『生奪剣 全』
~あらすじ~
【生奪剣】本編
色あせた着物と枯れ木のような青白い体躯。
それに見合わぬ業物を腰にした剣士は、行き倒れていた所をある男児に救われ……
【武路鷹羽の剣術試合】おまけ
年に一度、武路鷹羽はある男との勝負を繰り広げていた。
今年はついに七度目の勝負。今年こそは勝利せんと望む鷹羽だが……
おまけのみ有料ですが、本編だけでも問題なくお楽しみいただけます。
生奪剣
「おっと、この先へ通すわけにゃいかねぇな」
声をかけられ、無縁は細い目を更に細めた。
かんかんと太陽の照りつける、昼中の山道でのことである。
木々の裏から、無縁の周りを取り囲むように現れたのは、人相の悪い五人ほどの男たち。
山賊であろう。経験からそう理解する無縁は、さらりとその山賊どもを見回した。
脂ぎった顔に、乱れた無精髭。服はどこか薄汚れていて、手にした刀は……盗品なのだろう。大した手入れもされておらず、刃こぼれや錆が目立った。
(あれで斬られれば痛むだろうな)
無縁はそんなことを思いながら、山賊どもの頭領らしき男に視線を戻す。
「すまないが、見ての通り私は貧乏浪人だ。金はないぞ」
そして、ため息混じりに口にした。
事実、無縁の風体は山賊どもより数段酷い。
顔は幽鬼のように真っ青で、生気がない。穴の空いた着物は元の色が分からぬ程度に褪せ、赤茶けた汚れが染みついている。草履もほとんど擦り切れて、履いている意味を問いたいほどだ。
「そうだろうな。が、その腰の物は見逃せねぇ。業物じゃねぇのか」
山賊の頭は、無縁の腰に目を向けた。
無縁の腰には、一歩の刀が下げられている。鞘は黒く汚れているが、よく見れば細かな装飾がなされているのが目に付いた。
なるほど、目敏い。無縁は感心しつつ、さてどうしたものかと考え込む。
「そいつを置いて逃げるなら、バカにはするが命は取らねぇ。断るんならカラスの餌だ」
ニタニタと汚い顔に笑みを浮かべる山賊頭。無縁はけれど、あっけからんとした様子で答えた。
「渡したいのは山々だが、無理だ。諦めてくれ」
「無理だと? そいつはアレか。テメェが尻尾巻いて逃げ出す様を見られねぇってことだな?」
きっぱりとした無縁の返事に、山賊頭は苛立ちを露わにする。
彼にしてみれば、慈悲を見せたつもりなのだろう。枯れ木のような貧乏男一人、わざわざ殺す価値も無い……と。
「バカだぜ、テメェは。命と刀、どっちが大事かなんざ分かり切ってるだろうによ」
「どちらも私には不要だとも。けれど、私の一存では手放せない」
「……イカれてんのか? まさかオレたちを返り討ちに出来るとか思ってんじゃねぇだろうな」
山賊たちが含み笑いしながら、じりじりと無縁との距離を詰める。
無縁の体には、肉らしい肉はほとんど付いていない。食い扶持にも困る有様で、五人の荒くれを相手に戦えようハズもないだろう。山賊たちはそう判断していた。
「やれぇ!」
頭の一喝と同時に、四人の手下は刀を無縁へ突き立てる。
……否。突き立てた、はずだった。
「足らぬ。そんなものだろうと思ってはいたが」
山賊共の刀は、四本中四本がただ宙を刺しただけである。
無縁の体には、傷一つ付いていない。
「っ……何をした!」
「なにとは。単に刀の向きを変えただけだが」
無縁は、腰に提げたままの刀の鞘で、山賊共の刀の切っ先を軽く小突いただけだった。
荒くれ共の刺殺は、ただそれだけで失敗に終わった。
「こいつ……!」
頭領にとって、無縁の実力は意外なものであった。
腐っても、いや枯れてもサムライという事だろうか。
けれども、ただ一撃仕損じただけに過ぎない。頭領はふんと鼻を鳴らし、刀を握る手に力を籠める。
「……やめないか。お前たちに私は殺せない。私はお前たちを殺したくはない」
「馬鹿にしやがって! テメェみてぇな枯れ木一本折れねぇオレたちだと思うのか!」
「本当に、困るんだが……」
無縁の生死を聞かず、山賊の頭領は力に任せて刀を振り下ろす。
小突いて切っ先を変える事は、力の差から難しい。ならば避けるか。ふわりと思考を巡らせる無縁だが、逃げ道は既に四人の手下の刀が塞いでいた。
(慣れている)
数の優位を心得ている。目利きの良さといい、ただの山賊と言えど、そう侮ったものではないのかもしれないと、無縁は光の無い目で彼らを見る。
(それでも、命を遣るには弱過ぎる)
無縁は一瞬、目を瞑って考えた。どうすべきか、と。
答えは考える前から明白であった。抜く他ない。
「……不運だな、お互いに」
ため息と共に口にして、無縁は刀の柄に手を掛けると……
すぱん。水を叩くような音がして、数拍の沈黙。
「あ……?」
血が噴き出したのは、山賊頭が呟いた直後の事だった。
五人の山賊の、刀を握る腕が計十本。
その悉くは、無縁の刀の一振りによって、紙を裂くより簡単に斬り払われていた。
「これでまた、幾分か長引いたな」
無縁は抜いた刀を一瞥もせず、そのまま鞘に納める。
鮮血が滝のように溢れ出る中、無縁はその飛沫を顔に浴び、浮かない顔で歩みを再開する。
頬に跳ねた血を拭うと、無縁の顔には、先刻は無かった血の気がほんの少し戻ってきていた。
「まぁ……仕方がない。今の内に、私も喰えるものを探しに行こう」
ちらりと、納めた刀を尻目に、無縁はわざとらしく口にする。
「お前の寄越す命より、飯の方が私には大事だからな」
続ける言葉に、返答するものはいない。
*
「……なぁ、これは……生きていると思うか?」
「行き倒れでしょう。骨と皮ばかりです。放っておいていきましょう」
「いや待て、動いたぞ。指の先が動いた!」
男児が叫ぶと、老人は観念して足を止めた。
彼が見ていたのは、赤い日で照らされた、青白い肌の痩せこけた男。
道端に倒れ微動だにしないそれは、老人の目にそれはただの死体にしか見えなかったが、男児には命の火が見えたのかもしれない。
常ならば、その観察眼を褒めてやりたいと思うところだが……老人の顔は、浮かない。
「それで、どうするのですか、若」
「無論助ける。川が近くにあったな? ひとまずそこに連れてくぞ」
「……そんな時間は……」
「人道に悖る真似は出来ん。それが父上の教えだ」
諭そうとした老人だったが、きっぱりとした男児の言い様に言葉を失い、やれやれと頷く。
男児のそれは、普段であれば賞賛すべき行いだった。
生まれに驕らず、命を貴ぶ態度を、老人は誇らしくさえ思う。
それでも老人が喜べないのには、理由があった。重大な理由が。
とはいえ、老人は彼の強情さもよく心得ていた。
反駁しても仕様がなく、であるなら、素直に従い気が済むのを待つべきであろう。
そう思いながら、老人はやけに軽い男の体を持ち上げた。
背は低くない。だが着物は元の色が分からぬほどに褪せていて、草履も腐り落ちている。
大方、路銀の尽きた浪人であろう。腰に刀を提げてはいるが、サムライであるかどうかも怪しい。
(せめてこれが、筋骨隆々の偉丈夫であれば……)
考えても詮無いことといえ、老人の頭には虚無感が募る。
こんな身元も分からぬ男を助けたとて、何になろうか。
ともすれば、この足止めのために、自分達の命さえ危うくなるというのに。
*
「……ここは……」
「おお、起きたか。身体は起こせるか?」
日が落ち、目を覚ました無縁が最初に見たものは、齢八つ程度の男児であった。
着ている衣服は仕立てが良く、髪も綺麗に整えられている。
誰であろうか。ふらつく頭で考えながら、無縁はゆっくりと起き上がった。
