ここここ一いい

成年間鼎談

「大層なことじゃあないんだけれどさ、ここ最近、こう何かが引っかかっているような、そんな気がかりと言うか、疑問? があるんだよ」
 閑寂の店内にAが嗄声を流すのを聞いた。僕は右隣——壁にもたれかかるAを、最小限の頸部の動きと最大限の眼球の動きで流し見る。僕の嬋媛流麗な切れ短かですっきり一重の双眸を殊更に細めて、彼奴を周辺視野の中に固定した。Aは日焼けて薄黄色になった品書きをむっつりと眺め、その表と裏を行ったり来たりしながら、時折剥がれかけたラミネート加工の四隅を食指の爪でかりかり弄くっている。
 僕はその姿を睨めつけながら「お前がどれだけの時間熱心にそいつを眺めることに妄執したところで、そこに載せられた羅列が俄かに蠢動し始め、四散五裂しアナグラムとなって再び整列し直す可能性はないし、何だっていいからとっととその退屈に違いない話の続きを言いやがれよ」と胸中に浮かばせていた。
 次に僕は眼前に据えられた茶焦げのテーブル、その斜向かいへと視線を滑らせる。
 そこでは背筋をしゃんとさせたBがソファに座っていた。彼もどうやら僕と同じように思っている、或いは露程の興味も持たないといった顔つきでAを真っ向から捉え視線を逸らさずにいる。ははあ、あの面持ちから察するにBの心中はきっと後者だろう。それに彼がじいっと見つめているのは品書きを弄くるばかりのルーティン野郎ではなく、その後方の壁にへばりついた何十年選手かも知らない清涼飲料水の広告ポスターに違いない。
 真っ青な背景の中、ウェイヴィーな前髪の淑女がシトロン瓶を片手に持ち、物憂げな表情で嫣然を只管に振り撒いている。ミス・昭和フェロモンには申し訳ないが一寸ばかし僕の趣味趣向とは合致しなかった。折角の微笑みを無下にする罪深き男をどうか赦し賜へ。打って変わってBの琴線には触れるものがあったらしく、微動だにせずに未だ彼女に見惚れている。いや、もしかすれば更にその向こうを透かしているのかも知らない。否、否。もしかもせずともこいつは何も見ておらず、ただ真面目風な顔をしているだけなのだろう。
 僕らは温かいブレンド珈琲を待っている。

 このAという訥弁人には、瑣末で粗末なことをさも重大であるかの間合いで言葉を吐く癖があった。
 僕はそれを聞かされる度に「そのいけ好かない俳優じみた間の取り方をする話術が心底に苛々する」といった旨の提言を繰り返したが、Aはこれを贈呈される度ににべなく能書きを垂れた。
「お前みたいなマイノリティ・久助・ペデストリアンが何を宣ったところで信憑性に欠けるのだから、しっかりとしたマジョリティの意見を持ってこいよ。取り分けオリコン・チャートを追従しているような輩らが適当だな。万一、そいつらがお前と同じことを述べようものならば、平伏叩頭でこれまでの行いを詫びた後、民主主義に則ってその主張を採択してやらんでもない」
 あまりに傲然と片口角を引き上げ踏ん反り返りながら、僕の有り難い提言をぺいと地べたへ投擲し、有り難くも何ともない大鋸屑へと腐らすものだから、僕の反駁の気概は疾うに陰萎となってしまった。そして以降、叛骨の鎌首が擡げ上がることはなかった。何という不躾漢だらうか! 何という傲然の権化だらうか! 何という因業姑息野郎だらうか!
