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死 is watching you

死はいずれやってくるので、死を受け入れる気持ちを持たねばならない。ということはなく、どんなに拒絶しても死ぬので、受け入れる受け入れないは関係がない。ただ死が我々の人生の行路の終点としてデカデカと横たわっているだけである。横たわっているだけの死へ我々が自分の足で歩いて行くだけである。

と、そんな風に偉そうに言ってみても、私も実際に自分の死を自覚すれば恐怖を感じ取り乱すかもしれないし、もしくは「そうか」ぐらいの感慨しかないかもしれない。今の気持ちは「まだ死にたくない」に傾いていて、何故死にたくないかというとインターネットの面白い物体、アレ、概念、出来上がったもの等を享受していたいからである。死の恐怖に関しては、人間は死に臨むとき脳から色々と報酬物質的なアレが放出されて安楽を迎えるらしいので、それらの真偽は断言されてないが、あまりない。ただ、勿体ないなあとか残念だなあという漠然とした感覚がある。

元々人のため、家族のため、国のために頑張ろうという感覚が自分が認識している限りにおいては薄く、その為に色々とやらかしたりしたが、それ故に安楽でいられたところもあるかも知れない。

死の恐怖も苦痛も、というか人生そのものも150億年近い宇宙の歴史で見れば塵のようなものだし、とにかく我々の人生は無である。無なのでどうでもいいものなのであるから、死もどうでもいいと考えれば、安楽がその後から来る。つまり何が言いたいかというと曖昧に生きて曖昧に死ぬのが一番だねという話である。巨頭オである。

個人的に春のうららかな晴れた日に、こたつの中で曖昧に昼寝していて、そこから曖昧に死んでしまいたいというのが理想である。

何か大きいものを残してもいずれ莫大な無がやってきて無にするので、あまり理想や野望に燃えて人生を犠牲にして精神を痛めつけるのは良くないと思う。ただ、理想や野望に燃えて人生を犠牲にして精神を痛めつけて作られたものはとても美しく素晴らしいので、それも一つの人生という形で肯定されるべきだと思う。結局のところ死は全てを許すので、人生は何をやってもいい。といっても殺人や虐待、破壊行為はすべきではないが、結局人生の終末に訪れる死を前にして我々は何も言い訳出来ず許されが発生し、そして自分も許すを発生させるのだろう。

24歳で大した人間でもないのに達観したようなことを言うのは良くないと思うが、何故良くないのかは自分でも説明できない。良くない良くなくないは正直どうでもよく、ただこういう主張をしておくと精神が安定するので、言っているだけである。今まではこういうことは自分の頭の中で片付けていたが、インターネットに形として残しておけば忘れた時に見返せるので書くことにした。この心境もいずれは変化して「死は悪である!人類は不死を得なければ!どうしたらいいですか?」とか言い出すかもしれないが、その時はその時だし、どのみち莫大な無に呑まれて曖昧になって土と一つになり、その土も宇宙と一つになるので心配はやめましょう。

「人生は死ぬまでの暇つぶし」という言葉があるので、それを考えながら死を見つめましょう。終わり。


【まとめ】いかがでしたか?メメントがモリになったでしょう。我々はやっていく。

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