日本人のへそ

ATGである。日本アートシアターギルドである。

娯楽映画が好きな自分にとって、芸術性を重視するATG作品は苦手な部類に入る。しかし東映で、企画作品ばかりを撮っていた中島貞夫が、渡瀬恒彦を引き連れて低予算ながらATGで撮った『鉄砲玉の美学』のような佳作もあるから、映画の世界にはなにがどこに転がっているか分らない。

77年公開。ATG作品。『日本人のへそ』は、ある程度の実験性を保持しつつも、割合楽しく観られる作品だった。監督はよく知らないんだけど、須川栄三という人。
これは本当にどうでもいいんだけど、最近レンタルで「プレイガール」を見ていて、初期のメンバーですごく魅力的な人、真理明美という人がいて、いろいろ調べたら旦那が須川栄三だった。

ちきしょう。なんでこれほどまでに、映画監督と女優というのはできてしまうのか、と思ったが、特典映像のインタビューに出てきた真理明美が、すでにおばさんの領域を通り過ぎ、おばあさんになりつつあり、「プレイガール」の頃のピチピチした感じはなく、しなびた感じだったので、その嫉妬心もどこかへ消えた。

って、ことは置いといて、『日本人のへそ』なんだけど、井上ひさしの戯曲を元にしたもので、映画という映像表現手段のなかで、演劇が展開されるという、ちょっとややこしい構成になっている。
いつもなら、この手の映画を見る時、この時点でかなり及び腰になってしまうのだが、キャストが素晴らしく、その演技を見ているだけでも楽しめる作品だった。

とにかく出てくるメンツが一癖も二癖もある人たちで、緑魔子、美輪明宏、佐藤蛾次郎、三谷昇、ハナ肇、なべおさみ、小松方正、草野大悟(あまり知られていない役者だが「怪奇大作戦」第5話「死神の子守唄」は必見)など一筋縄ではいかない人たちばかり。

さらにその人たちを大学教授に扮するなべおさみが、アメリカ式の吃音矯正法、つまりどもりの人たちに演劇の台本を読ませ、芝居をさせることによって、どもりを直すという矯正法を受けさせる、というところから物語は始まる。

それぞれのキャラクターが、なんらかの原因によってどもりとなったのだが、そのなかでも熱烈な天皇主義者、小松方正が昭和20年の天皇人間宣言にショックを受け、どもりになったというのには爆笑した。

では、その矯正法で演じられる芝居のスジとは何かというと、人気ストリッパーの緑魔子が岩手から上京してきて、ストリッパーまで堕ちてゆく、という彼女のこれまでの人生の顛末を描いたもの。
と、ここで、それまで小劇場において繰り広げられていた劇空間が、本当に岩手の農村に移る。そこには学生服姿で初々しく恋心を通わす蛾次さんと緑魔子がいた。蛾次さんは岩手の空の下で、東京に出て音楽家として成功してやると燃えていた。

集団就職の荷物をまとめ、鏡の前でシミーズ一枚で化粧している緑魔子。それを見ていた親父はトチ狂い緑魔子を犯してしまった。親父に抱かれる緑魔子の姿を見つめているかのようなオシラサマ。

緑魔子はそれがショックで、どもりになった。

上京すると上野駅に、これから住み込みで働く家の主、ハナ肇が出迎えにきていた。
今から見ると、あまりそんな感じはしないのだが、デビューした頃の緑魔子は加賀まりこと人気を二分していて、小悪魔的魅力を振りまいていたそうである。
ただ77年のこの頃になると、女優としての成長が感じられ(当初は梅宮の辰っつぁんに貢いで捨てられてとかが多かった)、このあとの展開で素晴らしい演技を見せる。
ハナも緑魔子の魅力にやられたのか、犯そうとしたが失敗。代わりに緑魔子は浅草寺の境内で、インチキな英語の教材を売っていたニセ学生にしてテキ屋の美輪さんに入れあげてしまう。

