「抗体詩護符賽」映画について(1)
中学2年生、誰よりも先に部活を辞めた私は、複雑な気持ちで彼らの練習を眺めていた。やっとあのキツイ練習の日々からも解放されるのか。しかしどこか後ろめたい気持ちもあり、彼らとどう接したらいいのかわからない。運動場が見渡せる坂道をトボトボ歩きながら強烈な孤独と解放感が同時に襲ってきて、イキそうになった。思えば、それまでの人生の中で「勃起ナシ」のオーガズムを感じたのは小学校低学年の時に寝坊したあの朝だけであった。絶対に遅刻してはイケないと焦りに焦り支離滅裂となっていた私はわけもわからず鏡の前で身体をよじっていた。すると急に股間から「気の玉」のようなものが矢継ぎ早に上へ上へと登ってきて強烈な快感と共にすべてが真っ白になり、気づいた時にはものすごい達成感と精神の落ち着きを感じていたのだった。その時ほど強烈ではなかったが坂を登る私は変な意識状態に陥りひどく内省的になっていたことを覚えている。受験のためという建前でサッカー部を辞めた私には放課後という莫大な空白の時間が待ち構えていた。サッカー一筋だった私にはその空いた時間をどう消化すればいいのかわからなかったのだ。
手始めに私はギャルトランスに手を染めた。私が部活を辞めてから程なくして同じく部活を辞めたKと共にツタヤ通いが始まったのだが、彼の姉がギャルだったのだ。当時は「スーパーベストトランス」というコンピレーションが次々と発売されていた。アホの具現化のようなその音楽はノーテンキなブチアゲ空間へとわたしを運んでくれた。同時にツタヤ通いは映画の世界への扉ともなっていた。小さい時から映画は好きだったが、基本的には日曜洋画劇場などで放送されるものをビデオに録画して何回もみていた。ジャッキー・チェンの出演している諸作品や、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』『レオン』『マトリックス』『天空の城ラピュタ』などは何度も繰り返し観ていた。ツタヤ通いを始めた私とKはお互いに情報交換をしながら主にサスペンス映画やホラー映画をディグっていた。私は『ファイトクラブ』に衝撃を受け、以降いわゆる「マインドファック映画」にハマっていた。最後にすべてが覆される感覚に快感を覚えてしまい、日々そういった映画を探し求めていた。しかし何個もそういったものを観ている内にどんでん返しだけでは満足が得られなくなってきた。もっとヤバいのはないのか。とフラストレーションを抱えていた。実は、一つ気になっている作品があった。家の押入れの中の本棚、その最奥、目立たない場所に置かれていた『時計じかけのオレンジ』という映画だ。それはまるで「子供の観るものではありません!」と言わんばかりに目立たない場所に隠されていて、それが逆に私の好奇心を掻き立てた。きっととんでもなくエロい映画に違いない。そして私は夜中、家族が寝静まったのを確認してから押入れへ向かいそのDVDを手にとった。「バレた時、なんて言おうか」「別に観てはイケないと言われてるわけじゃないから大丈夫か」「とにかく早く観たい」私は少し緊張しながらそいつをパソコンまで持っていった。
のっけから衝撃を受けた。この音楽と映像はなんだ。カッコ良すぎるではないか!なんだこのマネキンは。今のところ、のっけから衝撃を受けたのは後に出会うことになるデヴィッド・リンチとデレク・ジャーマンくらいだ。とにかくコロバ・ミルク・バーの質感に衝撃を受けたが最後、私はキューブリックの作り出した暴力とクラシック、その快感の世界へとのめり込んでいった。やましい気持ちで入ったトンネルは圧倒的な美と崇高の世界へと私を導いた。
「将来はNASAで宇宙船を設計する。そのためには大学はMITかスタンフォードに入ろう。海外は無理でも京都大学に入って宇宙工学を学ぶぞ。そのためには高校は一番のところにしよう。高専でもいいかもしれない」と意気込んでいた私は結局ツタヤのせいで理系進学を諦めた。もっと面白い世界がこっちにあるぞと。いや、映画の見過ぎで中間テストの点数が激落ちしたことがその理由かもしれない。
サスペンス映画をディグる内に私はひょんなことから『ロスト・ハイウェイ』という映画を借りてしまった。それは『時計じかけのオレンジ』と同等の衝撃を私に与え、映画の見方を物語ベースから質感ベースへと完全に変えてしまった出会いであった。画面に映る部屋のデザインや照明、クローズアップされた唇、白塗りの男、レッドカーペット、古き良きアメリカ感、そしてなんといっても音。全編に漂う異様さ。それらが作り出すリンチ特有の「質感」に完全にヤラれてしまった。
