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7カウティリヤ「実利論」 古代インドの帝王学

アショーカ王の平和思想で出てきたカウテリヤのお話の記事です。ここに一部書き起こしてくれた人が居る。そのコピペです。リンク

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「実利論」上・下、カウティリヤ、岩波文庫、1984

そういやぁ1984年にすごい本が出た!と大きな本屋で宣伝されていたのを見た記憶がある。難しそうで貧乏なのでスルー。読んでおけば人生変わったかもと思った内容だ。アショーカ王調べで気づいたものの、再販はされず値段は高騰している。唯一安いのを見つけ買ったのでnoteにUP(ヒドイ・汗)

なお、英語では全文無料で閲覧できるようになっている。インドでもそうだったような・・仏教調べで気づいたが、日本にはそのようなものはなく、日本人は学びたくても学べないように操作されているようです。

ようするに支配層はこれを知っている。民は願えば叶うとか、愛なのよとか念仏とか、宗教と代わりのないイデオロギーや、五次元の宇宙人がいつか助けに来てくれると思っている。支配層は、マーヤはない。9500文字オーバー。

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・本書はカウティリヤの著作と伝えられる「アルタシャーストラ」の全訳である。アウティリヤはマウリヤ王朝を創始したチャンドラグプタ王(紀元前317~293年ごろ在位)の名宰相であったとされる。カウティリヤ本人によって紀元前4世紀に書かれたという説から、紀元後3~4世紀に別人によって書かれたとする説まで諸説がある。

本書は単なる政治手法の書ではなく、経済や法律に関し、さらには学問、王宮、建築、宝石、金属、林産物、武器、秤と桝、空間と時間と単位、紡績、織物、酒造、遊女、船舶、牛、馬、象、旅券、賭博その他諸々の事項に関し、多様な情報を与えてくれる、百科全書的な書物であり、古代インドの社会や文化を知る上での貴重な資料なのである。


「実利論」は、バラモン教の教えをその基本としている。すなわち、四姓(バラモン、クシャトリヤ、ヴァイシャ、シュードラの各カースト)と四住期(学生期、家住期、林住期。遊行期)の決まりが遵守されていれば世間(の人々)は繁栄し滅びることはないという考えをベースとしている。

そして、王が行うべきこと、すなわち政治は、「王の幸福は臣民の幸福にあり、王の利益は臣民の利益にある。王にとって、自分自身に好ましいことが利益でなく、臣民に好ましいことが利益である」との認識に立ち、「王杖を全く用いぬ場合は、魚の法則(弱肉強食)を生じさせる。即ち、王杖を執る者が存在しない時には、強者が弱者を食らうのである。王杖に保護されれば、(弱者も)力を得る」として、弱者を含めた人々の幸福を保証することを王道として説いている。

人生の三大目標法(ダルマ)実利(アルタ)享楽(カルマ)のうち、「実利こそが主要である」とカウティリヤは言う。何故なら実利は法の根であり、また享楽を果とするからである。

・そして、法と実利と享楽をもたらし、守護し、非法と不利益と憎悪とを滅するために、あくまでも冷徹にそれを実現するためになすべきことを、王の長官の任命と監視、立法と司法(違反した場合の罰則をふくむ)と執行、外交、戦争(軍事)、内外での諜報活動などあらゆる分野でなすべきこととその手段を網羅的・体系的に述べる。


* 独断と偏見
・本書にまず圧倒されるのは、その間口の広さと奥行きの深さ。冒頭でいきなり学問論を始める。「学問は、哲学とヴェーダ学と経済学と政治学である」と言い、哲学を独立した学問の一分野であるとする。
間口の広さ・深さの一例をあげれば、第二巻長官の活動で、地方植民・城砦の建設にはじまり、人間のほぼ全ての経済活動領域を対象にその内容と何をなすべきかが的確に・生き生きと描写され、その当時の人々の暮らしが鮮やかに脳裏に焼き付けられる。

