オリンピックだから記録の話しをしよう~可能と不可能の境界線~

現在の男子100m走の世界記録は2009年世界陸上第12回ベルリン大会のウサイン・ボルト選手の9秒58らしい。

乗り物を使えばもっと早く100m走り切ることは可能だろう。

だがやはり、「世界最速の男」の称号は己の肉体をもって100mのゴールラインを駆け抜けた者にこそ相応しい。

さて、世界陸上の記録でチェックしていくと、その前はカール・ルイスの9秒86という記録が出てくる。
第3回大会、1991年のことだ。
ルイスはアメリカ陸上界のスーパースターだが、どうだろうか、今から33年前の話しだ。
30以下の人にとっては生まれる前のことだから、ある程度陸上に興味がないと、名前も知らなかったとしても不思議はない。

だとすると、ルイスをはじめとする過去の「最速の男」たちは、もう顧みられることのない無価値な記録の保持者になるのだろうか?

──おそらく皆さん咄嗟に、そんなことはない、と思ったことだろう。

どうして自然にそういう感情が呼び起されたのか。
今回の記事ではそれについてちょっと書いてみたい。

※ ※ ※

記録は積み重ねだ。

現実世界には可能と不可能がある。
今後どんな神のごとき才能を有する者が現れたとしても100mを5秒で駆け抜けることは不可能だろう。

では8秒だったら? 9秒は? 9秒50なら?

つまり、9秒58から9秒だか8秒だかのどこかに本当の不可能がある。
もしかしたら9秒58がその境界線で、もうボルトの記録は不可侵の領域に達しているのかもしれない。
2009年からもう15年も破られていない記録なのだからそういう可能性も否定できない。

ここで9秒57の記録が生まれたとしよう。
この0.01秒は単なる0.01秒ではない。不可能の壁を破った0.01秒なのだ。

かつては10秒を切るのがやっとだった。
その記録を僅かずつ、数多の「最速の男」たちが人類の壁を超越すべく縮めていったからこそ、今の記録がある。

記録とは人類の文化そのものだ。

記録があるからここまではいけるという境界線がわかる。
おそらく記録が存在していなかったら、人類はまだ10秒の壁も突破できていなかったに違いない。

私はいま人類全体について語っているが、個人における自己ベスト記録も同じだ。
不可能が可能となり、次の超越への足掛かりとなる、真の不可能の頂へ向けての一歩だ。

だから、すべての記録は尊いのだ。

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