギを操作するのもなんとなく嫌い。人が待っている部屋に帰りたい。
うす暗い洗面所で手から腕に洗いあがると、腕時計の針が十分に蓄光されて薄緑にギラリと光った。
(案の定スマホの機種変で手違いがあったらしく、行った方が早い、と再び妻はカリカリしながら店へと向かった)
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