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経営者でした

私は一時的に経営者であったことがあります。いわゆる「社長の息子」でしたから、28歳で58歳になった父から社長の座を譲り受けました。父は会長となりました。

私は、社長として妻と結婚しました。両家が大枚をはたいて、名古屋東急ホテルで華々しく結婚式を挙げました。あれが、人生のピークであったのでしょうか。

しかし、社長になって2年も経たないうちに、家業をたたみました。いや、実際たたんだのは会長であった父であり、私と専務の兄はただ指を加えて見ているだけでした。

経営を継続する資金が不足していたのです。父と良好な関係を続けていた隣接する会社の社長が援助してくれていたので資金繰りができていたに過ぎなかったのです。その会社の管理を任された大手商社の役員が、利益をあげない我々の会社を切れとすすめたことで資金援助を得られなくなり、会社をたたむしかなかったのです。

1994年当時、我々のような小さなアパレルメーカーには大変な時期でした。安く縫製をする生産地として中国が台頭してきたからです。当時の中国製の品質はひどいものでしたが、我々のような国内メーカーよりも圧倒的に安い工賃であったため、商社や小売店に品質の違いを理解してもらえなくなったのです。

では、どうするべきであったのか?

私は海外生産へシフトすることができませんでした。飛行機の着陸時に鼓膜を破ったことがあるほど、先天的に耳管に奇形があったのです。中国に頻繁におもむいて、品質向上に陣頭指揮を取る自信はありませんでした。また、兄も私も所帯を持ち、父母を含めて異なった考え方の中進めていく家業運営にも自信がありませんでした。

結局、32歳の私は「会社をたたむしかない!」と決断したのです。兄は従うしかありませんでした。大変だったのは、事実上の経営者であった父でした。銀行・社員・仕入先・お客様等の利害関係者に頭を下げ続け、何とか倒産をまぬかれ、清算という形に持ち込んだのにはさぞ骨が折れたことでしょう。

まあ、経営とは何かということがわかっていないまま社長になったのですが、父も私も誤った判断をしたものです。私は父が大好きですが、会社経営としては一本筋の通った柱のようなものがなかったと思います。今ではわかりますが、「経営理念」が明確でなかった。よって30年に渡り規模の拡大のみに走り、脆弱な経営基盤を強化することに思い至らなかったのです。「売上を上げればよい!」という間違った経営の行末は、ニーズのない不良在庫の山でした。

私の唯一の経営判断が、「家業をたたむ」というものであったわけです。果たしてその判断は正しかったのか?ぼろぼろになるまで継続を目指すべきではなかったのか?

年齢の高い一族で経営を続けた会社は方向転換ができず、ほとんどが倒産という道をたどったのです。夜逃げや自殺を図ったところもありました。父母も兄一家も私たち夫婦も、未だ生計を立てて生活ができていることを考えれば、結果的には正解であったと思うのです。もちろん我々を援助してくださった関係者の皆様には今では申し訳ない気持ちでいっぱいではあります。ただ、社員全員が転職を果たせたと聞いたので、早期決断により最低限の責任は果たせたと思うしかないのです。

一本筋の通った「経営理念」に支えられていない会社は、変化に対応できません。「力のないものは去る」のが、世の中のおきてであるのです。

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