小樽の堺とオコバチ川の由来
於古発川をご存知でしょうか。
小樽運河の観光をされた方なら恐らく一度は見たことがあるのではないかと思います。
於古発川は運河の一番端に注いでいる川で、ここに浅草橋があります。
最近ここに西洋美術館が出来て、新たな観光名所になりそうですね。
於古発は「オコバチ」と読みます。でもオコハツでも間違いではありません。これはアイヌ語由来なので、昔はウクハチとかヲコハツなどと呼ぶ人もいました。
この於古発川の由来と小樽の歴史の関係を見てみましょう。
小樽のルーツ
ヲタルナイ場所
狭い意味での小樽、すなわちヲタルナイは現在の南小樽、メルヘン交差点の一帯になります。オルゴール堂や北一硝子、そしてルタオのあるあたりですね。ここにかつて「ヲタルナイ運上屋」が置かれ、アイヌの人々と交易をしていました。
さらに遡ると、元々ヲタルナイというのは札幌の方の新川河口あたりにあったのですが、そこのアイヌの人々をこの地に移住させたことから地名も引っ越してきています。
そのため古の小樽(ヲタルナイ場所)の範囲は於古発川から(東の)小樽内川まででした。
明治初期、この南小樽地区を中心に小樽は発展していき、やがて隣の高島郡色内村や手宮村ともくっついて、一大港湾地として北海道経済の中心を担っていきます。
境界線の於古発川
この小樽郡と高島郡の境界となっていたのが「於古発(オコバチ)川」です。
江戸時代はこの川より北がタカシマ場所、南がヲタルナイ場所と呼ばれており、それぞれ西川家と岡田家という別々の商人が支配していました。
於古発川の下流に高島橋という石の欄干の橋がかかっています。かつてこの川が高島との境界だった名残とも言えます。
小樽中心部は、実は二つに分かれていたというのは興味深いところです。
妙見川
余談ですが、於古発川は妙見川と呼ばれることもあります。これは妙見堂が河口近くにあったことからついた愛称で、今でも地元の人はこちらで呼ぶこともあります。少し前まで妙見市場が川を跨ぐように建っていて、なかなか珍しかったのですが、老朽化のため全て解体されてしまいました。
妙見堂の祠と、妙見橋だけが妙見川の名前を残しており、現在の川名表示は全て於古発川になっています。
堺町
中央通りから運河を歩いてきてこの於古発川を渡り、運河を離れてさらに南に歩いていくと堺町商店街が見えてきます。小樽運河に並ぶ小樽観光の二大中心地として観光客で賑わう場所になっています。堺町商店街の終点にあるのがメルヘン交差点、かつてのヲタルナイ運上屋のあった場所です。
「堺」町という名前通り、かつて高島と小樽の堺に位置する場所になります。(ただし厳密には境界の堺ではなく、地主の堺さんに由来しています)
堺町と呼ばれる前はヲコハチと呼ばれていた地区です。
この堺町商店街の裏手に崖がせり出していますが、急な坂道をのぼっていくと頂上に水天宮が建っています。これを「水天宮の丘」と呼び、かつてはこの丘の下の狭い海岸線を、波をかぶりながら渡りました。
高島と小樽の境界は、地形的に見ると事実上はこの水天宮の丘であったようです。ただわかりやすい境界として、その脇にある於古発川にしたのでしょう。
オコバチの地名解
ここからいよいよ本題に入っていきます。ここまでの話は、これから考える於古発川の地名の意味を理解するのに重要なポイントになってきます。
ヲコバチはアイヌ語由来の地名ですが、これにはどんな意味があるのでしょうか。まずは既存の地名解を見ていきましょう。
永田解
国道5号線の於古発川の近くにある照明灯に、花園北門商店街が設置した説明板があります。
なるほど、「オロアツ」が訛ったというのですね。
これは明治のアイヌ語学者・永田方正による『蝦夷語地名解』(通称・永田地名解)に出典を持つ解釈だと思います。
永田地名解は素晴らしい書ですが、一方で多くの誤りを含んでいることでも知られています。
古い記録では「ウクバチ」に近い音で記録しているものも多く、ウクバチとオロアツではかなり音が離れている感じがしますね。
山田解
アイヌ語地名学者の山田秀三氏は次のように書いています。
川の様子に注目しているようですね。山田先生自身も「乱暴な案」「一試案に過ぎない」と言っているように、あまりしっくりと来る解ではなさそうです。