 満腔の苛立ちを胃の腑で炉心融解させながら内心で「馬鹿! 阿呆! 郭公! うんこ!」とこのアントニム・マンを罵ったことは数あれど、結局糠に腕押し暖簾に釘とはこのことだとも思えて、徒労の未来が易々と予知できたために口を噤むことにした。僕がAの更生プログラムを画策している間も、BはAを透視してその向こうにある何かをじっと見ている風の顔をしていた。
「いやいや、お前こそ件の少数派閥に所属しているのだろう。お前が最高学府入学直後に多数派閥への阿諛迎合を試みるも、日焼けした背中よりも早く剥がれた化けの皮の所為で、見るも無惨なうらぶれ日陰青年になり腐った恥辱と汚辱と屈辱を忘れたのか? あれはそうだな、ピューリッツァーものだったな。多数派閥の根明らが僕らのような根暗に助言する道理がどこにある。お前は路傍の石コロへと話題を振るのか? 僕はしないね。与党と野党が建設的な論議をしているのを見たことがあるか? 僕はないね。どうせ僕もお前も重箱の隅から蓋まで突くような揚げ足取りに躍起になる八分者なんだよ。わかったら黙って数少ない友人の言詞を丸呑みしやがれ」
 そうAに吐いてやりたい気持ちは四方山積みにあったのだけれど、アニミズム大国日ノ本に生まれ育ってしまった以上言霊について一度巡らせれば、これは彼奴だけでなく僕自身にも、酷く鋭利な一矢となって深く突き刺さる恐れに気づいたために口外しないよう努めている。あまりの痛さで立ち直る自信がない。
 ナルシシズムとは一寸ばかり異なっているが、僕は何よりも僕が可愛い。わざわざAの耳元で念仏を唱え、自身を傷物にしてやる事由はどこにもないのだ。恥ずかしながら僕は婿入り前で、その予定も今のところない。彼奴の耳には水を垂らして中耳炎起こさせるくらいが丁度いいだろう。

 暫しの待てを僕らに喰らわせたAが満を持し、再び口を開いた。しかし未だ品書きとの睨めっこを止める気配はない。
「……なあ、アラン・ドロンのイントネーションは『いやんばかん』と一緒か?」
 Aは思い詰めた表情を崩さずに漏らした。
「やっぱり大層なことじゃなかったね」とB。
「それどころか意味もない」
 僕は深く深く陸で溺れるくらいに溜息をつく。
 ストリート・ファイトに明け暮れる、天辺を水平に切り揃えたイカれた頭髪の米国軍人が、三日月型ソニックブームを放つための待機時間より何百倍も長い時間、会話の進捗をAが保留した所為で僕の関心は疾うの昔に薄れ霧散してしまっていた。元より彼奴に対する関心の持ち合わせなどどこにもないのだけれど。
 僕は天鵞絨のソファに爪を立てて、そこへ線を引いたり円を描いたりの手遊びをしながらAの問いに応えた。
「それは違う。僕の記憶が正しければ『グリーン・グリーン』と同じ筈だ」
「戯けか。そんな訳があるか」とAが呆れた声音で言う。「お前はパパの語り部に耳を傾けたことがないと見える」
「戯けはお前だ。くだらないことを言い始めやがって。無聊を穿つと期待した僕も戯けといえばそうだけれども……。それに、僕の親父は偉大だし、偉大な親父の口から出た言葉も偉大だ。今までひとつとして聞き漏らしたことはないね」
「あのトニー・ジャーみたいな親父さんだろ。リビング・デッドみたいな血色で凹凸のない身体のお前はその親父さんから何を学んだんだよ」
「誰がバタリアンだ。色々学んださ。鋭い正拳突きの打ち方やら人間の急所やらだよ。実践はまだないけれど。あとはサーフィンを教えてくれたりなんかもした」
「時代や雰囲気の波には乗れない癖にな」
「肝要なのは、乗りたい波が起こるまで待ち続ける忍耐力があるかどうかだ。滅多矢鱈に乗ればいいってもんじゃあない。徒波に乗ってなど堪るか」
