ポラーノの広場(宮澤賢治)

 TVで宮澤賢治特集があってもスポットが当たらず、「銀河鉄道の夜」や「風の又三郎」のように映画化された作品と比べても、知名度が今一つなのが、この「ポラーノの広場」。

 じゃあ、この童話があげた代表作とされるものと比較して見劣りするのかと言われれば、そんなことはない。賢治特有の美しい情景描写に溢れているし、キャラクター達も個性的で多彩なメンツが揃っている。では、何故、この童話がメディアや教科書で紹介されることは無く、私たちの目に触れることが少ないのか?

 この作品を「童話」と書いたが、正直その冠が適切かわからない。「童話」というにはあまりにもリアリティー、それも抜き差しならない現実味に貫かれている。

 ストーリーは博物局の下っ端役人キューストの体験したこととして語られる。キューストは逃げたヤギを連れ戻してくれた少年ファゼーロと親しくなる。ファゼーロは、地主に虐待されながら働かされており、たった一人の肉親の姉ロザーロも街の有力者ではあるが悪評の絶えないデストゥバーゴ(通称山猫博士)にもうすぐ嫁がされていくという境遇の少年である。

 ファゼーロは昔話に語られている桃源郷のような「ポラーノの広場」の存在を信じており、「みんなを連れて行ってやりたい」との思いから、親友の羊飼いミーロと保護者としては少し頼りない語り手のキューストと供に夜の森に探しにいく。

 まず、この道行きが楽しい、ファゼーロとミーロは「銀河鉄道の夜」のジョバンニとカムパネルラのような仲睦まじい様子を想起させるし、懐疑的ながらも二人についていくキューストは、そのまま読者の視点になる。

 子どもにしかはっきりとわからない花に書かれた番号や遠くから聞こえて来る楽器の音を手掛かりに「ポラーノの広場」を探し出そうとする姿は特に幻想的で、二人に付き添えるキューストが羨ましい。しかし、そんな道程も山猫博士の馬車別当の登場で不穏な空気が立ち込め始める。この陰気な爺さんは、二人の少年の幻想を崩すような発言をする。

 そうこの作品では少年たちが持っていた幻想を残酷な方法で殺してしまうのだ。そここそがこの物語を貫いているリアリティなのだ。

 馬車別当の宣告も振り切り、数日かけて三人は「ポラーノの広場」にたどり着くが、そこは言い伝えの夢の場所ではなく、山猫博士が取り仕切る選挙の票集めを目的とした盛り場だったのだ。(しかも、振舞われるのは密造酒)

 夢破れたファゼーロは、山猫博士に侮辱され、決闘し勝利するも、その後、行方をくらましてしまい、この一件以来、怪紳士山猫博士も姿を消す。キューストは、年少の友に色々と世話を焼こうとするが、「大丈夫だ」と答えるファゼーロが切ない。心配事や不安が沢山あるのに、人に迷惑をかけまいと毅然としてみせるのは、少年が大人になる瞬間を見るようなものだ。

 そして事件からだいぶ経ったある日、キューストは出張先の毒蛾の舞う街で山猫博士を見つける。威勢の良かった山猫博士も、今ではすっかり落ちぶれ、キューストの同情を買うような発言をしてみせる。ファゼーロとは大きく異なる情けない姿である。

 出張から帰ったキューストは、ファゼーロと思わぬ再開を果たす。別の街に行き、革を染める技術を身につけて帰って来たファゼーロは、自分の工場にキューストを誘う。その工場は、山猫博士が残した密造酒工場を利用したものであり、姉もミーロもそこで働いている。

ファゼーロが自分たちの将来の展望を語るのが嬉しい。道中、山猫博士は落ちぶれておらず、やはりとんでもない食わせ者であることが発覚するが、何故かそれすらも嬉しいのだ。

 聞けば工場は「ポラーノの広場」があった少し先にあるという。広場のあった場所でも、その手前でもなく、少し先にあるということが大事なのだ。

 ファゼーロの少年期の幻想は破られたが、その幻想の少し先に理想を打ち立てるファゼーロの青年期が始まったのだ。

 この複雑な物語を童話と呼ぶべきかわからない。

しかし、ここまでリアリティーのある話を相変わらずの優しい口調と眼差しを持って語れるのは、宮澤賢治が類稀な童話作家であるからだろう。

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