なお『小樽総合博物館紀要第9号』でも、概ねこの山田説を支持しているようです。
榊原解
小樽の人でもあり、『アイヌ語地名データベース』の著者である榊原正文氏はこのように書いています。
あまり自信がなさそうな表現ではありますが、山田説を少しアレンジして、川を意味するペツ(pet)を当てているようです。
浜田解
「アイヌタイムズ」編集責任者の浜田隆史氏は、文法的な知識を元に様々な解釈を検討されたようですが、最終的な解としてこのように書いています。
他にも様々な解を挙げておられますので、とても興味深いところです。
オコバチは川なのか
永田解を除けば、概ね川が河口近くで合流していることに注目しているのがわかります。
この川の特徴については全道各地に類例があるので少し見てみましょう。
興部川
オコバチ川とよく似た名前のオコッペ川を観察するのはいい方法だと思います。ちょっと遠くて現地までは行けないので、GoogleMapで見てみましょう。
大きな興部川と小さな興部川が、まさに河口近くで合流している様子がよくわかります!河口からの距離はわずか150mほど。
すぐ隣に藻興部川(モ・オコッペ=小さなオコッペ)がありますが、そちらも同じように河口近くで合流していました。
オコツナイ川
これは雄武町のオコツナイ川です。おや、こちらは河口が分かれていますね。二つの河口の距離は80mほど。かなり近い感じはします。昔はくっついていた可能性もあるでしょうか。
・オコツナイ川、第二オコツナイ川(島牧村)
・オコチナイ川(平取町・沙流川支流)
・オコッペ沢川、チプネオコッペ川(浦幌町)
色々と類例がありますが、いずれも河口近くで二つの川が接近しているか、合流しているかしています。
川尻で合流している?
では小樽の於古発川を見てみましょう。
他の川でも合流していなかったケースがあるので、念のため、まわりの川も書いてみました。どうでしょう。河口近くで合流もしくは接近していると言えそうでしょうか。
…ちょっと微妙な感じがしますね。先程の二例と比べて相当ズームアウトしています。
いくつかの地名考で河口近くで合流する川としてよく挙げられているのは商大の地獄坂の方から流れてくる商大川という支流ですが、暗渠になっていて合流地点がよくわからなかったので探してみました。
ここで合流していますね。ちょうど小樽図書館の坂のすぐ下の部分になります。
少し前までここに妙見市場という建物が川の上に建っていたのですが、すっかり取り壊されてしまいました。少し残念ですがお陰で川を見ることができるようになりました。
河口から1kmほど遡ったところで支流と合流していて、「オウコッ(o-u-kot)/川尻がくっついている」という地形の特徴が、果たして於古発川に当てはまると言えそうでしょうか。
幌内鉄道建設の設計図を見ると、鉄道線路が川を渡るところが小さな沢地になっており、山田町のあたりに沼地があったようです。「川尻が~」となるとこちらにあたるのかもしれません。
母音が二つある
これがオコチ川とかオコツ川ならそう解釈するしかないですが、問題は「オコバチ川」ということです。
ヲコハチ(松浦図、再航蝦夷日誌、罕有日記、村垣公務日誌、蝦夷行程記)
ウコバチ(廻浦日記、按西扈従、辰手控、東海参譚、西地海陸里程)
ウコハチ(津軽図、西蝦夷地行程)
ウクバチ(海岸里数書)
ウクハチシ(今井図、オタルナイ絵図)
ヲコバツ岬(観国記)
ヲコバチ(田草川西蝦夷地日記)
ヲコバチベツ(阿部蝦夷行程記)
ヲタハツ(西蝦夷地御場所絵図面)
オコハナ(未曾有後記)
江戸時代中期~幕末の20ほどの文献を調査してみましたが、こうやって並べてみると「バ」に関しては清濁以外は一切ブレていないのがよくわかります。
例えば『榊原解』の「o-ukot-pet」だった場合、「オコベツ」となりバにはなりません。さらに『阿部蝦夷地行程記』で「ヲコバチベツ」という例もあるので、これではベツが重なってしまいます。
他の地名解でもpashとかpa-ciとかpawciとかpatchなど様々な語を入れてみているようですが、他に類例がないので微妙なところです。
