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能を観に行った話(鑑賞編)

3月15日(金)ついに能をこの目で初鑑賞してきました。
はじめて目線でいろいろ雑多に話をしていきます。
私が能を見に行こうと思い立った経緯などは既に公開済みの準備編で話しています。良かったらご覧になってみてください。

おさらいでさらっとまとめると、風姿花伝の読書を締めくくるためです。


国立能楽堂

非常にわかりやすい立地で、初訪問でも迷う要素はないです。
JR千駄ヶ谷駅の改札を出て右(西)へ線路沿いに歩き、国立能楽堂前の信号の目の前にあります。
私が改札を出ると、ちょっと先を和服姿のおばさまがしずしずと先行していて、スーツ姿のおじさんは場違いになってしまうのかと若干不安になりました。
開演30分前に現地に到着し、まずは建物内を一周してみます。
能楽堂の他に売店、資料室、あと食事処もありました。
ここでじっくり食事して能を観るのもよさそう。
せっかくなのでなにか形に残しておこうと、パンフレットを700円で購入しました。
月1で出しているパンフレットのようで、3月の演目とそれについてのあらすじ、詞章が記載されています。
もし仮に今後また「隅田川」を観ることがあったとしても、流派や演者は異なるでしょうから、全く同じ能を再び観ることは基本的に叶わないのです。
パンフレットはその記録にもなります。

資料室では貴重な能面の実物を間近で見れました。
無表情でやっぱ怖え。能はもとが神事という知識もあってか、私には厳かさや神々しさも感じました。

入場について

開演15分前に着席し、パンフレットをパラパラめくりつつ、今や遅しとその時を待ちます。
入場する時間ですが、遅くとも5分前までには着席しておいた方がよさそうです。
開始直前になって三々五々観客がやってくる、といったことはありません。
ブザーが鳴る時間には満座仕上がっている状態でした。遅刻厳禁です。

改めて開演直前に場内を見回してみると予想通り年齢層は高め。
一番多いのは、定年退職後でいろいろ余裕がありそうな方々。
ちらほら見かけるのは私が能楽堂へ向かうときに見かけたような和服姿のおば様方。
外国の方も何名かいました。

服装は極端にラフな格好とか被り物をしているとかでなければ問題なさそうです。
スーツ姿のおじさん、セーフです。

字幕システム

座席の背面に液晶パネルが備え付けられており、そこに台詞が表示されるうえ、演目の進行に応じてリアルタイムで台詞が切り替わります!
つまり、事前のお勉強は必要ありません!
表示されるのは古文で、細かい意味までは把握できないこともあるでしょうが、少なくともいま目の前で何が行われているのかは大体わかります。
5年くらいまえに国立能楽堂で観劇した人に確認したところ、当時は字幕システムがなかったそうです。
また、その人によるとオペラの劇場ではこんなようなシステムがあると聞きました。
ちなみに最前列の場合はシートの脇に格納されていているパネルを取り出して使います。

狂言の感想

今回観たのは長刀問答(なぎなたあしらい)です。
あらすじをパンフレットから引用します。

長刀問答あらすじ
季節は春。
参宮(伊勢神宮への参詣)を思い立った主は、留守番の太郎冠者に「自庭の桜を見物しにくる客を<長刀問答>しておけ」と命じて出かけます。
受けあったものの、「長刀応答」の意味を知らない太郎冠者。
客がやってくると、太郎冠者は長刀を手に取って振り回しはじめ……。

狂言は台詞がわかりやすく(時代劇レベルよりちょっと古い程度)、動きもコミカルで観ていて楽しいです。
今回で言えば、太郎冠者が主人から役目を仰せつかったときの、元気はいいが絶対わかってない感じとか、大仰に長刀を振り回して客が逃げていく様子など。
明るい笑いというか、勘違いしちゃったねというだけで、必要以上に誰かを下げたりバカにしたりで笑いを取らないのが良い。
落語のようなオチがつくわけでもなく、ひねらない素直な笑いです。

能の感想

角田川(すみだがわ)です。
金春流では隅田川をこう表記する流儀なのだそう。
こちらはちょっと長くなりますが、皆さんに是非内容を知ってもらいたいので、長刀問答同様あらすじをパンフレットから引用します。