 Aは検閲するように目を細めて僕を見ると、ずうっと弄くっていた品書きをテーブルに放った。彼奴は双眸を細めているのにも関わらず、日次の僕のそれと変わらぬ(若しくは少し大きい)縦幅に些かの腹立たしさを感じる。どうして斯様な憎まれっ子世に憚るを地でいく奴にくりくりの御目々がくっ付いているのか、甚だ疑問が尽きない。
 創造神には公明正大な労働をさせよ。僕の博愛主義的人間性を考慮して、もう少し素敵な相貌を与えたっていいじゃないか。ヤハウェが神罰下す理由はないだろう。グノーシス主義者には怒られるやも知らないが。
「で、直近でそれに乗ったのはいつだよ?」
 僕は毅然と応える。「肝要なのは忍耐力があるかどうかだ」
「……生涯起きねぇよ、お前に都合のいい波はよ」
「それはAも変わらねぇだろうが」
 やはり露程の興味もなかったらしく、ただ趨勢を見守っていたBが口を挟む。
「多分だけど『Francfranc』と一緒だよ」
 僕の剛毅朴訥な質ととっ散らかって草臥れた生活からは程遠く、これっぽちの接点も持たざる御洒落雑貨店の名称を聞いてもいまいちピンとこない。そういった類の場所では、僕の奥底に眠ったゴーシュが擽られるようで、鞠躬如となりそうでどうにも足が向かなかった。そもそも僕のような益荒男がその場に馴染まないことなど自明の理である。そちらへ赴く男など漢ではない。ニュー・クォーターである。生き方は人それぞれだ。郎女引き連れた軟派郎子になり腐っては武闘派の父に顔向けできない。
 しかし聞き馴染みのない言詞を放っておける程に僕の知的探究心は死んでいない。後学のためにもと思い、僕はBに尋ねた。
「いや、まずはそいつのイントネーションの正解を僕に教えてくれないか。というか、Bはそういうところにも行くのか。やっぱり女性と——」
「——どうでもいいよ、もう」と僕の知的探究心をAが遮る。「なあ、婆さん。珈琲はまだなのかよ?」
 中華鍋より早く話題に冷めたAは、ソファの後ろに手を回して振り返ると温かなる珈琲の催促をした。
 なんと余裕のない男だろうか。目にあまる自己陶酔型奔放トークをまたしても繰り返している! 僕は、アーミー・ナイフを木板に突き刺し、抜き取った傷跡が如く眼光を炯々と鋭く尖らせてAを見た。
「どうした、眠そうだな」とAはふんと鼻を鳴らせる。
 僕は「キッ!」と強く息を吐いて鉄面皮に一瞥をくれた。
「尻青はジャリジャリと喧しいね! だからガキは厭なのさ」
 僕の後方から老媼の低くがさがさの悪態がよれた紙飛行機となって飛来する。そちらへ首を回せど出元の影はなく、あるのは雑然のカウンターのみだった。
 埃の被ったサイフォンや底を突きかけた調味料各種、凶器として流用するには御誂え向きの分厚い硝子灰皿、読みかけの地方情報誌に各種新聞紙(デイリー・ビューグルでもあれば読むのだけれど)、スタンドに並ぶ少年漫画雑誌と猥雑な写真週刊誌の群れ、枯れかけて斑入りになった背の低い観葉植物、薄汚れのぬいぐるみ数体に謎のオブジェでごった返すカウンターの向こうから、妖怪——もとい婆さんがぬぬうと顕現した。
 もしこれと暗がりの帰り道で出会っていれば、性差を飛び超え「きゃあ!」とメロウ・イエローな嬌声を上げて卒倒するやも知らない。ややもすれば失禁する。初めてここへ来た時を憶えている。その時もこうしてぬぬうと現れた婆さん——もとい妖怪にひぃと口吻から悲鳴が溢れ出たものだ。ピーク・ア・ブー喰らった赤子より驚愕した。
 版画の顔をした皺くちゃに、西部警察の度付き色眼鏡を貼り付けた婆さんは続ける。