むしろそこまでして川尻がくっついた様子にこだわるより、もっといい考えがあります。
一度、川から離れましょう。
オコバチは岩である
山田解、榊原解、浜田解、そして博物館調査も、いずれも川に注目しているのがわかります。たしかにオコバチの名がついているのは現在オコバチ川とその水源のオコバチ山だけなので、そう考えるのも当然かも知れません。
しかし「なぜ於古発川が境界だったのか?」という点に注目する必要があります。於古発川は川としてはよくある小川に過ぎず、単に境界とするなら勝納川などのほうがよっぽどわかりやすかったはずです。
当時の人々は海岸沿いの狭い地域で暮らしていました。
地理的に見ると、事実上の境界は堺町の裏手の崖、水天宮の丘であったはずです。ここを越えるには海岸の危険な波打ち際を渡るか、苦労して丘を越えて行かなければなりませんでした。
この錦絵の左の方にあるのがオタルナイの運上屋で、右の方の海に迫り出した崖が水天宮の丘です。その崖の下を人々が歩いている様子が描かれているのが見えるでしょうか。
オコバチの立岩
そして上の図にある通り、水天宮の丘の下には、現在はない「立岩」がありました。
こちらの錦絵もほぼ同じ場所ですが、集落の様子がより詳細に描かれています。左側の栄えている場所は今の南小樽駅のあたりで、右側のほうにはゴツゴツとした立岩がそびえ立っているのがよく描かれたいます。
立岩は、於古発川の河口近くにあり、大正時代まで小樽港のシンボルとして海中から顔を出していた大岩ですが、鉄道の浜小樽駅ができた頃に崩され、今はその姿を見ることができません。
この写真は現在の堺町商店街の通りを写したものですが、屋根の向こうにひょっこり立岩が見えていますね。
立岩と郡境
この立岩がヲタルナイとタカシマの境界の目印となっていたに違いありません。
その証拠として安政四年の『観国録』には次のようにあります。
この岩が高島と小樽の境界だと言っています。
それだけでなく、「オコハツ岩」と述べていますね。ということはもともとは川ではなく、岩の名前がオコバチだったのではないでしょうか?
アイヌ語で立岩のことを「チシ」と言います。
ということはオコバチのチはチシのチで、「オコバチシ」が言い馴されてオコバチになったのではないでしょうか。
そんな仮説をたてて色々探してみたところ、見つけました。
オタルナイの地図に「ウクハチシ」の文字が。そして丁寧にもその傍には立岩が描かれています。
この地図は今井八九郎が文政から天保年間にかけて測量した地図を基にしたと思われ、松浦武四郎などが旅した安政年間よりも古い地図になります。
オコバチの地名解
というわけで、オコバチの原名はウクハチシなのではないでしょうか。これを元に地名の由来を考えてみます。
これを地名解として挙げてみたいと思います。
しかし互いにくっつくとはどういうことでしょうか?
これは当時の立岩の絵を見るとわかります。立岩は一つではなく、少なくとも大きいものが二つあったようです。
当時は二つの立岩をエビスと大黒と呼んでいたようですね。
写真を見るとこの2つの岩は水面近くでくっついており、「互いにくっつく・立岩」という地名解にぴったりと当てはまります。
ちなみにこのo-u-kotという語は、知里真志保氏によると字義的には「陰部が・お互いに・くっつく」すなわち「交尾する」という意味合いがあるそうです。恵比寿と大黒が…いや、あまり考えたくないですね。
結論
オコバチとは元々は立岩のことを表しており、タカシマとオタルナイの境界の目印であった。地理的な境は水天宮の丘であったが、はっきり境界線を引く時に、わかりやすい線として丘の近くの川とした。この川を近くのオコバチ岩から取り、オコバチ川と名付けた。
こんなところではないでしょうか。
於古発川の上流から
於古発川をずっと遡っていくと、小樽天狗山のロープウェイと登山口があり、その上の展望台から小樽の街並みを一望することができます。
この上から於古発川の流路を探し、どこまでがヲタルナイ場所でどこからがタカシマ場所だったか、考えてみるのも面白いものです。
今はない立岩の姿を思い浮かべながら、古の小樽の姿に思いを馳せてみましょう。