6仏教を広めたとされるアショーカ王の平和思想
2024年7月14日、修正UP
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はじめに
東洋学術研究(1987) 通巻113号(26巻2号) 089 ... - ECHO-LAB
アショーカ王と平和思想 PDF
このPDFの著者は増原良彦さん、宗教文化研究所所長➡︎仏教を広く浅く広めた、ひろちさやさんの本名なんだよ。
ところがこのPDFでは、仏教は「嘘の平和」のシンボルとして使われたのだ。言うなれば、仏教は権力のお先棒を担いでいるのである。仏教は始まりから権力の走狗であって、民衆の弾圧に加担するものなのである。日本の民衆に与えた仏教意識は、そのようなものだ。
とまで分かっている!(-_-;)
本当に仏教に詳しくなれば、その答えに行き着くはずだが。どんな気持ちで沢山の仏教紹介本書いてたんだろうね??(汗)
アショーカ王と平和思想
平和な社会は、すでに平和であるから、「平和思想」にとっては不毛の土壌である。逆に戦乱の時期には、「平和思想」には平和をもたらす力はない。実際、「平和思想」に限らず、あらゆる"思想には現実を変更させる力はない"。
人類がいくら楽観主義になっても戦乱を収拾できるのは、大きな武力である。戦乱の時期にあって待望されるのは、その武力であって「平和思想」ではない。「平和思想」は、戦乱の時期の思想にあっては敬遠される。
平和の状態にあっても戦乱の時代にあっても、不毛なるものーーそれが「平和思想」で、そこに「平和思想」のパラドックスがある。
マウリヤ朝
仏教の開祖の釈迦がいたとされるインドの時代は、小国の分立状態だった。カープル峡谷からゴダバリ河にかけて、16国が成立し、互いに対立と抗争をしていた。そして、16大国が次第に統合されて4大国となり、釈迦が入滅したとされる前後の頃はマガダ国とコーサラ国の2大、大国が対立する情勢になっていた。釈迦の時代のインドは、勢力均衡によって平和が保たれていた。
時代背景を考慮することなく、論ずるのは、なにごとも非常に危険である。
それでは仏教に、というより釈迦に「平和思想」はあるだろうか・・?実を言えば、釈迦には「平和思想」はない。なぜなら、釈迦の時代は平和思想を必要としていなかったからである。
彼の思索は徹底して非政治的な問題ーー。つまり個人的な魂の問題に向けられている。個人の「心の平和」 であって、実際に社会が平和になる「平和思想」ではなかった。釈迦の仏教思想のオリジナルには「平和思想」はない。
大思想家は、本質的に「時代の子」である。時代が直面する思想問題に取り込んでこそ、大思想家たりうるのだ。釈迦の時代が「平和思想」を要請していれば、釈迦はそれに応じていただろう。
小国分立、勢力均衡の時代背景のなかで要請されている思想は、むしろ「発展の哲学」「覇道の思想」である。勢力均衡は一時的現象であるから、そこでは誰もが覇者たらんとする。それを権威づけるのが、時代の流れに乗った仕事なのだ。釈迦の思想には、そのような覇道の権威付けはない。
マウリヤ王朝の始祖チャンドラグタ王
アショーカ王は、マウリヤ王朝の第3代の王であった。 マウリヤ王朝の始祖は、チャンドラグタ王。前317年ごろ、インドでの西北で拳兵し、同地域のギリシアの軍事勢力を一掃し、兵をインド中原のマカダ地方に進めた。そして、当時のマガダ地方を支配していたナンダ朝の軍勢を破り、みずから国王となりマウリヤ朝を創始した。
このチャンドラグプタ王を補佐したのは、宰相であり軍師であるバラモンのカウティリヤであった。カウティリヤには、政治・経済・軍事を論じた有名な「カウティリャ実利論」がある。
チャンドラグプタ王はある時期に退位し、王位を子息のビンドゥサーラに譲った。そして、ビンドゥサーラの王位を継いだのが、アショーカ王である。 だが、アショーカ王は、すんなりと王位についたのではなかった。
