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88.オスロ合意を学ぼう

投げ銭制 2379文字

はじめに

奴隷商人の民ユダヤ人が神の指令通り、古代外国人として住んでいた土地、パレスチナに戻り盗み、建国した国がイスラエル。

創世記 17:6−8「神との約束の地→イスラエル」

そのイスラエルのパレスチナ人のジェノサイドが凄まじいことになっている。このジェノサイドでふと思うのは、一時平和になりそうな雰囲気の時があったろう?あれはどうなったんだとオスロ合意を学び始めた。

奴隷商人のユダヤ人たちを国に入れてしまったら、パレスチナの人々は国を奪われた。


オスロ合意の前の和平仲介はわざと暗礁

湾岸戦争後の1991年に米ソが共同議長国となって始まったマドリードでの中東和平会議は、ブッシュ(父)大統領はソ連のゴルバチョフに働きかけ、ベーカー国務長官が積極的に関係国とシャトル外交を行い、1991年10月末に中東和平会議の開催となる。

パレスチナ代表としてPLOの参加は拒否。具体的な進展がないまま終わった。その後のワシントンを舞台とした交渉も進展なく、アメリカ主導による和平仲介は暗礁に乗り上げた。

⭕️ マルタ会談→NWOへGO〜の米ソはわざと暗礁したんだろうな。アメリカは敵、それも湾岸戦争後より凶悪になっている。真面目に和平会議するわけ無いよね。(;´∀`)

マルタ会談・・・ここからNWOが大きく進む。冷戦状態が不幸中の幸い、国連内は日本のねじれ国会みたいな・・東西ユダヤ人が一致団結→湾岸戦争など→NWO(現代)

軽くオスロ合意の説明

1993年、ノルウェーの仲介でイスラエルとPLOが初めて和平交渉に合意し、パレスチナ暫定自治協定が成立した。翌年にパレスチナ自治政府も発足し、中東戦争以降のパレスチナ問題が二国家共存の原則で解決に向かうと思われた。

交渉は1993年春ごろからオスロ近郊で秘密裏に進められ、8月20日には合意に達した。9月9日、「オスロ合意」として発表。アメリカはこの交渉には一切関与していなかった。前年11月の選挙で当選して1993年初めに就任したクリントン大統領の仲介という形をとり、最終的な合意を国際的に明示することとなった。

左:イスラエルのラビン首相    右:PLOアラファト議長

【重要だと思う】

⭕️オスロ合意となる交渉は秘密裏に進められた。
⭕️「オスロ合意」にはアメリカはこの交渉には一切関与していなかった。
⭕️アメリカ新大統領の仲介という形をとっただけ。


イスラエルでは

イスラエルで旧約聖書原理主義リクード党内閣(シャミル首相、シャロン国防相)の対パレスチナ強硬政策が行き詰まり、

旧約聖書原理主義リグルード党(現在)
シャミル首相             シャロン国防相

1992年の総選挙で25年ぶりに”労働党”が政権を奪取し1992年の総選挙で25年ぶりに”労働党”が政権を奪取しラビンが首相となる、という変化が起きた。に仲介を求め、ノルウェーの首都オスロでPLO(パレスチナ解放機構)との秘密交渉を開始することに踏み切った。

ホルスト外相=ヨハン・イェルゲン・ホルストとは?

ノルウェーの政治家。オスロ合意の中心的役割を果たしたことで有名である。ホルストはノルウェーの防衛大臣であった。その後外務大臣に任命されると、最終的にオスロ合意として結ばれる流れを作ったが、その年の1993年12月に軽い脳卒中に倒れ、そのまま1ヶ月後に死去した。

妻で社会学者でもあるマリアン・ハイベルグは、ホルストが死を賭して和平プロセスを進めたと評価している。ホルストを称えて、ガザ市は6歳から16歳までの市民の活動の場としてホルスト公園を作った。

日にちを確認

◉交渉は1993年春ごろからオスロ近郊で秘密裏に進められ、
◉8月20日には合意に達した。
◉9月9日
、「オスロ合意」として発表。

⭕️”オスロ合意の影の立役者ノルウェーのホルスト外相は、1993年12月に軽い脳卒中に倒れ、そのまま1ヶ月後に死去した”!(;・∀・)


PLO(パレスチナ解放機構)

主な主張としては、パレスチナ人の民族自決権や離散パレスチナ人の(パレスチナ人の)帰還権である。

民族自決権各民族・人民が、みずからの意志によってその運命を決定するという政治原則。

また、政治路線としては、結成当初の規約では入植者ではないユダヤ人のみパレスチナの一市民と認め、武装闘争によりイスラエルを敵視してパレスチナを解放することをうたっていた。(もともと居たユダヤ人はしょうがない、OK)

ヤーセル・アラファート

ヤーセル・アラファートが第3代議長になってからはイスラエルとの徹底抗戦姿勢を退け、第三次中東戦争でのイスラエルの占領地の返還および、イスラム教徒、キリスト教徒、ユダヤ教徒が共存する民主的世俗的なパレスチナ国家を独立させることを目標とし(パレスチナの独立宣言)、憲章にあるイスラエル敵視条項の修正にも動いた。

1993年9月9日、「オスロ合意」として発表された要旨は、両者がはじめて相互に相手を承認し、イスラエルは占領地から撤退しパレスチナ人が自治政府を造ることを認めた上で、和平交渉に入ることに合資した、という画期的なものであった。

左:イスラエルのラビン首相    右:PLOアラファト議長

アメリカはこの交渉には一切関与していなかったが(笑)、クリントン大統領の仲介というをとり、最終的な合意を国際的に明示することとなった。

1993年9月13日にワシントンのホワイトハウスで、イスラエルのラビン首相とPLOアラファト議長が握手し、「パレスチナ暫定自治に関する原則宣言」に調印した。一般に、この宣言をオスロでの秘密交渉の結果生まれたものであるので、「オスロ合意」と言う。

オスロ合意は、事実上崩壊したが。。

当時のイスラエル内でのオスロ合意、パレスチナとの和平を阻止しようとする勢力は凄まじいんだよ。

つづき

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