無縁の傍らには、火が焚かれていた。火の向こうには、暗い面持ちの老人が座っている。
「あなた方が、私を……?」
「うむ。道の真ん中で倒れていたから、水を飲ませ火で身体を温めた。……飯は喰えるか?」
答えたのは、男児の方である。
快活で堂々とした態度だ。無縁が頷くと、男児は白い粥のような汁を無縁に渡す。
「ゆっくり食え。見たところ、長い間何も食べていないのだろう?」
「……恥ずかしながら、その通りだ。有り難く頂戴する」
無縁は温かいその汁を、少しずつ啜った。ほとんど白湯のような口当たりだったが、それでも長い間空のままだった胃には、強い刺激である。
腹に鈍痛を感じながら、けれど無縁は啜ることをやめない。ほのかな甘みを口の中に感じる毎に、無縁は自分が生きている人間であると実感する。
(ああ、やはり……命あるものには、口で食らう飯が要る)
無縁は、そのまま無言で汁を啜り続けた。
「……それで、あなた方は一体……?」
ようやく問いかけたのは、汁を飲み終えてからのことである。
男児は少し戸惑った顔をして、老人を見遣る。
老人はやはり暗い顔のまま、逡巡する素振りを見せた後に口を開く。
「武路の……生き残りでございます」
「武路? というと……黄賀美との戦ですか」
老人は頷く。無縁も話には聞いていた。付近の国を治める武路家と、それを狙う黄賀美との間で戦が勃発していると。故に、無縁も戦場となり得る土地は避けて歩いていた。
しかし、まさか倒れている間にその決着が付いていたとは。
無縁は自分を恥じると共に、改めて二人の姿を観察した。
生き残り、というからには、男児は武路家に連なる者なのだろう。
戦に負け、逃げ出した? だとしても、付き添うものが老人一人というのは妙な話だが。
「……私以外の者は、みな追っ手にやられました」
無縁の疑問を感じ取ったのか、老人はそう口にした。男児は俯き、悔しげに拳を握る。
「俺にもっと力があれば、戦うことも出来たのだが……!」
「いえ、若は何も悪くありません。若はまだ幼い。それを守るのは家臣の使命というもの」
「だが、だがな……!」
男児の震える声音を耳にして、無縁は考え込む。
この男児は、恐らく武路の嫡男か何かなのだろう。黄賀美は彼を狙い、追っ手を仕向けている。
結果、彼に付き添うものはこの老人一人となってしまった。
もし、そうなのだとすれば……
「……そんな折に、わざわざ私のような者を助けようとしたのは、何故です?」
無縁には、その疑問が残った。
一刻も早く逃げるべき時だ。老人もそれは重々承知しているのだろう、お前がそれを問うのかという顔で無縁を見、目を背ける。
「父の教えに従ったまでだ」
けれど男児は、無縁の目を真っ直ぐに見据えそう答えた。
「苦しむ者、困っている者がいれば手を差し伸べる。それが人の上に、立つものに……必要な……っ」
始めは堂々としていた語調が、少しずつ揺らぎ、涙声に変わっていく。
その教えを諭していた者は、もうこの世に居ないのだろう。
「……必要な、仁義だ。俺はそれを、我が身可愛さに投げ出しは……しない」
目に涙を浮かべながらも、男児は胸を張り最後まで言い切った。
強い心の持ち主だ、と無縁は感じる。
その心の強さが、果たして今本当に必要なものであるかどうかは、別にしても。
「よく、分かりました。……であるなら、私はあなたに恩を返さねばならない」
「いや。俺はそんなつもりでお前を助けたのでは……」
「どの道、当ての無い旅です。少しの間行き先を変えることに不都合はない」
あなた方が嫌でなければ、と前置いて。
無縁は、彼らへの助力を申し出た。
「このような細腕の身ですが、枯れ木も山の賑わいと言いましょう。もしもの時、逃げる時間くらいは稼いでみせる自信もあります」
「……それは……しかし……」
「頼みましょう、若。これも何かの縁です」
男児は渋るが、老人はこれ幸いと頷いた。吹けば飛ぶような見た目でも、いないよりはマシだと判断したのだろう。
結局、男児もそれに納得し、無縁はしばしの間、彼らを護衛することとなった。
(……これならば)
そして無縁は思う。彼が男児への協力を申し出たのは、なにも恩返しのためだけではなかった。
(これならば、きっと死ぬには良い理由と言えるだろう)
無縁は、死に場所を求めていた。
それが叶わないと、知っていながら。
*
「父は素晴らしき武将であったのだ」
道すがら、男児は力強く己が父の偉大さを語った。
「戦では、その冴え渡る知略で多くの国から領地を守った。武路の領土は広くは無いが、山に囲まれ守りに適しているからな。ゆえに……」
その多くは、周囲の大人の受け売りなのだろう。
暗記した経でも読むように、男児は宙を仰ぎながら言葉を続ける。
無縁はそれを、時折相槌を打ちつつ微笑ましい思いで聞いた。
男児の名は、飛丸と言った。
無論、幼名である。飛丸は未だ元服には遠い齢で、戦のことを多くは知らない。
だから恐らく、父がどのような戦を行ってきたのか、正しくは知らないだろう。
とはいえ、無縁自身、飛丸が語るような内容には覚えがあった。
「……飛丸殿の父上は、民にも慕われていました」
旅の途中、立ち寄った村や町で、無縁は武路の領主のことを耳にしていた。
曰く、国の平穏を第一に考え、民の味方である良き領主であるとか。
曰く、飢饉に陥った村を救うため、年貢を減らしたばかりか兵を用いて治水工事まで行ったとか。
それが叶うのは、この土地が肥沃であり、かつ攻めるには難しい地形であることが影響しているだろうが……その人間性が善良であることは、十分推し量れる。
とすれば、疑問となるのは、そのような状況でなぜ武路は戦に敗れたのか、である。
無縁はちらりと老人に目をやった。重朗と言うこの老爺は、無縁の視線に気づき、小さな声で告げる。
「裏切りがあったのです」
「……黄賀美と手を組んだものが?」
「えぇ。佐陀光久という者が、お館様を裏切り黄賀美を手引きしました」
その説明で、無縁には得心がいった。
いかに攻め難い地形とはいえ、内部から手引きがあれば奇襲をかけることは容易い。
そして奇襲を受け、陣形が乱れれば、その守りも磐石とは言えなくなってしまう。
武路と黄賀美の長い戦いは、その裏切りがゆえに決着を見たのだろう。いや、そもそも黄賀美が戦を仕掛けたのも、佐陀という男の差し金かもしれない。
真実がどうであるにせよ、気持ちのいい話ではなかった。
「……なぁ、無縁」
前を歩いていた飛丸が、振り返ってこちらを見る。
まだ昇りきらぬ太陽を背にした飛丸の表情は、無縁には読み取れなかった。
「父は、強かったのだよな?」
「……それは、飛丸殿が一番よくご存知では」
「そのつもりだった。だから負けるはずがないと……死ぬはずが、ないと……」
「……ただ強くとも……、……いえ。強かったには違いないでしょう」
無縁は、言いかけた言葉を飲み込んで、強張った笑みを浮かべる。
事実、佐陀というものの裏切りさえなければ、今も飛丸の父は生きていただろう。
だが、現実はこれだ。佐陀というものは裏切り、飛丸は父を失った。
無縁は、そんな飛丸に優しい言葉をかけてやりたいと思ったが、今の自分が何を言ったとて空虚に響くだろうと、諦める。
(……人は死ぬのが当たり前だ。であるなら……)
そっと刀に触れる。やはり、かけられる言葉など、無い。
事が起こったのは、昼を過ぎ、日も落ちかけてきたころのことである。