仏教の言い伝えによると、彼は父王=ヒンドゥサーラに疎まれていた。父王に愛されていない事を知っていたアショーカ太子は、身の危険を感じて遠くタクシャシラー(現在のパキスタン北部の地)に逃げた。また、タクシャシラーの地で反乱が起きたため、父王がアショーカをタクシャシラーに・・わざと危険の地に派遣したのだ、とも言われている。
いずれにしても、アショーカ太子とビンドゥサーラ王との間に反目があったことは確実で、その原因は、アショーカのカーストに関する問題だと言われている。 アショーカの母は、チャンバー出身のバラモン女性であったとされる。(最高にエライ)
父のヒンドゥサーラは、初代のチャンドラブクタが「貧賤の身」であったから、やはり「卑賤の身」であった。カースト的には、シュードラ(肉体労働者)階級に属していたと思われる。だとすれば、父親よりも母親のカーストが遥かに高い。
インドにおいては、その間に生まれた子のカーストは、アウト・カースト(カースト外の賤民)とされてしまう。
アショーカ王はアウト・カーストのため、父親にうとまれていた。この逸話で、バラモン教は差別主義者で、仏教の平等思想は素晴らしいという、現代の逸話となった。
仏教を広めたとされるアショーカ王
アショーカの即位後の出来事であるが、大臣たちが彼の命令を無視した。三度に渡って自分の命令が無視されたとき、怒った彼は五百人の首を刎ねた。
また、後宮の女官たちが、庭園のアショーカの樹(無憂樹)の枝を折り、花を摘んで捨ててしまった時、彼は五百人の女官を焼き殺した・・ という逸話がある。これは、いちいち作り話と仏教の文献では断りが入れられている。しかし本当に作り話としても、国王の命令を無視する大臣たちがおり、国王を嘲笑するーーこれには断りはない・・・。
アショーカの樹は、その名称からアショーカ王のシンボルであったと思われる。女官たちは、アショーカ王がアウト・カーストであるが故に、これを蔑視していたことになる・・。それ故に、アショーカ王は残忍さを発揮した・・・とされるが、これはアショーカは残忍さの性格ゆえに、嫌われていて、アショーカの樹(無憂樹)の枝を折ったと考えるのが妥当であろう。
タクシャシラーの辺境の地に駐在していたアショーカ大子は、父王の病気の悲報に接するや、急遽、首都のパータリプトラに帰って、長兄のスシーマ太子以下99人の異母兄弟を殺戮。ビンドゥサーラ王には、百人の王位継承者がいたが、アショーカ王は全部殺してしまった。そうして王位を手に入れ、マウリヤ王朝の第三代皇帝となった。
残忍なるアショーカーーーしかし、その残忍さは、同時に仏教への転向のエネルギーとなったとされ、前半生における残忍さが、後半生の「平和」を引き立て、仏教の平和主義の美しい逸話として広く伝えられている。😅
即位後のアショーカ王の統治時代は、祖父が築いた大領土を保持継承したばかりではなく、インド東南岸のカリンガ国を平定して、大帝国を作り上げた。
そして、この広大な領土を、中央直下統治と地方総督によって統治される西北・西・東南・南の地方に分け、各地に地方総督を補佐する多数の行政官を送り込んだ。しかも、アショーカ王は、これらの役人を統制監視するためにスパイを送り、数年ごとに巡回監視官を派遣する制度を儲けている。
アショーカ王は政治(監視)に熱心であった。王は家臣たちに、次のように命じていた。
「私が食事中であれ、乗輿の上であれ、あるいはハーレムにいるときであれ、馬場であれ、いつでも、どこでも、上奏官は人民に関する事情を私に報告せねばならない。そうすれば、私はどこへいようと、即座に事務を裁くであろう」
アショーカ王の仏教への帰依
そのアショーカ王が後に仏教に帰依した。 仏教の帰依の動機に関して、2つの伝説が語られている。