・「ラディカルなマキァヴェリズムの書か?」: マックス・ウェーバーがその責を負わねばならないのだろうが、この問い自体が間違っている。「実利論」は「君主論」の1000年以上前に書かれており、「マキァヴェリ」を物差しとして測ろうというのは失礼な話。

マキァヴェリズムを「どんな手段でも結果として国家の利益を増進させるなら許されるとする考え方」と定義すると、「実利論」はマキァヴェリズムではないとカウティリヤは答えるであろう。

何故なら、「実利論」で述べられている手段(行動)は、法・実利・享楽の実現を阻害している要因を除去するものにすぎないのだから。

・「行動の書」:「実利論」は実現すべき国の姿のヴィジョンを明確に持ち、そのために各領域でなすべきこと具体的にかつ網羅的に述べられている。そこが単なる権謀術策の書と大きく異なる。「実利論」で一貫しているのは、行動をとることによってしか目標は達成できないとの視点に立ち、空理空論を述べるのではなく、全て具体的に行動レベルでなすべきことを説いていること。


カウティリヤは、王権下でも「弱肉強食」を防止し、三大目標である「法」・「実利」・「享楽」を実現し、人々に幸福をもたらすのが政治の使命だと、説いているのだ。


本書の中心的なメッセージは権謀術数にあるのではなく、「国王は国民の安寧を守るために、精励努力して実利を追求すべきである。見寄りのない小児、老人、被災者、婦人などの弱者を守るためには社会的秩序が必要であり、そのためには揺るぎない権力が必要である。」ということに尽きる。国民の安寧や弱者の保護に結びつかない国内の政争や権謀術数は不毛であるばかりか有害でもある。



 「マキアヴェリとおなじように、自分が目にした世界を分析し、行動の指針として規範ではなく実利を提案した」。

「『実理論』では、他の国をすべて征服し、勝利に向かう道に存在するそういう釣り合いを克服することが、戦略の目的である。

その点からすると、カウティリヤはマキアヴェリではなく、ナポレオンや秦の始皇帝になぞらえられるべきだろう」。

「カウティリヤはマキアヴェリとは違い、より良い時代の美徳への感傷を示さなかった。カウティリヤが認める美徳の基準はただひとつ、勝利への道についての自分の分析が正確かどうかということだけだった」。

「いわばマキアヴェリとクラウセヴィッツを組み合わせたような理論だった」「実利論は国際秩序を打ち立てるための手引ではなく、征服のための手引だった」。

ヘンリー・キッシンジャーは驚くほど高評価を下している。

さらに、マックス・ウェーバーも「これに比べればマキャヴェリ『君主論』などたわいもないものだ」と述べている。

本書はカウティリヤの著作とされる、原題『アルタシャーストラ ARTHASASTRA』の全訳で、カウティリヤの別名は、チャーナキヤ、またはヴィシュヌグプタといい、ナンダ朝を倒してマウリヤ朝を創始したチャンドラグプタ(前三一七~前二九三年ごろ在位)の名宰相であったとされている。

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マウリヤ王朝の初代王、チャンドラブクタと支えたカウティリヤ
マウリヤ王朝のアショーカは三代目の王。 父のヒンドゥサーラは、初代のチャンドラブクタが「貧賤の身」であったから、やはり「卑賤の身」であった。カースト的には、シュードラ階級に属していたと思われる。

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歴史では、シュードラのチャンドラブクタをカウティリヤは支えたことになってる。本当かね?(笑)
これだけデキる人ならば、支えたいような素晴らしい人を支えたいと思うと思う・・。

キッシンジャーやウェーバーが評しているように、本書には、江戸時代の仏教学者・富永仲基が暗示した、「インド人は『幻』」はない。そこにあるのは、国がアナーキーな状態にならないために、「実利」の実現の追求のみ。

隙あらば戦を厭わない。

インドでは古来から、ダルマ(法)とアルタ(実利)とカーマ(享楽)とが、人間の三大目的であると考えられてきたが、カウティリヤは、アルタ(実利)をもっとも重視し、他の二つはアルタに依存するとしている。この時代に、こんなことを考えていたのが恐ろしい。