美輪さんの口車に乗せられ、連れ込み旅館についていき、その体を任せたが美輪さんは抱くだけだくと豚づらかました。

だまされたことに気づいた緑魔子は、やけになりまずはトルコ嬢に身を落とした。さらにストリップ劇場にスカウトされ、踊り子に。
その劇場の支配人にして、振り付け師として登場する小松方正。なぜかルパシカを着ている。
「そう。縦縦、横横、丸描いてチョン。言われた通りに腰を動かすのよ」
言われるまま、ぎこちなく腰を動かす緑魔子。

この作品がある意味でややこしく、ある意味で面白いのは、あくまでも劇中で展開されるストーリーは演劇としての作り事という設定だから、同じ人間が違う役柄で何回も登場することにある。
天皇主義者の小松方正は、まずストリップ劇場の支配人として登場するのだ。さらに演劇という前提があるので、それがミュージカル仕立てで演出されていく。

このあと、ストリップ劇場のしがない幕間のコメディアン、三谷昇と草野大悟が労働者意識に目覚め、踊り子たちを焚き付け、ストを決行するのだが、そのスト破りに現れるのがやくざに扮した美輪さん。
「おうおうおう。どこのどいつだ!ストなんか焚き付けやがったのは!」
と、威勢良く啖呵を切る姿には、なかなか見ることのできない〝男・美輪明宏〟を見ることができるし、やはりなにやってもうまい人だなと思った。

その後、緑魔子はやくざ美輪さんの女になり(美輪さんが組事務所で、駆け出しのやくざに仁義の切り方を教えるのだが、「東映のヤクザ映画でも見て、勉強しろい!でも最近、少なくなったなー」とか言うのが面白い)、さらにそれにつるんでいる右翼の大物、小松方正の女になり、さらにその背後にいる政治家、なべおさみの女になっていく。

ある意味で、この映画の見どころをずばり言えば、岩手から出てきたイモ姉ちゃんだった緑魔子が、トルコ嬢になり、ストリッパーになり、やくざの女になり、右翼の女になり、政治家の愛人に成り上がってゆく、そしてそのそれぞれのシチュエーションを見事に演じ分ける素晴らしい演技にあると言える。

そのあとの展開は、実は本当のどもりはなべおさみで、他のみんなが協力し、なべを教授役にして、なべのどもりを矯正させるために美輪さんが(本当の教授)仕組んだ劇だった、というふうに転がって行く。
そのなかで、なべは本当は政治家、三谷昇はその秘書、草野大悟はやくざ、小松方正は右翼、緑魔子はなべの愛人で、今まで描かれてきたストーリーは、本当の緑魔子のこれまでの半生だったということになる。

ここらへんになると、やはりATG作品だなという気がして、井上ひさしの戯曲がそもそもそうなのか、それとも映画化するに際して、脚本作りでこうなったのかは分らないが、監督の意図としては、例えば極端な例を言うと大島渚の『新宿泥棒日記』のように、映画という虚構の世界のなかで、フィクションとノンフィクションの垣根、壁を崩してみたいという意図があったに違いない。

ただこういった実験性は、あくまで自分の価値感から言うと成功した試しがないし、逆に興ざめしてしまうだけである。
なぜかというと、映画というのは本質的にどこまで行っても虚構の世界(ドキュメンタリーの場合は少し違ってくるが)だし、逆にその虚構の世界をどこまで構築できるか?、というところにプログラムピクチャーを嗜好する自分は惹かれるからである。

だから最後の種明かしのようなシーンは、余分な感じがしたし、それこそ「あーあ。ネタバレしちゃった」というような気になった。

ただ、キャストたちの演技には、充分魅せられる。月並みになるが、今こういう一癖も二癖もある役者って本当にいなくなってしまった。
彼らが絡み、一筋縄ではいかない演技を見せる。それだけでも一見の価値ある作品か?

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