○アショーカ太子が王位を手に入れるために、自分の異母兄弟を殺しはじめたとき、彼の父王の妃のスマナーがチャンダーラ(アウト・カーストの難民)の村に逃げて難をさけた。彼女は身籠っており、チャンダーらの村で男子のニグローダを産む。したがって、ニグローダはアショーカの王の異母兄弟にあたるが、彼は七歳のとき出家して仏教教団の僧となった。
後年、パーリブトプラの街を托鉢に歩くニグローダ比丘の姿をたまたま見て感動し、アショーカは彼に帰依し、そして仏教教団に帰依した。
○もう一つの伝説は、アショーカ王はギリカという名の凶暴なる死刑執行人を雇っていた。キリカのために家を立て、このギリカの家に迷い込んだ者を、ギリカに自由に殺させていた。ところがある日、1人の仏教僧がギリカの家に迷い込み、ギリカによって地獄の責め苦を受ける。けれども、僧は騒然自若としていて、ギリカは殺すことが出来ない。ギリカに呼ばれてギリカの家にやってきたアショーカ王は、そこでギリカを殺して僧に帰依した・・という話が仏教界では大変立派とされ、宣伝されている・・・。
カリンガ国への征服の戦争
アショーカ王が仏教に帰依した動機、または、きっかけと知られる、史実的に重要なものにはカリンガ国の征服戦争がある。
アショーカ王の即位は、紀元前268年ごろと推定されている。即位後10年ほどして、前259年ごろ、彼はインド東南岸のカリンガ国への征服戦争を起こした。戦争はアショーカ王の圧倒的勝利に終わり、マウリヤ朝はカリンガ国を自己の領土として併合した。
その戦争で、カリンガ国の兵士の15万人が捕虜となって他の地方に移され、そこで奴隷とされた。また、捕虜となった10万人は、その場で殺された。戦争で死んだ兵士は、その数倍であったと想定される。戦闘員ばかりではなく、多くの非戦闘員が殺された。
有能な政治家であったアショーカ王は、政治手段としての戦争の有効性を疑った。戦争は、必ずしも最上の手段ではない、と悟り反省したと仏教会では言われる。
そこには計算がある。いくら戦争が悲惨だといっても、戦争を廃絶して国家の経営が成り立たぬようであれば、依然として戦争に頼らざるを得ない。アショーカ王が戦争を絶廃して、仏法による政治に切り替えた裏には、計算があった。その計算の根拠は、例の「マウリヤ王朝の平和」 である。
それがあればこそ、「平和の政治」が可能であったのだ。
けれども、実を言えば、「アショーカ王の平和」が可能になったのは、戦争によってマウリヤ朝が平和になったからで、仏教の平和思想によって平和になったのではない。
アショーカ王の「平和思想」
アショーカ王の「平和思想」の、その計算は何であろうか? アショーカ王が広めたとされる仏教は、ある意味で平和の教えを説いている。
ーー「我、ののしられたり、我、害されたり、我、敗れたり、我、強縛されたり」という思いをいだかるざる人は、怨みが静まる。 ーーおよそこの世において、怨は怨により静まることなし。怨を捨ててこそ静まるなり。これ普遍の真理なり。
ーーすべての者は暴力に怯え、死を恐れる。己の身にくらべて、殺すべからず、殺さしむべからず。 ーーすべての者は暴力に怯え、命をいとしむ。己れの身にくらべて、殺すべからず、殺そうとするべからず。
ーー生きとし生ける者は、安楽を欲す。もし暴力をもってこれに危害を加えなれば、自己の安楽を求めても、死後にも安楽をえず。 (引用『ダンマバダ』)
たしかにここでは、暴力が否定され、「平和」を述べている。けれども、ここで言われている「平和」は、あくまでも個人の気休めレベルである。
一方、アショーカ王が政治的手段として求めていた「平和」は、国家レベルでの平和であったはずだ。そして、国家レベルでの平和に対する発言は、仏教にはない。
したがって、アショーカ王は「平和思想」を求めて、あるいは「平和思想」のゆえをもって、仏教に帰依したのではない。
彼は仏教を上手く利用した、そう考えたほうが自然である。 とすれば、アショーカ王が別な理由で仏教に帰依していた、その別の理由とは何であろうか・・・?