無数の馬の足音が聞こえ、無縁はハッとなり振り返った。
見れば、鎧を身に纏った十数人の武士が、馬でこちらへ走ってくるではないか。
「……重朗翁。あれは」
「間違いありません、黄賀美です……!」
「ならば……ここは、私が」
無縁は刀に手をかけ、深く息を吐いた。
「しかしお一人では……」
「といって、飛丸殿を一人にするわけにはいかないでしょう。ここは隠れ、隙を見てお逃げください」
「無縁!……勝算はあるのか?」
心配そうに言う飛丸に、無縁はただ薄く微笑んだ。
実のところ、勝算と呼べるものは全く無い。
先日の山賊どもならいざしらず、相手は馬上の武士が十数人。
とても痩せこけた浪人一人で片を付けられる相手では無い。
(まず間違いなく、死ぬだろうな)
だが無縁は、それでも共に逃げるつもりなど無かった。
申し出た通り、無縁はここで時間を稼ぐ腹づもりだったからである。
「……ほぅ。残りは枯れたジジイ一人かと思っていたが、枯れ枝が一本増えていやがる」
「おや。枯れ木とは私も自称するが、枯れ枝扱いは初めてだな」
「枝じゃなけりゃなんだってんだ? んな細腕で」
馬上から罵声を浴びせたのは、武士たちを率いているであろう大男である。
その声を聞き、真っ先に反応したのは飛丸である。
「貴様! なぜここにいる!」
「なぜ? ……あぁ。お前の護衛が命懸けで足止めしたのに、なぜまだ生きてるか、か?」
飛丸の言葉に、大男はにやりと口角を上げた。
「決まってるだろ? 俺たちが勝ったから、だ」
「っ……!!」
「お前の護衛は全員、俺たちで殺した。ほら、この馬に見覚えがあるだろう?」
とん、と大男は自分の跨る馬を軽く蹴る。それをみて、飛丸は表情を変えた。
「降りろ! 今すぐに!!」
恐らくその馬は、飛丸の護衛だったものが乗っていた馬なのだろう。
飛び出そうとする彼を、重朗は必死に抑える。
「いけません、若! ここで命を粗末にしては……!」
「だが、だが! ヤツが……!!」
飛丸の声は怒りに震えていた。
先刻も、力のなき己の身を嘆いていた彼の事だ。
放っておけば、すぐにでも武士たちに斬ってかかりかねない。
「重朗翁。すぐに飛丸殿を連れて下がってください」
無縁はだから、先に前へと出た。
ここでこれ以上、大男の言葉を飛丸に聞かせたくはない。
「……? なんだ枯れ枝。奴らに幾らで雇われた?」
一歩二歩と歩みよる無縁を、大男は馬鹿にした目で見下ろした。
「勝てる……とは思ってねぇよな。すっこんでろ」
「そういうわけにもいかない。飛丸殿には、粥を馳走になった故」
さらりと答え、無縁はふらりと身体を倒した。
「っ、消え……!?」
瞬間、馬上の大男の視界から、無縁が消える。
慌てて辺りを見回す頃には、もう遅い。さくりと音がして、大男の握っていた手綱が切れる。
同時に、馬はけたたましい叫び声を上げて身を震わせた。
「なんっ……?」
大きく体勢を崩した大男の体に、どん。
さして強くも無い力で、なにか硬いものが叩きつけられた。
べしゃり。
情けない音がして、大男が背中から地面に叩きつけられる。
「……目が悪い。これなら先日の山賊の方が幾分マシか?」
天を仰ぐ大男は、自分が無縁に見下ろされていることに気づき、慌てて身体を起こした。
「お前……!! っ、俺の馬はどこだ!?」
「馬はどこかへ逃げていったよ。そも、お前の馬でもあるまい?」
無縁は、大男の手綱を切り、馬を軽く刺激しただけだった。
驚いた馬によって体勢を崩されれば、無縁の腕力でも、簡単に地面へ落とす事が出来る。
視界から消えたのは、単に姿勢を低くして、目の届かぬ範囲に出ただけのこと。
その一部始終は、わずか少し後ろを行く部下たちにも、余すところなくはっきりと見えていた。
「よくも……無事では済まさんぞ!」
恥をかかされた大男は、顔を赤くして激怒した。
しかし、元より勝てると考えていない無縁に、その文句はどこまでも滑稽である。
「出来るならやるといい。逃げるつもりもないのだからな」
目論見通りに事が進み、無縁は内心ほくそ笑む。
これで、武士の目は自分に向いた事だろう。この隙に、少しでも飛丸たちが逃げられればそれで良い。後のことはなるようになるだろう。
重郎もその目論見に感づいたらしく、飛丸の手を引き木々の間へと走る。
(さて。後はどれだけ殺さぬかだが……)
刀を抜く。大男の号令とともに、四、五人の武士が槍を構え突撃した。
無縁はその穂先を見極め、刀で受け流すと共に、流れる足さばきで馬の足を斬る。
馬が倒れると共に、馬上の武士も地面に転げ落ちた。それによって道は塞がれ、後続はうまく突撃出来ない。
「む……ちゃんと生きてるよな、馬?」
刀を握りなおしながら、無縁は一人呟いた。
その意味を解すものは無く、大男は苛立っておのれの刀で無縁に斬りかかる。
「お前、少しはやるようだが、この番剛様に勝てるとは思い上がるなよ!?」
「ばごう。……冥土の土産とするには、どうも響きが悪いな」
「ふざけるな!!」
番剛が力任せに振り下ろした刀は、無縁の体に届かない。
「うむ、まぁ、ふざけるさ。その程度の腕前ということだ」
相手の身のこなしを見て、無縁は考える。
飛丸の護衛をしていたというものたちは、本当にこいつが斬ったのだろうか。
(いや……数の利というのもあるか)
例えば、今のように。
馬上から放たれた矢を、無縁は横目で捉え、叩き斬る。
その隙を狙い、番剛は無縁の胴を狙い刀を振るう。
避けるには、脚力が足らない。咄嗟に刀を逆手に持ち替え、無縁は脇腹でそれを受けた。
ばぎり。
「ぐむぅっ……」
重い音は、骨にヒビの入る音。
長い間食事を摂っていなかったせいだろう、無縁の体は、どうしようもなく虚弱であった。
技量の上であれば、無縁は番剛に劣りはしない。
けれど相手は小隊である。番剛一人に集中すれば良いというものでも無かった。
加えてこの膂力の差では、時間稼ぎも十二分に出来るかどうか、怪しくなってくる。
(如何ともし難いな……)
無縁は思案する。
出来うるならば、無縁は何も殺したくはなかった。敵も、馬もだ。
それなりに損耗を与え、飛丸が逃げる時間を作り、然るのち適当な所で斬られる。その辺りならば適度に折り合いも付けられるだろうと、無縁は考えていたのだが……
(……無駄死にでは、真摯でない)
ため息を吐く。
死ぬのは問題ではなかった。そも、死にたくないと思うならこんな所で戦っていない。
問題は、無駄死にする事だ。己が持つ命を、不必要に散らす行為だ。
それは、無縁の心情に反する事である。で、あるならば……
「……すまんが、やはり斬るぞ」
とん、と無縁は番剛の側面へと回り込む。
「ぬぅ、そこだ!」
番剛はその動きを読み刀を振るうが、無縁はそれを、倒れこむように踏み込むことで潜り抜ける。
そして、すぱん。
ごく軽い音がして、数秒遅れて鮮血が吹き出る。
「ぐ、お、ああああっっ!!?」
斬られたのは、番剛の左腕である。続けざまに、無縁は番剛の刀を握る手も斬り落とした。
「う、ぐ、おおおおっっ!!?」
「騒ぐな騒ぐな。……さて、あとはお前たちか」
ぐい、と無縁は番剛の身体を掴み上げ、残る馬上の武士へ目を向けた。
その瞳を見て、武士たちは気圧される。矢を放とうとするものもいたが、無縁が番剛を盾としたため、それも叶いはしない。
戸惑いの中、にらみ合いが起こっていたのは数秒のことだったろう。
けれど結局は、無縁の底知れぬ実力に恐怖した武士が、一歩二歩と馬を退がらせ……