第一巻 修養 第二巻 長官の活動 第三巻 司法規定 第四巻 刺の除去

第五巻 秘密の行動 第六巻 [六計の]基本としての輪円 

第七巻 六計について(外交政策本論) 第八巻 災禍に関すること 

第九巻 出征する王の行動 第一〇巻 戦闘に関すること 

第一一巻 共同体に対する政策 第一二巻 弱小の王の行動 第一三巻  城壁の攻略 

第一四巻 秘法に関すること 第一五巻 学術書の方法(タントラ・ユクティ)

長くなるが目に留まった言葉を拾っていきたい。

シュクラとブリハスパティに敬礼する。土地の獲得と守護を目的として、古の学匠たちに説かれた諸々の実利論の大部分を一書にまとめて、この『実利論』が作られた。


『実利論』カウティリヤ

哲学は常に、一切の学問の灯明であり、一切の行動の手段であり、一切の法の依り所であると考えられる。

苛酷なる王杖を用いる王は生類の恐怖の対象となる。
軟弱なる王杖を用いる王は軽蔑される。
適切に王杖を用いる王が尊敬されるのである。

王杖を全く用いぬ場合は、魚の法則(弱肉強食)を生じさせる。
即ち、王杖を執る者が存在しない時には、強者が弱者を食らうのである。
王杖に保護されれば、弱者も力を得る。

学習から知性が生じ、知性から実際的教訓(ヨーガ)が、実際的教訓から自制が生ずる。これが学問の効用である。

実際、学問に陶治された王は、臣民の陶治に専念し、全生類を益することに専念し、対抗者なき大地を享受する。

陶冶
人格や能力を鍛え上げることを意味する表現。

感官の制御は学問における修養を要因とし、愛欲・怒り・貪欲・慢心・驕慢・[過度の]歓喜を捨てることにより得られる。

感官の制御とは、耳・皮膚・眼・舌・鼻という感官が、音声・接触・色(外観)・味・香に対して迷わないことである。

あるいは、学問を実践することが[感官の制御をもたらす]。とうのは、ここにあげたすべての学問が感官の制御[をめざすから]である。

彼等及びその他の多くの王は、[愛欲その他の]六種の敵の群に執着し、感官を制御することなく、親族王国もろとも滅亡した。

法と実利に矛盾することなく享楽を追求すべきである。

王権は助力者により完うされる。車輪は一つのみで転ずることはない。それ故、大臣たちを任命し、彼等の意見を聴くべきである。

バラモン(宮廷祭僧)により光輝あるものとされ、顧問官(マントリン)の助言により浄化され、[政治]論書に準拠することにより武装され、王族は無敵となり、完全に勝利する。

親類がなく、従者や扶養家族のいない者たちで、観想術、身相学、魔術、幻術、四住期の義務、前兆学、方位輪、社交術を学んだ者が、秘密工作員(サツトリン)である。

その息子と妻とを人質にとってから彼等を二重スパイとなすべきである。そして敵に起用された二重スパイたちを識別し、彼等の潔白を同類[のスパイ]たちにより識別すべきである。

敵国にも友邦にも中間国にも中立国にも、また彼等[諸王]の十八種の要人にも、スパイをばらまくべきである。

怒った者、貪欲な者、恐れる者、高慢な者たちは、敵に誘惑され得る。

[王は]満足した人々に対しては、財物と名誉とによって敬意を表すべきである。

不満な人々に対しては、懐柔策・贈与策・離間策・武力(実力行使)によって鎮圧すべきである。

敵国における誘拐可能な人々を、懐柔策と贈与策とにより獲得すべきである。また、誘惑不能な人々を、離間策と武力(実力行使)とにより[制圧すべきである]。敵の過失を指摘しつつ……。