「見てわからないのかい、忙しい中で丹精込めてドリップしてるんだ。じっくりと愛情を込めてね。少しぐらい辛抱できないのかい。これだから、青洟垂れは白菜臭くて堪らないね」
「それにしても遅すぎるって話なんだよ」とA。
 僕は「ああ、また始まった」と嘆息を漏らしながらハイライト・メンソールを咥え、火を点けた。すっと上気道から肺まで流れる清涼感と、アルカロイドによる充足感が末端まで行き渡る。身体中に瀰漫する倦怠感で僕の身体はずぶずぶとソファに沈んでいくようだ。このまま溶けてしまうのも悪くない。仮に僕の娯楽が煙草に代わり、アダリンであったのなら僕は文筆家になっていたやも知らない。所詮、僕は濃縮還元寡男汁を湧き出させる分泌家でしかないのだけれど。
「——この婆さんのやり方に不満があるんならあんたが淹れな」「それができないからここに来てやってるんだろうが」「偉そうな物言いだね。なら、犬みたいに待つことだね」「あんたが犬の何を知ってるんだよ」「息子夫婦と一緒に飼ってるさ」「驚きだ。長谷川町子より意地悪な婆さんに博愛の精神があったとはね。それともそうだから、こんな風に飼い犬にも無理強いさせてるのか?」「する訳ないだろ。我が家のジュディちゃんにそんな可哀想なことができるかい」「なら、俺たちが待つ謂れもない」「ふん! どこぞの知らん家の飼い犬に易々と餌をやって堪るもんか。懐かれたら困るのはこっちだよ。変な病気を持ってるかもわからない。保健所にでも連絡するかい?」「待てよ、紛いなりにも俺たちは客だぞ」「何だ、客が偉いってのかい?」「そうは言ってねぇよ」「それなら待ちな」「支払い分はちゃんとやってくれって話だよ!」「こっちが品を出してから金を払うんだから、まだ支払われてない分は働けないね。私のやり方でやらせな——」
 僕はAと婆さんの会話を聞きながら灰皿に捨てられた燃えさしを数える。今咥えているものを含めて、既に五本目となっていた。
 斜向かいのBはいつの間にやら伊達眼鏡をかけて、いつの間にやら文庫本を手に取っている。そして今だしゃんとした背筋で大人しく座っている。僕もBに倣い、浅く腰掛け背もたれに預けていた身体を持ち上がらせ、同様にしゃんとした背筋で座り直した。しかし五秒と保たずに僕の地域最大級の猫背が「にゃあ!」と威勢よく鳴き出すものだから、僕はそのまま前のめりになって頬とテーブルの逢瀬を御膳立ててやった。
 灰皿から紫煙がすうっと横に上っていく。
 それにしても、喉が渇いた。
 このテーブルはぬちゃとしている。
 それにしても、この喫茶店に客がいるのを見たことがない。

 国内屈指の規模を誇る大型商業施設を誘致し、世界有数の大企業の本拠地である隣市のベッドタウンとして約四十万人の住民を抱擁しながらも、前述の該当地区以外はうだつの上がらない地価を只管に繰るばかりのO市。そこの中心にある中繁華で中盛況を魅せるO駅から北に向かい、夏場の祭り時だけは地域住民のみならず(隣市並びに隣々々々市からもやって来る)観光客らでごった返す一級河川を飛び越え、図太い国道一号線を渡り、市道をふたつみっつとやり過ごしてから尚十分間程歩きやっとのことで到着するK町は、二、三十年前までの絶頂期を境に商店街としての機能を徐々に失って閑古鳥が喧しく喚く程度にまで衰退している。趨勢は日の目を見るより明らかで、真綿で扼されているようにゆったりと、しかし確実に終焉へ転がり落ちている。真にざまぁないぜと言える凋落ぶりである。
