オツベルと象(宮澤賢治)
中学校の国語の教科書で初めて出会ってから、賢治作品を自分でも買ってみるなどして何度か読んできた作品。
「読む度に何か新しい発見が!」とも言いたいけれど、教科書や文庫本の解説やらを読んで何となく「そうなんだ」という感想しか持とうとしなかった。が、他の賢治作品や外国の童話などを読んでいるうちに気づいたことがチラホラと出て来たので書いてみようと思う。
ストーリーとしてはずる賢い経営者のオツベルが、ある日、フラっとやって来た白象を騙し、あの手この手で過酷な労働をさせ、最終的に白象の仲間の象達に逆襲されてしまう。
オツベル自体はまるでどこかのブラック企業の社長のようだが、物語はそんな経営者を持ち上げる「オツベルときたら大したもんだ」という文句で始まる。そして、この作品でのオツベルの評価は、彼が象達に押し潰されても変わることはない。白象の悲惨な様子は描写されるが、語り口はオツベル寄りに終始している。
これは賢治作品の中でも珍しいのではないか? 賢治は多くの作品でこういった経済一辺倒の人物を批判し、自然界の側に立ってきた。そのいい例が「なめとこ山の熊」である。
熊捕りの小十郎は、生きるために仕方なく熊を殺し、毛皮と肝をとる。しかし、なめとこ山の熊たちは皆、小十郎が好きであり、山で暮らす仲間として認めている。そのことが何とものどかな語り口で描写される。しかし、小十郎が持ってきた毛皮と肝を二束三文で買い叩く町の荒物屋が出て来ると、語り口には激しい嫌悪が現れる。しかし、待ってほしい、オツベルと荒物屋の主人は根本的に同じ人物なのだ。この差は何か?
それは語り手の違いである。賢治作品の語り手は三人称で、巨大な岩だったりカワセミの剥製から聞いた話であるなどといった前置きがつくことが多い。「なめとこ山の熊」も正体はわからないが自然界の側に寄り添った語り手だ。しかし、「オツベルと象」はある牛飼いの語りということで展開される。この牛飼いの語りというのが重要ではないか?
最初に読んだ時は牛飼いが近所の子供達に向けて話している情景を思い浮かべたが、今は仕事中に同僚と話している情景として思い浮かぶのだ。牛飼いというのは動物や自然と向き合う仕事をしているが、牧場主などに雇われて他人の牛の面倒を見ている場合が多いだろう。そういった意味では、猟師の小十郎よりもっと経済のの中、歯車の中にある職業なのだ。もしかしたら、牛飼い自身もいずれはオツベルのような経営者になって、人を使って稼ぎを得たいという野心を持っているかもしれない。そのような人物の視点だからこそ、経済の頂点にいるオツベル、やり手のオツベルは理想の存在であり「大したもの」なのである。
もしも、語り手が白象の仲間の象であったら、白象がいかに惨めで、オツベルがいかに非道かを語ることになっていて、好意的な評価をオツベルに下すことはないだろう。同じことは「なめとこ山の熊」にも言える。語り手が荒物屋の従業員だったら、「うちの旦那はやり手で、この間もごっつい猟師から熊の毛皮と肝を買い叩いた」という語りになっていただろう。
賢治は庶民や農民の生活の向上を目指していたが、彼らの純粋さだけに目を向けていたのではなく、彼らの野心もこの作品で肯定したのではないか?彼らの暮らしぶりを肌で感じていたからこそ・・・。
たが、オツベルのような行き過ぎた存在に憧れる気持ちも、最後の一文で戒められる。
「川へ入っちゃいけないったら」
川に入るということは道から外れること。
「オツベルっていうのはやり手で大した奴だったけど、道に外れるようなことしちゃダメだよな」
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