角田川あらすじ
舞台は春の角田川。角田川の渡し場に、都からの旅人と女がやってきます。
女はわが子が人商人に拐かされたため心乱れ、わが子を探し求めて京都北白河からやって来たのでした。
渡し守は女に、「面白く狂って見せれば船に乗せよう」と言います。
女は白い鳥を見て、在原業平の東下りと己の旅を重ねながら、乗船を懇願します。
その姿に心打たれた渡し守が、女を乗せて船を出すと、対岸から大念仏の声。
渡し守は、歩けなくなって人商人に捨てられこの地で死んだ少年の供養だと言います。
奇しくも今日がその一周忌。
すると、女はにわかに取り乱し、渡し守に少年の特徴を問いかけ、その少年こそわが子梅若丸だと嘆きます。
女は梅若丸の母親だったのです。
渡し守は、母を梅若丸の塚(墓)に導き、皆と一緒に念仏を唱えるように勧めます。
深い悲しみに打ち沈む母が鉦鼓を鳴らし、念仏を唱えながら弔っていると、塚の内から梅若丸の幻が現れます。
母子は互いを求めて近寄りますが、触れ合うことは出来ません。
やがて東の空が白み始め、夜明けと共にわが子の幻も消え、母の前には草茫々の塚があるのみでした。

話のクライマックスは地謡の南無阿弥陀仏に交じって梅若丸の南無阿弥陀仏が発せられる瞬間でしょうか。
そこから子方を追うシテの動きを経て夜が明け、追いかけた我が子が幻だったと悟り、草茂る塚に向き合うラストシーンはあまりにも哀しい。
梅若丸がその場に居合わせた人々の妄想の産物であるか否か考察するのはあまり意味のないことです。
念仏の力が母と子にひと時の邂逅を生じせしめたと私は解釈します。
一般的な能とはやや趣の異なった筋立てで一度観た人は忘れられない演目です。
奇跡の演出に仏教が用いられている点に馴染みがないだけで、お話そのものは現代でも通じる内容だと思いました。

初鑑賞で感じたのは、能がそれまでの日本文化を集大成した総合芸術だということです。
和歌、王朝物語、軍記物語、謡曲、舞踊、など。
これらの要素を日本的様式化抽象化で一個の舞台芸術にまとめあげたのが能なのです。
そのため内容を深く理解するにはこれらの素養が必要で、決してわかりやすいものではありません。
しかし仮にわからなかったとしても、それはそれでいいと思います。私もよくわかりませんでした。
芸とは畢竟、心なのですから感じるままに楽しめばいいのです。

それと、舞台での鑑賞後に動画を何本か見てみました。
まっったく違いますね。
もし、先に動画で見ていたらチケット購入に至らなかったかも知れないです。
なんででしょうね。
地謡の音波を浴びれないからでしょうか。
とにかく別物です。

拍手
能で終了時に拍手するかしないかはわりと話題になるようです。
今回の公演で実際にどうだったかというと、シテの退場後にぱらぱらと拍手がありました。
三分の一くらいの人が控えめに拍手していたでしょうか。
私はしませんでした。
正確には、しませんでしたというより、するタイミングがありませんでした。
実際に能を観るとわかるのですが、幕が下りるとか(奥に幕がありますが)、役者が演技を終えて素の自分に戻るといった、明確な終わりの瞬間がないのです。
シテが最後の運歩を終えると演目としては終了となるわけですが、シテは演技を止めていません。
その後も波が引くように、静かに登場順と逆に退場していきます。
では拍手をしたらマナー違反なのかと問われればそういうわけでもなさそうなので、自分の心に従って表現すればいいでしょう。

最後にちょっと思ったこと
書くかどうか相当迷ったのですが、書かせてもらいます。
角田川のシテの本田光洋さんは明らかに高齢で限界を感じました。
演技が悪かったわけでもないですし、いまは健康寿命も上がってきていて単純に年齢でダメだしするわけでもないのですが……。
伝統芸能だとは言え、興行でもあることを忘れてはいけないと思います。

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