 そこでは今や娯楽(のように思える)で営みを続ける細々の店舗ばかりが軒を連ねており、旧式の家電を未だに並べる電化製品店や、怪しげな西洋調度品を取り扱う家具屋、外国人労働者向け日本語教室、若人の味蕾では何も感じられない程に繊細な風味絶佳を提供する和菓子屋などがある。当時最先端だったであろうショッピング・センターはトレンドの発信ではなく日常を補填するためのものになり下がった。残るは「ハイパー・なんたら・クリエイター」気取りが町興しと銘打って続けるカフェやダイニングくらいだ。彼らの店はどうもいけ好かない。店構えから内装から、滝廉太郎風の眼鏡をかけてエイブラハム・リンカーンばりの顎髭を蓄えたデニム生地のエプロン羽織る店員までが気にくわない。そして絶妙に美味いハンバーガーも気にくわない。
 この町の住人は取るに足らない木端人間の精鋭ばかりが揃っている。その内の七割を老人が占め、そのどれもが押し並べて歯の勘定を間違えてしまったか、幼稚園児の前倣えのような歯列をしている。若しくはその両方を掛け合わせたバリュー・セットだ。そして彼らの日々のやり過ごし方といえば、かさついた口唇でぬぱぬぱと気色の悪い音を立てながら煙草を呑んでいるか、「兄ちゃん一本恵んでくれや」とシロクマの皮下脂肪の厚かましさで貰い煙草を所望し、そいつをまたしてもぬぱぬぱと呑んでいるかしかない。町内を縦横無尽に走る歩道は行政の監視の目が行き届かないらしく、清掃作業が放棄された所為で腐敗しかけてでろでろに内臓を撒き散らす煙草の燃えさしや、酒呑童子を殺めんとする清酒の紙パックが娑婆中に転がったままだ。ボランティア活動家も尻尾を巻いて逃げ出す治安である。
 悲しいかな。僕もそれらと同程度の木端存在、乃至はそれに足らぬ者に過ぎない。なんとも忸怩極まりない話ではないか。そしてこの地位から抜け出す術もない。

 僕らはうらぶれ町のうらぶれ喫茶店にいる。外装は長年の風雨に晒されたお陰で波打った砂埃模様が浮き出ていて、看板だって何が描かれていたのかは疾うの昔にわからなくなっている。掠れに掠れて亡霊となった「純喫茶」の字面以外にヒントはなさそうだ。僕らがここへ通うようになって何年経っただろうか。僕は未だにこの店の名前を知らない。内装の中でこの店名らしき字面を見た憶えもあるが、「婆さんのとこ」と明瞭な渾名がある所為で暗記する気も起きなかった。
 店内の様相も店外と同じようなものだった。内壁は煙草の煙を浴び続けた所為で焦げ茶を超えて漆黒になろうとしている。一度指の腹を滑らせてみたがぬちゃとした嫌な感触があった。それ以来二度と触れていない。天井には薄汚れたチューリップの五本組みが重力のままに何束も生えていて、電球型蛍光灯が暖色を落としているというのに、それらがぐうたらな働きをする所為で時間を問わず誰そ彼時の光量の中での寛ぎを強制されている。その花弁の中身をよくよく見れば、五分の三は伽藍堂でぽっかり腹を晒していた。
 どうして、斯様な俗世の弥終が如き最終末処理喫茶場に漂着してしまったのだろう。またまたどうして、居心地がよくて困る。

 僕はフィルター擦れ擦れまでの身体を失った煙草に灰皿の上でツイストを踊らせる。未だにAと婆さんは終わりの見えない論議を続けていた。
「——目上への敬意の払い方を学校で教わらなかったのかい?」「教わったに決まってるだろう」「だったら払いな」「払う対象を選ぶ権利はある筈だろ」「日捲りの中に敬老の日がある以上、日本国は私たち婆さん爺さんの味方だよ」「その分三百六十四日の間、因業婆への敬意の支払いを滞らせてやるよ」「先祖の顔を蹴り飛ばしたいくらいに感謝を知らないガキだね」「始祖まで遡れば同じ顔が拝めるだろうよ。いやそうじゃない、もういいからこの無駄話の内にも手を動かしてくれよ」「老い先短い婆さんをあんまり急がせるんじゃないよ」「老い先短いなら少しは急いでおけよ」「老い先長いあんたが待つのが道理ってもんだろう」「あんたは本当に口が減らないな……。八尾比丘尼より長生きするだろうよ」「あんたの墓前で嗤笑してやろうかね」「随分と長い老い先じゃねえか」「喧しいね。たった珈琲一杯で粘られるこっちの身にもなりな。もっと単価のいいもん注文したらどうだい? 貧乏人の相手は疲れちまうね——」