追っ手の小隊は撤退した。……かに、思えた。
「何をしている。早く射殺せば良いだろう」
声と共に、一本の矢が風を切る。
「ぐふぁっ!!?」
血を吐いたのは、虫の息だった番剛である。
その喉元には、先程の矢が深々と突き刺さっている。
「おっと、間違えた。まぁいいか。それでやりやすくなったろ、お前たち」
射殺せ、ともう一度声が号令を上げ、ややあってから実行される。
七、八本の矢が、同時に無縁へと放たれた。その全てを斬り落とす剣速は、今の無縁にはない。
「っ……!!」
自然、無縁は番剛の身体を盾にしてその攻撃を免れた。が、その刹那、敵を目で追えなくなったわずかの間に、一騎の武士が無縁との距離を詰め……
「残念だな。番剛より有能だったろうに」
「ぐ、う……!!」
ざくり。
番剛の体ごと、無縁の体を刺し貫いた。
「飛丸などに付いていなければ、取り立ててやっても良かったのだがな」
「ぐ、むぅ……」
どん、と彼は番剛の身体ごと無縁を蹴り飛ばし、倒れさせる。
地に倒れた無縁は、その身体を重い番剛の体と繋げられ、刺された刀を抜くことも、起き上がることも叶わない。
(……ここまでか)
ふぅ、と無縁はため息を吐き、諦めの境地で空を見上げた。
「――無縁っ!!」
だが、そんな無縁へ、悲痛な一声が投げかけられる。
首を回して見てみれば、逃げたはずの飛丸と重郎が、槍を突き付けられ歩いてくるではないか。……捕まったのか。しかし、何者に。
「まさか、伏兵がいたとは知らず……申し訳ない、無縁殿っ……!!」
重郎の言葉に、無縁は事態を理解する。
追手は、番剛の小隊だけではなかったのだ。
番剛の戦いを契機として、別の隊が先回りし、飛丸たちを確保したのだろう。
飛丸を守りたいと願うのならば、共に逃げるべきであったのだ。
(……いや。仮にそうしたとして……)
守りながら戦えたかと問われれば、首を振るほかない。
そもそもの話、無縁一人で飛丸を守るなど、不可能なことだったのだ。
(所詮、人斬りの力などその程度か)
殺すだけなら容易いが、何かを守ろうとすれば、すぐにボロが出る。
「では参りましょう、飛丸様。貴方を連れ帰らねば、黄賀美での私の立場は完全には保証されないのでね」
「っ、ふざけるな! 国を裏切り、父を殺した貴様の言う事など、誰が聞くものか!」
「聞いていただく必要などないのですよ。……やれ」
佐陀は部下に命じ、飛丸と重郎を縛らせた。
もはや無縁に、それを止める力はない。
「おっと、忘れていた」
だが佐陀は、非情かつ冷徹な思考の持ち主であった。
「万が一、という事もあるからな」
「っ、やめろ!」
飛丸の叫びなど聞きもせず。
佐陀の刀が、無縁の首を、両断する。
(……おぉ)
身体から切り離され、蹴り飛ばされた無縁は、中空から一瞬飛丸の姿を見た。
「無縁……すまぬっ……!!」
その瞳には、涙があった。
単に、無縁が殺されたから……というものではない。
父を。護衛を。一度は救った浪人を。
何一つ守ることが出来ず、裏切者の手に落ちる自分の運命を、深く呪っている目だった。
だが、首を飛ばされた無縁に、もはやそれ以上出来る事は無く。
その意識は、一瞬の後、暗闇へと堕ちた。
*
『……おいおい。こんなもんじゃあ無いだろう?』
『もっと喰わせられるハズだ。お前なら』
『おい、聞いてんだろ。つまらねぇ意地張ってんじゃねぇぞ』
『殺せよ。もっと殺せ。そうすれば俺とお前に……敵はいないんだからな!』
「……黙れ、無尽」
無縁が意識を取り戻したのは、丑三つ時であった。
満月が薄ぼんやりと照らすばかりの暗闇で、無縁は殆ど無意識のうちに、身に圧し掛かる番剛の身体を切り分ける。
立ち上がった無縁の体には、傷一つない、真新しい首が乗っていた。
*
「佐陀。なぜ俺を殺さない」
無縁の首が飛んだ、次の朝の事である。
野営を終え、隊が黄賀美へと向け出立しようとする中、飛丸は佐陀にそう問うた。
「……口を開いたかと思えば、そんなことですか」
「俺が邪魔だと言うのなら、今すぐ殺せ。……そして、重郎は放してやってくれ」
無縁が殺された後、飛丸はじっと押し黙り続けていた。
佐陀が言葉をかけても、何一つ返さず。ただ薄暗い目で佐陀を睨みつけるばかり。
そんな彼が口を開いたと思えば、これである。佐陀は苦笑し、重郎は狼狽えた。
「何を仰います、若! 命を捨てるようなことを……!」
「俺が生きていても、無用な争いを生むばかりだ。俺を助けようとして、武路の生き残りが黄賀美に盾突くということも……あるだろう……」
飛丸にとってそれは、一夜をかけて考えた結論であった。
自身を守るため、身の回りの多くの人間が死んだ。
齢八つの飛丸にとって、その事実はあまりにも大きすぎる重荷であったのだ。
自然、飛丸は考えるようになる。
(俺さえ死んでしまえば、いっそ……)
武路の血は途絶え、国は黄賀美に支配されることだろう。
けれどそうなれば、この土地が血に塗れる必要も無くなるはずだ。
そのカギを握っているのは、己の命……
飛丸にとって、その事実はあまりに過酷な責め苦でしかない。
「殺しませんよ。少なくとも、黄賀美に渡すまでは」
けれど、佐陀はそんな飛丸の言葉を一笑に付す。
「飛丸様の命をどう使うかは、黄賀美の決めること。人質としてこの国の支配に用いるのか、殺して禍根を断つのか。私が決めてしまっては、立場が悪いでしょう?」
佐陀にとって、飛丸はあくまで土産の品である。
わざわざその鮮度を落とすような真似をしても、喜ばれはしまい。
その扱いもまた、飛丸にとっては屈辱であった。
「……立場。立場というなら、貴様は父上の腹心でもあっただろう! なぜわざわざそれを捨て、黄賀美などに付いた!」
「腹心? 馬鹿を言ってはいけませんよ。あの男は、私の提案する策を悉く否定したのです。あの男は、私の事など信用していなかった!」
飛丸の問いに、佐陀は怒りを滲ませて答える。
佐陀の武路での地位は悪くなかった。むしろ良い待遇で仕えていたと言っても良い。
だが、佐陀は武路の方針に対し、密かな不満を溜め込んでいたのだ。
「いくら守りが盤石であるからと言って、あの男は穴熊を決め込むばかり! 自ら他国へ攻め入り国を盗ろうとは、ただの一度もなさらなかった!」
「っ……だから、黄賀美に付き、父上を裏切ったのか!? 戦をするために!?」
「違う! 武士として生まれたからには……より広い土地を得、名を上げる事こそ至上とすべきだろう。だがあの男の元で、それは叶わない!」
だから裏切ったのだ、と佐陀は言い切った。
消極的な主に仕えるよりも、より血の気の多い他国へと場所を移した方が、より自分の才覚を活かす事が出来ると考えたのだ。
「あの男は臆病者だった! 戦上手? ただ争いを避けただけだろう! 民に良い顔をして慕われたとて、所詮は小国を統べて良い気になっている小物に過ぎない!」
「黙れ! 父上を侮辱するなっ……!!」
「するとも。あぁ、生きている限りは永遠にな! どの道、貴様に出来ることなど何一つないだろう!」
佐陀はそう言って、飛丸を蹴り飛ばした。
手足を縛られた飛丸に、抵抗の力はない。
「猿轡を噛ませておけ! これ以上吠えられないようにな!」
「むがっ、むぐぐ……!!」
遂には声さえも封じられ、身をもだえさせながら、飛丸は悔しさと怒りに瞳を滲ませる。
(俺には何も出来ない……味方を殺され、父を侮辱されても……!)