敵が彼の機密を知ることなく、彼が敵の弱点を知るようにせよ。

亀が体の部分を隠すように、自己の露呈しそうな部分を隠すべきである。

王の幸福は臣民の幸福にあり、王の利益は臣民の利益にある。

王にとって、自分自身に好ましいことが利益ではなく、臣民に好ましいことが利益である。


それ故、王は常に精励であり、実利の実現に努力せよ。精励は実利の根本であり、その逆は不利益のもとである。精励で無い場合には、獲得したものも、いまだ獲得しないものも、必ずや滅する。精励によって成果が得られ、豊かな利益を得ることができる。

かつて開拓された地方、あるいは開拓されなかった地方に、他国から人を誘致したり、自国の過剰人口を移すことにより、入植させるべきである。

蜜であろうと毒であろうと、舌の上に置かれたらそれを味わわずにはいられないように、官吏は王の財産をわずかでも味わわずにはいられないものだ。

水中を泳ぐ魚が水を飲んでも知られることがないように、職務に任じられた官吏が財を着服しても知られることはない。

空を飛ぶ鳥の道は知ることができよう。しかし、密かに行動する官吏の道は知り得ない。

国庫は鉱山を源とする。国庫より軍隊が成立する。国庫に飾られた領土は、国庫と軍隊とにより獲得される。

反逆的な大官を、弱小の軍隊と刺客とをつけて、派遣すべきである。夜中や日中に、戦闘が始まったら、刺客か、盗賊に扮した[スパイ]が彼を殺して、「彼は戦闘中に殺された」と告げるべきである。

園林から熟した果実を得るように、王国から熟した果を得るべきである。
自己の破滅の危険があるから、謀叛の原因となる未熟の果を避けるべきである。

人格を欠いた王は、政治論を嫌悪し、あるいは有害な者と交際することにより、大なる権力を獲得しても、存続しないからである。

時を失うことなく、[王に]に好まれ有益な人々とともに、王のためになること、自分のためになること、他者のためになること、法と実利にかなうことを、適切な場所と時間に語るべきである。

好機を待つ人に、好機は一度しか来ない。事をなさんと欲する人に、好機は再び得られがたい。

隣隣国の諸王を輪縁とし、隣接国の諸王を輻(や)とし、諸構成要素の輪円(マンダラ)において、指導者(征服者)は轂(こしき)である自らを拡大すべきである。

諸構成要素と輪円(マンダラ)は、六計の母胎である。六計とは、和平、戦争、静止、進軍、依投、二重政策である。

敵よりも劣勢の場合は、和平を結ぶべきである。優勢の場合は、戦争すべきである。

「敵は我を、我は敵を破ることはできない」と判断した場合は、静止すべきである。

卓越した長所をそなえている場合は、進軍すべきである。

能力が欠けている場合は、[他に]依投するべきである。

所期の目的が[他者の]協力により成就され得る場合には、二重政策をとるべきである。

かくのごとく、これら六計により、諸構成要素と輪円に立ち、諸事象において減退から現状維持へ、現状維持から発展へと、追求すべきである。


二大強国の間にいる場合は、援助の可能性のある方に庇護を求めるべきである。または、(自国が)その緩衝国となっている方に庇護を求める。

あるいは、両者に対し、「瓦笥」(和平)により庇護を求めて存立すべきである。

あるいは、一方の根絶を他方に説きつつ、相互を[滅ぼすことを]口実にして、両者の離間を計るべきである。

両者が離間したら、「沈黙の刑」(謀殺)を用いる。

両者に圧迫されたら、[諸王の]輪王に庇護を求めるべきである。または、中間国や中立国に庇護を求めるべきである。

自分が彼に好まれている者と、彼が自分に好まれている者のうち、どちらに[庇護を求めるべきか]。自分が好まれている者のもとへ行くべきである。これが依投の最高の寄る辺である。

もし劣勢の王があらゆる点で服従しているなら、和平を結ぶべきである。というのは、[もし追いつめれば]苦悩と恨みより生ずる熱は、森火事のように、人を勇猛にするから。そして、[諸王]輪円(マンダラ)が彼に好意を寄せる。