 Aは婆さんとの水鉄砲合戦にも飽きたようで、へいへいと気のない返事をしながらしっしと手を振った。老媼はちぃと舌を打ちながらカウンター奥へと姿を晦ませた。
 僕は婆さんの「ああ豆が切れてるね。インスタントでいいか」という言葉を聞きながら次の煙草を取り出した。
 微塵の気力も残っていないという様子でAは机に突っ伏す。一方のBは数刻前からずっと変わらずしゃんとした姿勢のまま文庫本を眺めていた。こいつは背筋に長尺物差しを当てているのか、はたまた前屈ができない身体なのやも知らない。
「なあ、今日は何を見てるんだ?」とAが顔を上げてBに問う。
 Bは手中の文庫本に目を落としていたのを止め、眼鏡の弦を押し上げながら視線をAに向けた。
「今日はね、開高健の『夏の闇』かな」
「面白いか?」
「どうだろう……わからないや」とBは微笑む。
「そりゃそうか。読んでないもんな」
 Aは再び突っ伏した。

 Bは一冊の文庫本を常に持ち歩く衒学者である。古書店へ立ち寄る度に一冊、二冊、三冊と買うらしかった。ただ無作為に選ぶのではなく、そこには幾つかの選考基準があるとBは言った。彼曰く「天地小口が日焼けていればいいかな。値札の数字が小さければ尚のことに喜ばしいよね。幾人もの誰かしらの指の脂が染み込んでいて、埃っぽくて噎せ返りそうになる酸いような、きな臭いような、古本特有のあの匂い……あるといいよね。もしそれがモダニズム文学や無頼派の作品だったら殊更に嬉しいよ」とのことだった。
 しかしBに読書の趣味はない。彼はいつだって眺書に忙しくしている。活字は眼精疲労を起こしていいことがないとも宣った。
「僕は人間の進化に期待している。ダーウィンのそれとは少し違う。生物個体の成長が近しいね。それでも飛躍的な進化、突然のミュータント化を夢に見てるんだ。君なら映画で観たことがあるでしょ? それこそパルプ・マガジンのヒーローみたいな。亀や鼠がたったの一代で語学と武術を身につけるんだ。だからプラセボを投与しているんだよ。ホメオパシーを信じる人もいるんだ。彼らを否定できるかい? 霊長と名付けた痴がましさを利用しないとね。凡ゆる種の頂点だよ? それを自称するなんて正気じゃないし、烏滸の沙汰だよね。でも、だからこそ隠された能力があったって可笑しくないじゃない。僕が思うにはね、事実に焦点を合わせる必要はないんだ。僕は部屋に帰る度、そこに積み上げられた文庫本の城を見る。重要なのは虚構を真実にすることなんだ。ああ、僕はこんなにも知識を蓄えたんだって大脳新皮質に刷り込む。そうすると何だか伶俐になったような、トートにも比肩しているような気がするんだ。もしかしたら、本当にそうかも知れないでしょ。これを否定できるかい? それにさ、古めかしい文庫本を手に持っている書生風って格好いいよね。勿論、これが一等大きな理由だけどね。君だってそこは同じだろう? 今度一緒に本を探しに行こう。うんうん、それがいい。序でに君の好きな文豪に倣って檸檬の果実ひとつ置いていこうか」
 彼は光源のようなオブシディアンの眼球で僕を真っ直ぐに見つめながらそう語った。彼は同様の理屈で伊達眼鏡をかけている。

「たまにはちゃんと読んでみてもバチは当たらないんじゃないか」と僕はBに問うてみた。