せめて、せめて。
死した後には、永遠にこの男を呪い続けよう。
深い怨讐の念が飛丸の胸に湧き始めた、その時である。
鋭い悲鳴が、隊の後方から響きわたった。
「っ……何事だ!?」
佐陀が慌て、後方の様子を確認する。
数十という騎馬の列の、最高峰。
噴水のように高く空を染め上げる鮮血に、隊は慌てふためいた。
「て、敵襲です!」
「数は!」
「ひ……一人……」
「一人!? ならばとっとと叩き潰せ!」
「それが、その……あの浪人なのです! 昨日、佐陀様が首を叩き切ったはずの、あの!」
*
「まだ息はありますか、飛丸殿?」
無縁は、血で濡れた髪を振りながら、常と変わらぬ調子で口にした。
「む……むぐぐ!?」
「命はある。よし。重郎翁も無事のようで何より」
無縁は二人の姿を見て、ほっと胸を撫で下ろした。
もし既に二人が死んでいれば……ここまでの殺しが、無駄になってしまう。
「さて。佐陀光久……といったか」
「貴様! なぜ、なぜ生きている!? 貴様の首は確かにこの私が……!!」
「おい、先に問うのはこちらだぞ。飛丸殿と重郎翁を放せ。さもなくば……」
「っ、殺せ! 何の理由があるにせよ、コイツは飛丸を取り戻しに来た敵だ! 殺せ!」
佐陀が叫ぶと、戸惑いと怖れに支配されていた小隊が、正気を取り戻す。
そう、敵だ。生きている理由は分からないが、ともかく殺せばいい。
騎馬隊は無縁との距離を取りながら、弓に矢を番え、次々に放つ。
「話も出来んのか、お前は。……まぁ無理もないか」
雨のように降る矢は、けれどただの一本も無縁の身体を貫きはしなかった。
無縁は、その悉くを剣先にて叩き落したのである。
目にも止まらぬ早業、というのが相応しい、並々ならぬ技である。
「矢の無駄遣いだな。これでは私は殺せない」
「馬鹿な! 昨日の貴様には、これほどの腕は……」
「うむ。腹が減っていた故な?」
佐陀の問いに、無縁は平然と頷いた。
よく見れば、無縁の顔色や肉付きは、昨日のそれとは大きく異なっている。
細身である事に変わりはないが、顔には血の色が差し、四肢は形の良い筋肉で包まれている。枯れ木のような印象は、今の彼にはない。
「お前の部下を五人、馬を三頭、コイツで喰わせてもらった。故に、今の私は昨日の私よりも……強い」
無縁は言いながら、刀を構え直す。
つい先刻、血の雨を降らせたばかりの筈の刀にはしかし、一滴の血も脂も付着していなかった。
血で赤く染まる死んだはずの男に、穢れ一つない白い刃。
異様さを覚えるには十分すぎる光景に、周囲の騎馬兵は恐れ後ずさる。
「っ、馬鹿者! 間を与えるな!」
「遅いな。もう遅い」
兵たちの隙を、無縁は逃さなかった。
だんっ。地を蹴り、一足に駆け出す無縁。それを追い複数の兵が弓を構えるが、一瞬の間に、その姿は騎馬たちの間へと入りこみ、射る事が出来なくなる。
となれば、槍で刺し貫く他ないが、身を低く構えた無縁は、走りながらも己を突かんとする槍の穂先を切り落とし、前へ前へと駆けてゆく。
その動きは、やはり昨日の力なき技とは異なっていた。
なぜ、どうして。佐陀の脳裏に浮かぶのは、答えの出ない問いばかり。
そうこうしている間に、無縁は佐陀たちの元へと辿り着く。
「さて。飛丸殿と重郎翁、返してもらうがよろしいな?」
「……化け物め」
平然と言い放つ無縁に、佐陀は苦々しい口調でそう返す。
「貴様、人間ではないな。首を狩って尚生きているなど……!」
「……まぁ、そうさな。俺も自分が人間かと問われれば、自信がない」
それで、と無縁は続ける。
「その化け物を相手に、これ以上斬り合うか?」
「……、飛丸を持っていかれては、私が困るのでな」
ふぅ、と息を吐き、佐陀はしばしの間、目を伏せる。
無縁は刀を構えながら、周囲の者たちの動きを窺った。
無縁の立ち位置は、騎馬隊の群れの真ん中。弓を使うとなれば、かなりの気を使う立ち位置である。馬上からの刺突も、無縁の技量を前にすればさしたる意味はない。
それは、この数秒の間に佐陀も理解していた。
もし無縁を斬るとするならば、腕の立つ剣士が直接対峙するほかはない。
だが、もう一つ。……佐陀は理解していた。この男の力を削ぐ術を。
「騎馬隊! ……飛丸を射殺せ」
「っ!?」
無縁は目を見開いた。この状況下、佐陀が選んだのは、無縁への攻撃でない。
一瞬の後、無数の矢が飛丸を乗せた騎馬へと降り注ぐ。
「――!!」
轡を噛まされた飛丸が、声にならぬ悲鳴を上げた。
佐陀は、飛丸を生きて連れ帰ることを諦めたのか。否。そうではない。
「ぐ、う……!!」
ずぶり。肉が経たれ、血が噴き出る。
矢の雨を受け止めたのは、飛丸ではなかった。……無縁である。
「やはり。やはりそう動くか、化け物め!」
「ふ、は……計算ずくか……」
ごふ、と無縁は血を吐いた。肺に矢が突き刺さり、喉を血が満たしていた。
佐陀は、元より飛丸を殺すつもりなどなかったのだ。
飛丸を殺さんとすれば、この浪人はそれを守りに来る。そう踏んでの事である。
「よし。……化け物は致命傷を受けた! 後は我らでも十二分に届くであろう! やれ!」
無縁が弱ったと見て、佐陀は部下に指示を飛ばす。
戸惑いつつも、佐陀の言葉に背を押された部下たちは、各々雄叫びを挙げて武器を構えた。
「ん……ひとまず、飛丸殿。お逃げ、ください」
「ぷはっ……無縁! 無縁……すまない!!」
「おや。そこは……何故、と聞く所、では?」
飛丸の轡を外した無縁は、彼の言葉を聞き微笑んだ。
「いや……俺がお前を巻き込み、殺させた。今も矢を受けている。……死んでない理由など二の次だ。俺のせいで、お前は……!」
「自分を責めるのはお止め下さい、飛丸殿。……結局の所、私は……私のために、ここにいるのですから」
実の所、無縁は飛丸に恐れられるだろうと考えていた。
佐陀の言う通り、己は尋常な人間ではない。そんなものに助けられたとして、普通ならば感謝より先に恐れが出て自然である。
だが飛丸は、そうではなかった。感謝より怖れより、謝罪が先に出たのだ。
その姿を見て、無縁の胸に湧いた感情は……罪悪感、である。
