見出し画像

佐藤祐子舞踊研究所

ウェザー・リポートのアルバムでは『ブラック・マーケット』と『ヘヴィ・ウェザー』が特に好きなんだけど……なんて人は山ほどいそうだよね。

高二のときだったかな。ある日、私は佐藤祐子舞踊研究所を訪れたのだった。ギターを弾くだけでなくダンスも学ぼう……というような心がけだったわけではなく、そこは伯母さんちなの。もともとは親父の実家、つまり、じいさんばあさんの家であったもの。それを二つに分けて親父の姉夫婦と妹がそれぞれ住んでいるってなことだった。うちから歩いても15分か20分ぐらい。
彼女はモダン・バレエの人で、些かぶっとんだところのある人でしたよ。小学校の四年生ぐらいだったろうか。駅に向かう道をとぼとぼ歩いていたところ、向こうから緑白赤の三色に髪を塗り分けた変な人が歩いてきて、やばそうな人だな、関わり合いになりたくねえなあ、なんて思い、目を合わせぬよう俯き加減に進んでいたところ「あら、全ちゃん、しばらくねえ」なんて大声で呼びかけられたのだった。そう、ご想像のとおりでございます。件の伯母さんだったわけ。1970年ごろ、そんな頭してる人はこの町にはいなかったよ。というか、阿佐ヶ谷には金髪の人だって滅多にいなかった時代だよ。というか、今でも緑白赤の髪をしてる人なんていないやね。「メキシコに行ってきた記念にね、国旗の色にしてるのよ」だってさ。たまげたぜ。
二十年ほど前かな、派手に生前葬をぶちかましていたのも懐かしい。芸能人なんかも来ていたりして、陽気な会だった。にこにこわいわいしながら別れを祝す、生前葬ってのは存外いいシステムかもな、と思ったりもした。
小さい頃は年賀状の当選番号が発表になると弟と二人で呼び出されて当たりはずれをチェックする作業をやらされたものだった。やらされたと言っても、お菓子やジュースで歓待されて帰りにはお年玉ももらえるわけで楽しいイヴェントでありました。跨って乗れちゃうような、キャシーという名のでっかいコリーがいて、親戚の中ではキャシ伯母さんと呼ばれることが多かった人。
3年生の時だったか、あんたもバレエやりなさいよと迫られたこともあった。断りましたけれどね。
バレエの発表会をサンプラザや厚生年金でやることもあって、受付を手伝わされたりしたこともあったな。まあ、それなりのお小遣いをもらえたわけですけれども。

例によって、乱雑無章な記憶でとっちらかりましたが、さて、伯母さんちを訪ねたところに戻ろう。そこは二階が居住スペースで、一階は稽古場だったわけ。そんなに広いってことはなかったけれども、生徒さんたちにレッスンするには十分なスペースだった。天井も高いし、広々とした印象があった。
そもそもどんな用があったのか記憶定かではないけれども、とにもかくにも、こんにちは、なんつってお邪魔したところ、その稽古場にはそこそこのヴォリュームで『ブラック・マーケット』が流れていたわけですよ。びっくりした。当時の私の中にはこれはそれなりに時代の先端を行っているような、かなりイケてる感じの音楽だという認識があったから。五十歳ほどのおばさんがこんなの聴いてるのかよってな気がしたわけです。十六、七の小僧にしてみると年寄りのおばさんがこんなの聴いてるなんて意外だなあ、みたいな失礼千万な感覚。今になってみれば、五十歳どころか、還暦をとうに過ぎた爺さんたる私が忘れた頃にたまにピストルズを聴いたりしているわけで、五十なんて十分にヤング(?)じゃん、何だったら、まだまだ青いぜ、ぐらいに思えるんだけれどね。今ならば。
当然のことながら、ウェザー・リポートはかっちょいいですよね、みたいな話で盛りあがった。ドビュッシーやショパンを中心にした軽やかなピアノものが好きだったんだろうなと遺されたレコード群から推測している。そんな彼女がどういう経緯でウェザー・リポートと出会ったのか。ふむ。大きに気になるところだよね。
先に書いたようにサンプラザで発表会を行ったりしていたので、会場側にそれなりに仲良くなっている人がいたんでしょう。彼らが来日したときにウェザー・リポートってバンド、すごいから観る方がいいですよ、と入れてもらったそうだった。おそらくはロハで。んでもって、すっかり気に入ってしまったんだって。生ショーター、生ジャコをみたのかあ、おれも呼んでくれればよかったのにぃ、なんてなことを思った。終演後、楽屋も覗かせてもらったそうで、羨ましい限りだぜ。ねえ。

遺品を整理していて何枚かのウェザー・リポートのLPもみつけたが、あの日かかっていた『ブラック・マーケット』はそこにはなかった。探し足りないのか、あるいは、誰かに貸したままになっていたりするのかもね。
ちょこちょことメモが書かれているルーズリーフが何枚もアルバムに挟まっていた。どうやら自分の公演で使っていたみたいですね。日付が並べられてそこに二重丸がつけられたりもしていて、それはレッスンの出来を示すものなのか何なのか、もはやわかりようもないわけだけれども。

そんなこんなを思い出しながら、引きあげてきた『ヘビー・ウェザー』をターンテーブルに乗せた。ここ十年ほど、病院や施設、身辺のあれやこれやを手伝ってきたわけだけれど、あの日からあと、ウェザー・リポートについて話しあったことはなかった。人がいなくなるとさ、もっといろいろと話しておけばよかったな、と思うことが多い。家族でも友だちでも。まあ、でも、どんなにたくさん話しあっていた関係であったとしても、やっぱり、もっと話しておけばなって思うものなんだろうとも思う。
何はともあれ、伯母さんの言葉で一番しっかりと記憶に残っているのは「あんたねえ、長生きも楽じゃないのよ」ってやつ。95年の生を全うしたいま、向こうの世界で何を思っているだろうか。

昭和2年に建てられたこの家はじきに取り壊しになるのです。ふむ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?