「そうかも知れないね。だけど本は読んで然るべきものだって柵はどこにもないんだよ。洋画を観る時に字幕にするか、吹き替えにするかなんて些事でしょ。芸術の鑑賞術は自由な方がいいじゃない? 僕らが一銭の価値も見出せない精緻でも豪快でもない絵画に云億円が動くんだよ。彼らはそこに何かを読んだんだよ。活字はないのにさ。じゃあ、僕は活字を眺めるしかないよね。同じことじゃない?」
「流石にどこも同じじゃないだろ」
「何言ってるかさっぱりだ」とA。
「とりあえずさ、一回だけでも読んでみろよ」
「わかった。また今度ね」
 Bは莞爾と笑って再び文庫本へ目を落とすと眺書に耽り出した。こいつもまた馬耳東風の依り代なのだ。
 陶磁器同士が接触する破擦音が聴こえた。僕はシュガー・ポットの中身を一心不乱にかき混ぜるAの傍から、窓の外へと目を向けた。午後三時を目前にした冬の日差しはただ柔らかく揺れている。聳え立つ鉄筋コンクリートのマンションや、バラックのようなトタン張りの家々、日常補填に限られたショッピング・センターに区切られた空は乳白色と浅葱色の階調がどこまでも突き抜けていた。こんなにも天気がいいのに一体全体僕は何をしているんだろう。一瞬、あまりよくない方向へと思考を巡らしそうになったがすんでのところで制御する。木端人間のすることなんかに意味はないのだ。
 僕がふわりとした時間の流れに身を任せ、僕の御霊が身体からするり抜け出さんとした頃にAが口を開いた。
「こうやってさ、だらだら話しているとタランティーノ映画の冒頭みたいじゃないか。あれだティム・ロスが出演してるやつだ」
 僕は半抜けのエクトプラズムを吸い込むと懐かしいタイトルを口にする。
「『レザボア・ドッグス』だろ。それにティム・ロスは特徴にはならない」
「それかもな」
「マドンナの『ライク・ア・ヴァージン』についての持論語るアレな」
「ああ、それだ」
「全く冒頭みたくないだろ。だだ広のテーブルの上には食べ物どころか、未だに飲み物すらない。お前の物言いが悪辣なところくらいだな。ほら、もう少し顎をしゃくってみたらどうだ」
 Aは顎をしゃくらせる。「俺はマイケル・マドセンになりたいね」
「そういえば」とBが話題を持ち出す。「Aがこの前に話していた、あのなんたらとかいう女性とはどうなったの? デートをするって夢も鼻の穴も広げてたじゃない」
「——あ? 何も話すことはねぇよ」
 Aは疎ましそうに応えた。またしてもしっしと手を振っている。
 僕もその空振り恋愛譚の品評議会に参加表明をする。
「そういえばそうだ。聞かせろよ」
「うるせぇな、本当に。今まで何も話さなかったんだから機微を感じとれよ。何のために無駄にでかい脳みそを首で支えてるんだよ。それともその頭蓋骨は空っぽか? ホイッスルの中の球体みたいに揺れてんだろ」
 Aがロボトミーして確認してやるよ、と言いながら僕の額に人差し指を差してぐりぐりと捻った。
 僕は彼奴の指を素早くはたき落とす。
「御託並べはもう十二分だから話せって。僕たちはサトリじゃあないんだからさ」
「別に」とAはそっぽを向く。「一寸出かけて飯食ってさよならしただけさ」
「嘘つけ」
 Bは手中の文庫本を山型にして机に置き「嘘つけ」と僕の後に続いた。
 力強い後ろ盾を引き連れた僕はAの尋問を推進する。書記官Bには彼の歴史を余さず書き残し、平曲をがなる吟遊詩人に倣って喧伝してもらいたい。
「ユア・フェア・レディに愛は説いたのか?」
「説いたのか?」とBが僕の後ろに付き従う。
「……ああ、そうだよ。帰り際に絢爛なイルミネーション眺めながら説いてやったよ!」