「私は。死ぬために、貴方を守ると決めた卑怯者です」
飛丸に背を向け、無縁は己に突き刺さった矢を引き抜いた。
どろどろと血が流れ落ち、無縁の顔は見る間に青白く変化する。
それでも、無縁は倒れなかった。苦悶によって額に脂汗を浮かべながらも、なお。
無縁は、ふらつきながらも一歩二歩と前に出る。
その弱り切った身体に、五、六人ほどの侍が斬りかかる。
後ずされば、飛丸を巻き込む距離だ。振り下ろされる刀を前に、無縁はふぅと血の混じった息を吐きながら、腰を低く落とし……一閃する。
斬。
途端、侍の身体は紙のように簡単に両断され、周囲に血をまき散らせる。
その血を浴びた無縁は、もう一度深く息を吐いた。
その呼気に、今度は血の音が混じらない。
「狼狽えるな、絶え間なく斬り付けろ!」
攻撃は、それで止まない。槍が、刀が、数限りなく無縁へと振り下ろされる。
無縁はそれを躱し、斬り返し、けれど刹那の技を以てしても、数の暴力には敵わない。
「取った!」
ある武士の刀が、無縁の背中を斜めに斬り払う。ずじゅり、と肉の音がして、ふらついた無縁はけれど、踏み込むと同時に、ぐるりと身体を回転させる。
ぶち、と肉の千切れる音がした。回転と共に傷の広がった無縁は、苦悶に眉をひそめながら、けれど気にせず背後の武士を斬る。
同時に背中がぐじゅりと音を立て……
「……傷が……!?」
佐陀が驚き言葉を漏らす。
無縁の傷が、一瞬にして治っている。
いや。血に濡れて判別しづらかったが、よく見れば既に矢によって負ったはずの傷も、どこにも見当たらないではないか。
斬。斬。斬。
肉が切れる音。脂の滑る音。血の噴き出る音。
無縁は決して無敵ではなかった。何度も斬られ、時として腕を落とされて。
けれど、次の数秒には……ずじゅり。音を立て、斬り落とされたはずの腕が生えてくる。
「何故だ! 何故死なない!? これだけ斬っているのに……!?」
「命を、奪っているからな」
すぱんっ! 斬り落とされ宙に跳んだ首が、そう答えて地に落ちた。
首の落とされた無縁は、倒れるかと思いきや、そのまま倒れこむように武士の胸を刺し貫いて……新たな頭が、傷口から生える。
地獄めいた光景であった。
延々と血が噴き出続ける、終わりの見えない戦い。
いや、終わりは見えている。佐陀の手下は減り続け、無縁の姿に恐怖し、戦意を失いつつあるのだから。
「っ……、そ、そうだこうしよう! お前を私の部下として取り立てる! 条件はお前の好きにしていい! どうだ?」
「すまぬが、断るよ。私にとっては、飛丸殿が馳走してくれた粥の方が、上等な褒美だ」
「……。無縁、お前は一体何者なのだ……?」
無縁の背に、飛丸は不安げな声でそう問うた。
無縁は振り返らず、真新しい首をぐるりと回しながら、小さな声で答える。
「昔、永遠の輝きを持つ刀を作らんとしたものがいた」
どんな刀でも、数度敵を切れば脂と刃こぼれで切れ味が落ちる。
研げば使えるとはいえ、研ぎ続ければいずれすり減り、刀としては使い物にならなくなるだろう。……その刀匠にとって、その事実は認めがたいものであった。
「刀匠は己の魂を贄とし、刀を打った。生あるものの魂を奪い、力とする魔性の刀を。……その刀の名を、無尽」
尽きぬ刀。永遠の鋭さを持つ刀。
しかしてその刀は、無数の血を啜りながら、多くの剣士の元で力を奮った。
が、ある時……魂を喰らい続けた刀は、気が付いた。
「たとえどんな名刀であれ、使い手が死ねば意味を失う。……ならば。己が啜った命を分け与え、永遠の剣士に己を振るわせれば良い」
それに選ばれたのが、無縁であった。
無縁は無尽に選ばれた剣士として、多くの命を奪う宿命を背負わされた。
だが。すり減らぬ刃と対照的に、終わらぬ戦いと生奪の日々に、無縁の心は見る間に削れてゆく。
もう死にたいと、無縁は思っていた。
けれど同時に、奪い取った命を無意味に投げ打つような真似は、無縁には出来なかった。
「だから……飛丸殿を守ると言ったのは、自分のためでしかないのだよ」
追われる幼子を助けるために命を投げ打つのならば、それは正しく素晴らしい行いだ。
きっと、命を失う価値のある行為に違いない。
守るため、殺さず、殺され、命を減らす。
そのために、無縁は飛丸を守る……ハズだった。
「けれど……なぁ? ここで飛丸殿を見捨てるのなら、それこそ……」
意味を失う。使った命への礼を失する。
しかし結局の所、無縁はそのためにまた、多くの命を奪って。
「上手く行かないものだ」
はぁ、と無縁はため息を吐いた。
こんな風にして、無縁は長い長い時を生き続けてきたのだ。
「……」
飛丸は、言葉を失う。
無縁の話したことを、急には受け止められなかったからだ。
ウソでは、ないのだろう。事実、無縁の肉体は常軌を逸した力を放っている。
だとすれば……だとすれば、自分は無縁に、何を言えば良い?
飛丸が迷い、口を開けないでいる中。
彼の言葉に、別の意味を見出した男がいた。
「……であるならばだ、浪人よ」
馬を降り、血と脂がまき散らされた地面に、佐陀光久が足をつける。
「私が貴様の技量を上回れば、その刀の力は……我がものとなるのだな?」
「……。然り」
佐陀の言葉に、無縁はゆっくりと頷いた。
もはや、佐陀の部下の中に、無縁と剣を交えようと考える者はいない。
血と泥の入り混じった戦場で、多くの武士と馬が、無縁と佐陀を遠巻きに見つめる。
「死なずの剣。風の噂に聞いたことはあるが、まさか実在したとはな」
佐陀の顔には、怖れと歓喜の入り混じった曖昧な笑みが浮かんでいた。
超常の力への畏怖と、それを求めんとする欲。
たった今目の前で起こった惨劇を顧みぬ言葉に、けれど無縁は動じなかった。
ただ、「またか」と内心溜め息を吐くのみである。
無尽を手にしてからというもの、無縁は数え切れぬ程こういった手合いと戦ってきた。
今更、その種の欲望に思う所はない。……ただ。
「止めておいた方がいいぞ」
それでも、警告はした。
無縁は今でも、佐陀を殺したいとは思っていなかったからである。
飛丸と重郎さえ取り返せれば、それで良い。
佐陀の返答は、斬撃であった。
(……鋭い!)