アショーカ王は、カースト的には非常に低い出身。最低のカーストであるシュードラよりも、遥かに差別されたアウト・カーストの出身であったとされる。そんなアショーカ王が、バラモン教に帰依したところで、なんの利点もない。仏教はカースト制度に反対し、カースト制度を否定した例外的な宗教であった。ゆえにアショーカ王は、仏教を選択したとされる。
マウリヤ王朝の平和な時代
アショーカ王はカリンガ国征服戦争のあと、戦争の悲惨さを反省し、二度と戦争を起こさぬことを誓ったことになっている。そして彼は「仏教のダルマ(法)によって政治を行おうとした。この征服虐殺一人勝ち戦争後、「ダルマ」を民衆に浸透させるために、領土の各地に碑文を刻んだ巨大な石柱を建てた。
また、国境地方には、多数の「石の碑文」を作っている。
もっとも、アショーカ王は仏教に帰依し、仏教を保護・援助したが、仏教だけを保護したのではなかった。バラモン教、ジャイナ教、アージーウィカ教といった諸宗教にも経済的援助を与えた。その意味では、アショーカ王の宗教の政策は「自由」と「寛容」の精神にもとづいていて、流石したとされる。
さて、アショーカ王の「平和政策」であるが、これにはどのような意味があるのか・・・?彼は、二度と戦争を起こさぬことを誓っているが、その誓いの真意はどこにあるのか? ?
アショーカ王に好意的に解釈すれば、彼は仏教に帰依したがゆえに平和主義者になり、「平和思想」を信奉したーー。だが、この解釈はないだろう。なぜなら、アショーカ王は為政者であり、為政者はいかなる「主義の人」であることは出来ない。
理想と現実は必ず矛盾するものであるから、為政者が理想主義者であれば、彼の行う政治は破綻をきたす。それ故、為政者はいかなる主義・理想を持ってはならないのである。
先に述べたように、アショーカ王の祖父であったチャンドラブクタ王には、カウティリアという名参謀がいて、王を補佐していた。そのカウティリアは次のよう発言している。
「・・・苛酷なる王杖(権力、刑罰、暴力)を用いる王は軽蔑される。適切に王杖を用いる王こそが尊敬される。
軟弱なる王杖を用いる王は軽蔑される。適切に王杖を用いる王が尊敬される。実際、良く熟知して用いられた王杖が、臣民に法(ダルマ)と実利(アルタ)と享楽(カーマ)とをもたらす。
欲望や怒りや軽蔑により不正に用いられた王杖は、林住期と遊行期にある人々も憤慨させる。いわんや家住期にある人々の場合はなおさらである。しかし、王杖を全く用ぬばあいは、魚の法則(弱肉強食)を生じさせる。
すなわち、王杖を執る者が存在しない時には、弱者が強者を食らうのである。王杖に保護されれば、弱者も力を得る」
カウティリヤは、適切なる王杖ーー王権、刑罰、それはイコール暴力の使用を言っているのであり、暴力の廃絶を呼びかけているのではない。暴力(王杖)がまったくなければ、社会は弱肉強食状態となり、かえって混乱する。アショーカ王も大王であるから、そのことは良くわきまえていたはずだろう。
したがって、カリンガ国征服戦争に行われたアショーカ王による「戦争廃絶宣言」も、必ずしも国家の交戦権の放棄ではない。いかなる王も、王杖(暴力)を手放せば、その瞬間に彼は王ではなくなるのだから。
アショーカ王が「戦争放棄の宣言」をしたことは、戦争によらずにマウリヤ帝国の維持・発展が可能になったからである。すなわち、「マウリヤ王朝の平和な時代」の体制が出来上がったたためである。
カリンガ国は、マウリヤ帝国に対抗する大勢力であった。将来、カリンガ国によってマウリヤ帝国の基盤が崩される危険がある。そう見抜いたからこそ、アショーカ王は苦戦を承知でカリンガ国と交戦した。案の定、カリンガ国の征服は困難な戦争であった。多くの人命が失われた。