「滔々とか?」
「滔々とだよ」
 Aは心底殺してやりたいといった顔で僕を睥睨する。僕は抱腹絶倒してやりたいところだったが、紳士たるもの虚静恬淡であらねばと丹田にぐっと力を込めて耐える。
 すると珈琲の香りが鼻腔を駆け上がった。
「はいよ、婆さん特製ブレンドだよ」と婆さんは珈琲カップをテーブル端に置く。「あとは自分でやんな」
 Bが「ありがとう」と謝辞を述べならが、それぞれの手元にカップを並べていく。
 給仕への感謝を会釈に変えて、僕は続けた。「で、結果はどうなったんだよ」
「何だい、あんた女に振られたのかい」と婆さん。
「やっとこさ品が来たかと思えば、婆さんのオマケまで付いてきやがったな」
 Aは口元をへの字に曲げ、不平を漏らし肩を竦ませた。Bは俯いて猿鳴きに似た声を漏らし肩を震わせている。
 婆さんはさも愉悦であると魔女のようにイヒイヒ笑いながらカウンターの影へ去っていく。
「ほら、続けろよ」と僕は促した。
 Aはもうどうでもいいさ、と前置いて、堰を切って話し出す。
「ああ! 見事なもんだったさ! 袈裟懸け食らったよ! 酷いくらいに鮮やかに、シミリーでも何でもなく紫電一閃食らって痛みもねぇよ。あいつに費やした分だけ財布が軽くなっちまった。その所為で諸々の喪失感はあるけれど悲壮なんかはねぇよ。くそ。返してくれよ、ああ……俺の金……」
「何を言ったって仕方がないだろ。僕らみたいな暗がり行脚成年がロハで得られるものなんか高が知れているんだから、研修費用だとでも思え」
「数万やそこらで愛が買えると思ったら大間違いだよ。億単位の資産をちらつかせれば買えるかも。というかその子に使ったお金を浪費だと感じてる時点で元々無理めなんじゃない? あと、Aと同じ括りに僕を置くのはやめてよね」
 Aはネイビー・ブルーの溜息を漏らして、ソファに身体を沈めた。
「お前らの選択肢に慰撫ってものはないのか?」
「慰めたところで女に振られた事実も軽くなった財嚢も変わらないだろ。前に進め前に。世紀末の荒野に何もねえけどな」
「くそ! こんなになるなら料亭にでも赴いてクルチザンヌから自由恋愛における序破急の御教示賜った方が云千倍もよかったね!」
「ほらまたそういうこと言うから」とBは仰々しく呆れた素振りをする。
「ああ、痛ましいな、痛ましいね。こんなに痛けりゃルソーでも逃げ出すってもんだな。だけど、一緒に過ごせただけよかったと思えよ。女なんてのは星の数程いるんだよ。星には手が届かないけどな」
「うるせー、お前だって似たようなもんだろうが」
「今は関係ないだろ。それに、僕は自身の価値を知っている。お前は自身の瑕疵を知れ。痴れ者が」
「お、韻を踏んでる」とB。
「ああ、うるせーうるせー」
「その日のお前を観賞したかったよ。さぞかしラジー賞間違いなしの滑稽さだったろうな」
 僕は頬の綻びを隠せない。
 Aは不貞腐れて珈琲を啜った。はたと動きを止め、不思議そうにもう一度啜ると「お前も飲んでみろよ」と僕にも珈琲を促した。
 僕はそいつを一口含む。
「なんだか、蓴羹鱸膾の思いが湧くようだね」
「な、だろ? いつも美味いが今日のはちょっと違うな。懐かしい風味がある……」
 Aを慰撫するなど一文の得にもならないのだから決してしないけれど、少しだけ不憫に思えた僕は珈琲が抱えている秘密くらいは、と心の内にしまい込んだ。
「なんだ、豆を変えたか? それともあの歳にして婆さん腕を上げたか?」
 独り言ちるAの滑稽さに噴飯——珈琲しそうになったがどうにか堪える。
「これ、僕の家にあるインスタントの粉と同じだね」とBが溢した。

映画観ます。