踏み込みからの、胸元を目掛けた刺突。
明確な殺意を持ってのみ放たれる、研ぎ澄まされた一撃。
けれど無縁はこれを、剣の腹で受け、流す。
同時に、肘での打撃を佐陀の背に喰らわせ、距離を取る。
佐陀が振り返った所で、ひゅんっ! 風を切り、無尽を真一文字に振るう……が。
ギンッ! 甲高い音と共に、無尽の刃は止められる。佐陀は無縁の手を読んでいた。
(なるほど、これは……)
強い。無縁は理解する。単なる卑怯者の武将かと思いきや、その太刀筋と読みは、一流の剣豪のそれと言っても差し支えのないものであった。
剣を受けた佐陀は、己が刀で無縁の刀を抑えつつ、無縁の顔へと頭突きを喰らわす。
「ぐっ……!?」
よろけた無縁に、佐陀は肩で体当たりすると共に、その腿を深く斬り付ける。
無駄のない一連の動きは、恐らくは無縁の返しを想定し、最初の一撃から計画されたもの。無縁の剣速を以てしても、佐陀の脳裏に組み上げられた未来は斬れなかった。
だがそれは、あくまでこの一太刀の事。
次の瞬間には、無縁の刃が佐陀の刀の背を叩き、弾く。
腿を斬り裂いた剣の軌道に、更に後ろから力を加えたのである。抑えの効かなくなった刀に釣られ、佐陀の脇が大きく空く。
(好機!)
その一瞬が、無縁に相対しては致命傷となる。
無縁の刃が、空いた脇腹へと食い込んだ。佐陀の着こんだ帷子などは、無尽に対すれば木綿と変わりない。このまま両断すべし、と無縁は力を籠めるが……
「そこ!」
がしり。無縁の刀を握る手を、佐陀が掴む。
同時に、斬! 無縁の手首へ向けて、佐陀の刀の刃が突き立てられた。
「刀、貰うぞ!」
「くっ……!」
こうなっては両断するどころではない。無縁はパッと刀から手を離し、逆の手でそれを受け取ると、己が手を掴む佐陀の腕を切り上げる。
咄嗟に佐陀は手を引いたが、それでも遅く、指の数本がパンと音を立てて宙に舞った。
「ぐぉぁっ……!!」
苦悶の呻きを上げよろめく佐陀。だが無縁も、腿と手首を斬られ、即座の追撃が叶わない。無論、それも数秒の間のことであるが。
「ふぅ……まだ、やるか?」
息を吐く。無縁の傷は、既に回復を始めていた。
それに足る程度の生命は、既に奪いつくしているのである。中には、たった今佐陀から切り離した指の分もあるだろう。
剣技と剣技の戦いであれば、佐陀にも勝ち目がないではなかった。
だが無縁には、剣技に加え無尽から得る生命の力がある。たとえ瞬間の勝負に勝ったとして、傷を癒されてしまえば意味は無いのだ。
長引けば長引くほど、この戦いは佐陀の不利となる。
「……まだだ!」
ちらりと佐陀は周囲の部下を見て、すぐに無縁へ視線を戻した。
数に頼るのは、この場合あまり賢明な策ではない。仮に無縁に深手を負わせたとして、喰える命がいくらでもあるからである。
足止めであればそれも良かろうが、刀を奪い取らんと欲するならば、数に頼るは愚策。佐陀もそう理解し、大きく息を吸う。
指を斬られた手と反対の手で、刀を握る佐陀。
「傷など、その刀があれば治るのだろう……貴様のように」
脂汗を流しながら、鬼気迫る表情で息を吐くその姿に、無縁もまた覚悟を決める。
「まぁ……な」
「ならばそれをこちらへ渡せ! ……もはや飛丸などどうでも良い。その刀さえ渡せば、貴様らなど何処へ行こうと構いはせん!」
「……ふむ。そうしたいと、私も思いはするのだがな」
そこでふっと思い立ち、無縁は刀を宙へ放り投げる。
「っ!?」
呆気に取られつつ、周囲の者どもは、円を描き舞う刀を見上げる。
無縁はただじっと佐陀へ注意を注ぎながら、一歩、二歩と後ろへ下がった。
「貴様、一体なんの……」
「ほら、見ろ」
かつん。落下した無尽は地面の石にぶつかって跳ね上がり、ぶぉんぶぉんと音を立て回転しながらも……すとんと、無縁の腰の鞘へ戻っていった。
「捨てようとしても、無尽は必ず私の手元に帰るのだ。呪われているのだな、私は」
「ならば……やはり、貴様の手から直に奪い取る! そうすればその刀も、私を新たな主と認めるだろう!」
「恐らくは。だがそうなれば……私が殺した生命は、どうなる?」
刀の柄に手をかけながら、無縁は佐陀にそう問うた。
恐らくは、次の交差で勝負は決する。それを理解しつつ、佐陀は笑って答えた。
「愚かな問いだ! 剣に蓄えられた命ならば、私が天下を統べるために上手く使ってやるとも……!」
「天下か。久しぶりだな、そんな大言壮語を耳にするのは」
「大言壮語なものか! 貴様の刀があればそれも十二分に叶えられるというもの! だから……その刀は、私が貰う!」
叫び、佐陀が飛び出した。
「むっ……」
腰を落としながら、無縁はその突撃に違和感を覚える。
直線的過ぎる。鋭さに欠ける。指を斬られた影響か? けれど、あれほどの剣技を見せた男が、たかだかそれだけの事で……
思考はけれど、すぐに寸断された。
「斬っても死なぬというのならば!」
べちゃり。温かくぬめる何かの液体が、無縁の視界を塞いだからである。
(手の血か……!)
無縁が切断した傷口から流れ出る血を、佐陀は目潰しに用いたのだ。
大概の傷はすぐに癒える無縁であるが、こういった攻撃には耐性が無かった。
(マズいっ……!)