領土の一部を放棄して、残りの諸構成要素を救うのが「割譲」という和平である。これは、スパイや盗賊により[敵に]損害を与えようとする者には好ましい和平である。

互いに[他を]制圧しようと欲する敵と征服者とが、相手を倒すことができない場合、開戦後、あるいは講和後に静止する。

賢者は、隣国の王を他の隣国の王と戦わせた後、その味方をすっかり分断して、他者の領土を奪うべきである。

戦争には、公開戦と、謀略戦と、沈黙戦とがある。

公開戦は指定された場所と時間とにおいて戦うことである。

[敵を]戦慄させること、急襲、油断や災禍の時に攻撃すること、[戦闘を]放棄[するふりをし]同時に攻撃すること、以上が謀略の型である。

秘策(ヨーガ)及びスパイによる扇動が沈黙戦の特徴である。

条約を申し込まれた者と申し込んだ者とは、まず最初にその動機を知るべきである。それから、両面について熟考した後、よりよい結果をもたらす方を選ぶべきである。

[同盟軍に]攻撃されようとしている可進攻国(攻撃目標)は、同盟の動機を除こうと望んで、またはそれを破壊しようと望んで、同盟軍のいずれかに対して、二倍の利得を与えると約して、取引すべきである。

取引しつつ、彼は相手に、[敵との同盟による]損失・出費・遠征[の苦しみ]・障害・敵の利益・身の危険を説くべきである。もし相手が承諾したら、彼に財物を贈与すべきである。あるいは、他の者たちと不和にさせて、同盟から離間さすべきである。

同等・劣勢・優勢な諸王は、利得が平等な場合は同盟し、不平等な場合は戦争をすべきである。以上、同盟(和平)と戦争について述べた。

同一の目的により結びつき、援助し、変わることなく、困窮時にも友情を保っているものが、二心のない友邦である。

友邦は友情により不変であり、敵と共通[の利益を有すること]により変節する。どちらにも無関心な時は中立であり、両方に関心を有する時はいずれにも属する。

[二大強国の間の]緩衝国となっている友邦は、[実は]征服者の敵であり、[援助の]義務を果たせず、能力もなく、援助することはない。

弱小の王から領土を得ることは容易ではある。しかし、その領土獲得は貧弱なものにすぎず、[彼の]友邦であった、その[弱小の王の]隣国の王が敵となる。

人民が分裂している土地と人民が団結している土地とでは、人民が分裂している土地の方がすぐれている。人民が分裂している土地は支配されやすく他者に扇動されず、しかも逆境に耐えられない。


敵の事業の繁栄は指導者(征服者)の減退であり、その反対は発展である。事業の進行が等しい時は、征服者はこれを自己の現状維持と知るべきである。

敵の[軍事]行動を妨げる三種の背面攻撃者が知られるべきである。即ち、背後にいる隣国の王の群と、側面にいる二人の隣接の王とである、そして、そのすべての輪円に、常に使節とスパイとを駐在させるべきである。ライバルの盟友として[同盟を結び]、秘密のうちに何度も攻撃しつつ。

秘密を保てない者の事業は、特別に成功を収めたとしても、海上の破船のごとく、疑いなく帰滅するものだ。


前もって[スパイとして敵国に]配置された役者・舞踊家・歌手・演奏家・咄家・吟誦者・綱渡り・奇術師たちが、敵の近くに仕えるべきである。

友邦が非常に弱体化し、援助もせず敵にもつかないならば、実利[論]を知る者は、それが衰えもせず発展もしないように設定すべきである。

変節しやすい友邦が、自己の利益のために[征服者と]和平を結ぶなら、それが変節しないように、それが離脱する原因を除去すべきである。


 友邦が中立国の状態にある時は、それを隣国の諸王と争わせるべきである。それから、彼が戦争に疲弊したら、彼に義務を遂行させるべきである。


発展、衰退、現状維持、弱体化、殲滅。実利論に通じた者は、これらのあらゆる方策を採用すべきである。


諸学についての教養が無いことが人間の悪徳の原因である。というのは、無教養の者は悪徳の弊害を見ないからである。


軽蔑された者は自他の国民により圧迫されるが、憎悪された者は殲滅させられるからである。敵を作ることは財産を失うことよりも悪い。財産を失うことは国庫を害うが、敵を作ることは生命を害うからである。