そして、戦争はマウリヤ帝国の勝利におわった。そうなると、もはや軍事力は役に立たない。国内の治安を維持できる程度の軍事力でよい。マウリヤ帝国の中央に軍事力を温存し、その他の軍事力は廃絶する。そのほうが、国家の基盤は安泰である。そのような計算にもとづいて、アショーカ王は「平和」の政策への転換を図った。その点は、徳川幕府の政策によく似ている。
徳川幕府自身が編慕した歴史書である【徳川実紀】はこう述べている
武力によって天下を統一した徳川家康は、「馬上をもって天下を得た」ものを「馬上をもって治めるべからず」と悟り、文治主義に路線を変更した。『徳川実紀』はそれを家康の英断と称楊しているわけだが、それは、天下統一の暁には武断主義はかえって危険であるから。
武断主義の大前提は、「天下は回り持ち」の思想であり、回り持ちであるかぎり新しい覇者によって天下は奪われる。それを避けるためには、「天下は回り持ち」の思想に同意してはならず、そのためには武断主義を止めなければならない。
それが、アショーカ王の「平和思想」である。したがって、それは、いわゆる思われている「平和思想」ではなかった。戦争を必要としていない「絶対征服体制維持」のための「平和的王杖(民の思想管理)」の使用である。
建設的平和思想?
為政者は、必要とあれば暴力を振るわなければいけない。そしてその必要は日常差万事的にある。 問題は、アショーカ王と仏教の結びついた理由である。仏教は、前にも述べたが「心の平和」を説く。それは、個人レベルにおいての一種の気休め程度の「平和思想」にすぎない。
政治からかけ離れたところで、政治と絶縁しているがゆえに主張できる平和な「平和思想」である。そうした「平和思想」が、アショーカ王によって採用された。
アショーカ王の平和思想は、「平和なマウリヤ王朝」に裏付けられて可能な政策で、つまり「絶対的支配体制が完備」していたから、アショーカ王は平和を語る政策を採用できた。これは、被支配階級にとっては抵抗不可能を意味する。
つまり、アショーカ王のマウリヤ王朝の政治は、下からの抵抗を封じることによって、上からの勝手な平和を押し付けた。それが『マウリヤ王朝の平和な時代』の真の意味である。 平和が強調されればされるほど、下からの抵抗権が抑圧される。
本来、政治と関係ないと思われる仏教が、みごとに政治的役割を担っていて、しかもその役割は、為政者の側に加担し、民衆の側からの抵抗権を抑圧するものであった。
上から与えられる「平和思想」は、むしろ真の平和を抑圧してしまうのだ。これは見せかけの「平和思想」であり、まやかしの「平和思想」である。 つまり、為政者アショーカ王は自分に都合の良い社会体制を作った。
しかし、そのような体制は、必ずいつか下から突き崩そうとされる。その下から伸びてくる力を抑え込むために、絶対的支配体制をつくりあげるためにも、仏教は「嘘の平和」のシンボルとして使われたのだ。言うなれば、仏教は権力のお先棒を担いでいるのである。
仏教は始まりから権力の走狗であって、民衆の弾圧に加担するものなのである。現代日本における民衆に与えた仏教意識は、そのようなものだ。
「平和なローマ」
ちなみに古代ローマでのキリスト教の場合は反対で、「平和なローマ」の下にあって、支配者であるローマの側に立ってはおらず、被支配者であるユダヤ人の立場に立って「平和思想」が作られていて、ユダヤ人の立場に立って為政者の抵抗権を抑圧する。
ガンジーの「非暴力非服従」
抵抗権がない者には、非服従の力はない。
今の日本。
アショーカ王の謎解きはつづく・・・
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