相手の剣が読めない。ひとまず後ろ跳びで距離を置きながら、無縁は久方ぶりの焦りを覚える。このまま腕を斬られ、刀を奪われれば、無縁とて一環の終わりである。
「無縁、右だ!」
しかしその時、無縁の耳に飛丸の声が届いた。
刹那、それに従い剣で身を護ると、ギィンと音を立て佐陀の刃が無縁の刀に命中した。
同時に、赤い暗闇の中で無縁は佐陀の息遣いと足音に耳を澄ませ、その位置を知る。
「そこッ!」
斬ッ! 無縁の刃が、肉を断ち骨を裂いた。
無縁はその感覚のみを手の平で感じ、一歩引きつつ顔の血を拭う。
「ぐぉぉぉぉぉっっ……!!」
佐陀の片腕が、肩から切断されていた。
それも、刀を握っていた……指の残っていた方の腕である。
これで佐陀は両手を失い、刀を握ることはもちろん、息の根さえ数十秒の後に止まるであろう。無縁は決着を理解し、警戒を解いて飛丸の元へ戻ろうとする。
「ま、てぇぇっ!」
が。その背に、佐陀が取り付いた。
「むぅっ……!?」
「刀……刀をぉぉぉっっ!」
全身の力を用いて、佐陀が無縁の身体を押さえつける。その膂力は尋常ならざるものがあり、無縁は振り払うことが出来ない。
そして、指を無くした佐陀の手が、無尽の柄へと届いた。
「死なずの剣よ! どうか……どうか、この私を認め、その力を……! 約束しよう、私ならば、いくらでも……こんな、浪人などよりも多くの、命をっ……!!」
(……。どうするのだ、無尽)
目を閉じ、無縁は心の内で刀にそう語り掛けた。
多くの生命を奪い、永遠の刀としてその名を轟かせんというのならば……死を願い殺しを厭う無縁よりも、佐陀光久の方が無尽の主に相応しい。
もしそうなれば、恐ろしき魔王の誕生となるのは間違いなかったが……こうなっては、決めるのは無尽である。
「どうか……どう、か……」
けれど、いくら乞おうとも、佐陀の体が癒されることはない。
やがて佐陀の身体は冷たくなっていき、無縁を掴む力が少しずつ、抜けていく。
「なぜ……だ……どうして……」
『……足りねぇからだよ』
「……? なにか……声、が……」
どさり。音を立て、血でぬかるんだ地面に佐陀が倒れる。
脳裏に響いた声が何者のものであるのか、判断するだけの力は、佐陀に残っていない。
「…………おや、かた……さま……」
死の間際。最後に呟いた言葉は、恐らく無縁の耳にしか届いておらず。
「……むぅ」
無縁はそれを……心の内に、しまう事とした。
*
飛丸と重郎が逃げ出すのを、止められる者はいなかった。
自分達の主君を斬り殺した化け物が、虚ろな瞳で彼らを見守っていたからである。
「ありがとう、世話になった」
ゆっくりと街道を歩きながら、飛丸は無理に笑みを浮かべ、無縁に礼を言う。
「礼を言われる筋合いは……ありませんよ。言ったでしょう?」
無縁は目を逸らした。先刻口にした通り、無縁が飛丸を助けたのは、元来彼自身の打算的な考えあっての事である。
「私は、決して正しい事をするために飛丸殿を助けたのではありません。そういう意味では……私は、佐陀とそう変わりはないでしょう」
「それは……!」
否定しようとする飛丸を、無縁は目で制した。
助けられた飛丸とすれば、無縁を褒め称えたくもなるのだろう。
けれど無縁にとってみれば、その言葉は己へ罪悪感を抱かせるだけのものである。
「私は、人斬りです。奪う者です。何かを与えられるものではない」
武路という国を奪い、己の野望を叶えんとした佐陀光久と。
他者の命を奪う事でしか生きる事の出来ない、人斬りの無縁と。
むしろ、人という尺度でみるのならば、己が夢を全うし死んだ佐陀の方が幾分か上等であるようにさえ、無縁には思えてならなかった。
「私には何もない。奪った命から責められるのを恐れ、死に場所を求める亡霊です」
「……。今も、死にたいと思っているのか」
飛丸に問われ、無縁は頷いた。
「それは……困る」
すると飛丸は、悲し気にそう呟いた。
死ぬなとも、生きろとも言わず、ただ、悲し気に。
「無縁が死んでしまえば、俺を助けようとしたものは、皆いなくなってしまうではないか」「……重郎翁がいるではありませんか」
無縁は首を振り、少し前を歩く重郎に目を向けた。
重郎は、二人の会話に口を挟まず、ただ静かに歩き続ける。
「確かにな。だが、それでも……俺、は……」
飛丸が、言葉を詰まらせる。
堪えているのだ。涙を流す事を。
そこで初めて、無縁は己の失言に気が付いた。
(……大切な者を失った者の前で)
死にたい、などと。死ねぬ身で口にしたのだ。
どんな罵倒を受けたとして、甘んじて受け入れねばならぬ失態だ。
だがどれだけ待っても、飛丸は無縁を罵りはしなかった。
代わりに飛丸が口にしたのは……無縁への、誘いだった。
「無縁。俺と一緒に来てくれ。俺は……不安なのだ」
飛丸に流れる、武路の血。それは遠からず戦を産み、多くのものを殺す。
その時、今度こそ自分は独りになってしまうのではないか。飛丸の胸に湧いたのは、そんな恐怖心に似た不安だった。
死なずの無縁が傍に居れば、飛丸が一人になることは、無い。
「……飛丸殿」
無縁には、そんな飛丸の気持ちが、痛いほどに分かった。
大切な者の死を見送って、それでも一人で生きていかねばならない。暗闇の中をただ一人で歩くような時間が、長く長く続く。そんな行く先を思えば……
「俺も……父上と共に、死んでいれば良かったのかもしれない」
そのように、思ってしまうのもまた、仕方のない事であった。
「それ、は……」
無縁は、再び重郎へ目を向けた。助けを求めての事である。だが重郎は、無縁の瞳を見つめ返すと、ゆっくり首を振った。自分に出来る事はない。飛丸に答えを返すのは、無縁の役目である……と。
無縁は、迷った。
多くの命を奪い、なお生きる。
今の飛丸の状況は、無縁のそれと似たようなものだ。であるなら、彼の死にたいという言葉を、どうして無縁が否定できようか。
といって、無縁は飛丸についていく気にはなれなかった。飛丸の元で働けば、それこそ無尽を巡っての争いに彼を巻き込んでしまいかねないからである。
ならば、どうすればいい? この男児の孤独に、私は何をしてやれる?
立ち尽くし、考え抜いた無縁は、やがて一つの返答を口にする。
「……会いに行きましょう。年に一度、飛丸殿に」
「俺に、会いに……?」
「共には行けません。代わりに、時折顔を見せに参ります。それでは、いけませんか?」
それが、今の無縁に出来る精一杯の事であった。
飛丸を一人にせず、無尽を狙っての戦いにも巻き込まない、精一杯の。
「……。であるなら、無縁……俺の知らぬ所で、命を使い切ってはならんぞ?」
「それは……えぇ、出来得る限り」
戸惑って、頷いた。それから無縁は、ふっと気が付く。
それでは、飛丸が生を全うするまで、私は死ねないではないか。
気が付くと、飛丸の顔には僅かながら笑みが浮かんでいた。
よもや、飛丸殿はこうなることが分かっていたのではあるまいか。
そんな風な疑念を抱きつつ、けれど無縁は……ほんの少し、温かな気持ちになっていた。
(……生きる理由が、出来てしまった)
とはいえ、やはり、本当ならば死にたいのも事実であり。
「では飛丸殿。私が訪れたら、あの粥をまた馳走してください」
そのくらいの報酬を要求してもいいだろうと、無縁は苦笑いして言うのであった。
【終】
武路鷹羽の剣術試合
いつの頃からであろうか。
武路鷹羽は、年に一度のその勝負を、心待ちにするようになっていた。
(……今年こそは)
思いながら、鷹羽は目を閉じ、黙想する。
脳裏に浮かべるのは、これまで六度行われたその勝負の記憶である。
一度目は、わけも分からぬ内に刀を弾かれた。
二度目も、反応する間もなく首元に刃を突き付けられた。
三度目は、初撃を防げたものの、第二撃に対応する術を持たず。
四度目は、ただひたすらに守りに徹したが、破られた。
五度目にして、ようやく相手へ斬りかかることが出来たが、隙を突かれるだけに終わり。
六度目において、それまで相手が手を抜いていた事にようやく気付いた。
そして今年が、七度目である。
(……今年こそは)
思い、願う。
この一年、鷹羽は全霊を持って剣の修業に明け暮れてきた。
その甲斐あってか、かつてはひ弱な童としか言えなかった肉体も、頑強に鍛え上げられている。
体躯も以前の比では無く、それに従い、刀もより軽く感じるようになってきた。
故に、思う。今年こそは、己の剣があの人に届くのではないか、と。
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