苦悩と結びつくことは有害な連中とつきあうことよりも悪い。有害な連中との交際は瞬時に解消され得るが、苦悩との結びつきは長期にわたる苦痛をもたらすからである。

以上よりして、怒りの方がより大なる[悪]である。


欲望(カーマ)は悪人を助長し、怒りは善人を抑圧する。多くの弊害をもたらすから、この両者はこの上ない悪徳(災禍)とされる。

大衆は数が多いから、大衆の損失は補充することができるが、指導者の損失はそうではない。というのは、何千人のうちに指導者は一人いるかいないかである。彼は精神力と智慧において卓越し、大衆は彼に依存するからである。


常に行動的で、災禍において自軍を敵から守れ。
常に行動的で、敵たちの軍の弱点を攻撃せよ。


「敵はこれだけの兵力を持っている。彼に対し、これだけの対抗軍が[必要である]」と考えて、軍隊を起用すべきである。


外部で発生し、内部から呼応する。内部で発生し、外部から呼応する。
外部で発生し、外部から呼応する。内部で発生し、内部から呼応する。

―以上が謀叛[の種類]である。


懐柔策は一重の性格を有する。贈与策は、懐柔を前提とするから、二重の性格を有する。

離間策は、懐柔と贈与を前提とするから、三重の性格を有する。

武力(実力行使)は、懐柔・贈与・離間を前提とするから、四重の性格を有する。


実利(アルタ)と法(ダルマ)と享楽(カーマ)とが、三種の利益(アルタ)である。そのうち、順次前のものが生ずる方がすぐれている。

実利(アルタ)は法(ダルマ)の根であり、また享楽(カーマ)を果とするから、
実利に関する成就は法と実利と享楽に連結するものである。

それは一切の利益(アルタ)(目的)を成就させる。


平坦の地形の場合は杖陣(ダンダ)と円陣(マンダラ)が、
平坦でない場合は蛇陣(ボーガ)と分散陣(アサンハタ)が、
両者が混った地形の場合は不規則な陣形が[採用さるべきである]。

より強力な敵を破った後は、和平を要求すべきである。
同等な力の敵から要求されたら、和平を結ぶべきである。
劣勢の敵は、これを撃つべきである。

しかし、自己に適した土地に達した者や、捨身の者の場合は、決してそれを攻撃してはならぬ。

生きる希望を失って、再び[戦いに]転じた者の激しさは手に負えなくなるものだ。それ故、敗者を追いつめてはならぬ。

征服者は敵の領土を得てから、中間国を得んと欲くすべきである。
それが達成されたら、中立国を[得んと欲すべきである]。
これが地上を征服するための第一の道である。


この論書は、法(ダルマ)と実利(アルタ)と享楽(カーマ)とをもたらし、守護し、非法と不利益と憎悪とを滅する。


[政治]論、武器、ナンダ王国に属した領土を、慷慨して速やかに執り上げた人、まさにその人によりこの論書が作られた。


 カウティリヤも「諸学についての教養が無いことが人間の悪徳の原因である。無教養の者は悪徳の弊害を見ないからである」とも述べているのだから。

そして、孫子は「気」だが、カウティリヤはインドらしく「輪円(マンダラ)」として世界を捉えているのは面白い。

華僑が唯一騙せないのが、インド人だ、と言うことを聞いたことがあるが、

本書を読んでその意味が理解できたし、今現在どこかの国を抑え込むために、インドと軍事や経済などの関係を更に深めようとしているが、日本人の純粋・無垢、悪く言えば幼稚な感覚で接すると、痛い目にあうだろうとも思った。

心からは信用はできない。国際社会では、それが当然の感覚なのかもしれないが。

カウティリヤ実利論とその都市計画研究との関連性[pdf]

おわり

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