高校へ入ってから私はサスペンスやホラー以外のジャンルにも手を出し始め、本格的に映画にハマっていった。母の影響でミニシアター系の映画館にも通い始めた。映画祭にも足を運んだ。フィルムアート社が出している「CineLesson シリーズ」を片手に気になった映画を借りまくった。あれは本当にいい映画をたくさん教えてくれた。当時はミクシー全盛期時代でミクシーも私の重要な情報源だった。大学受験が終わった高校3年の後半期には一週間に20枚以上も映画を借り、文字通り朝から晩まで映画を観ていた。どこかのインタビューでハーモニー・コリンが3年間で3000本程映画を観たと話していたのに触発されて、一日3本は観ると決めていた。ガス・ヴァン・サントやラリー・クラーク、ハーモニー・コリンのようなアメリカのストリートカルチャーを描いた作品や、ホドロフスキーやフェリーニにのような芸術的なもの、ペドロ・アルモドバルやピーター・グリーナウェイのようなちょっとエッチで笑えるもの、ヤン・シュヴァンクマイエルを始めタル・ベーラやドゥシャン・マカヴェイエフ、マルティンシュリークといった東欧映画の世界も探求した。
当時私の映像体験に影響を与えていたものにマリファナがあった。デヴィッド・リンチの影響でシュールレアリスムや不条理系に興味を持っていた私は図書館で安部公房『壁』や高橋源一郎『さよならギャングたち』『ジョン・レノンと火星人』、ギリシャ神話やバタイユの『眼球譚』カフカの『変身』、ジェイムスジョイス『フィネガンズ・ウェイク』なんかを借りて読んでいた。ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』は1ページ目で諦めたが、その衝撃だけは印象に残っている。そうした中、ケルアックの『路上』に出会いビートニクの存在を知った。ブコウスキーなんかも楽しく読んだ。私の学校ではたまに先生が学級文庫を買ってくれる時があり、生徒たちがリクエストした本を買ってきて教室の棚に置いてくれていた。『路上』にヤラれていた私はすぐさまバロウズの『ジャンキー』を注文した。なんとも危険な香りのする題名であるにも関わらず敬虔なクリスチャンであるM先生はきちんと買ってきてくれた。私は貪るように『ジャンキー』を読み、麻薬は生き方なのだと知った。ビートニクの文学に触れる内に「ドラッグ」への興味が私の中でふつふつと湧きあがっていた。ドラッグ映画にハマったのもこの頃だ。「レクイエム・フォー・ドリーム」や「スキャナー・ダークリー」「スパン」などの映画がお気に入りだった。
どうにかしてマリファナを手に入れたい。そう思っていた矢先、後ろの席からマリファナについての話が聞こえてきた。
「今マリファナの話してた?やったことあるん?てか、もってる?」
と、私は彼に飢えた動物のような勢いで話しかけた。彼は「興味あるなら今度あげるわ」と約束してくれた。それ以降私は夜中になるとベランダでマリファナを吸い、朝まで映像の洪水を浴びながら旅を楽しむ、という遊びにハマるようになった。都会の大型ツタヤへ行き、カルト映画コーナーに置いてある映画を片っ端から借りる。ジュースやお菓子を多めに買い込み、家族が寝静まるのを待つ。そして映画の時間が始まる。私はもともと映画の筋を追うのと、登場人物の名前と顔を覚えるのが極度に苦手で、そこにマリファナの作用が加わり、ただ純粋に音と映像の渦に巻き込まれる快感というものを味わうために映画を観ていた。そこでは映像の質感や登場人物のキャラ、音やカメラワークなど演出技法のほうが物語それ自体より大事になってくる。体験の質を分かつのは、そういった細部なのだ。映画館という空間もまた映像体験を深める装置の一つだった。大阪ではシネ・ヌーヴォや第七藝術劇場、プラネットプラスワンなどに足を運んだ。京都には京都シネマや京都みなみ会館があった。単館映画館のアンダーグラウンドな雰囲気は、それだけでこれからどこかへ連れて行ってくれそうな匂いがプンプンした。実際私は色々なところへ旅をした。『ピノキオ√964』の爆音上映でノイズの世界へ身を委ね、合法ハーブを吸って観た『エル・トポ』ではバッドトリップに陥り吐きかけてしまった。渡辺文樹の上映会では建物の外で怒鳴る右翼の街宣車をくぐり抜け、建物内に忍び込んだ左翼達に囲まれながら日本アンダーグラウンド映画の世界を知った。『追悼のざわめき』のアフタートークでは松井監督の犯罪スレスレのゲリラ撮影の話を聞かせてもらった。なんといっても、ロシア映画特集で観たタルコフスキーの詩的な映像世界は特に気に入っていた。ロシア。圧倒的なロシア。『ストーカー』は現在でも一番好きな映画の一つだ。眠気と戦いながら夢とうつつのはざまで私は神秘を体験した。あれは映画の中の出来事だったのか?それとも夢の中の出来事だったのか?痙攣的映像体験を求めていた私にとってはどちらも一緒だった。ただ良いトリップが体験できて楽しかったというだけであった。
音楽は相変わらずギャルトランスとヘビメタを聞いていたが、ちらほらとシャンソンやクラシック、ノイズも混ざってきていた。高校時代も後半になるにつれて段々とダンスミュージックへ好みが変わっていった。(私にとってはギャルトランスはダンスミュージックというよりノイズに近かった)当時流行りだしていたエレクトロというジャンルを聞き始めていた私は偶然隣の席に座ったもう一人のKとエレクトロの話で意気投合し、今度遊びに行くというクラブイベントに誘われた。それからクラブでも遊ぶようになった。アナザーKは映画の趣味も私とよく合い、ラリー・クラークやハーモニー・コリンなどアメリカのストリート系の映画が好きだった。彼もまた質感で遊ぶ人間だった。なぜ音楽の話をするかというと、私にとって映画は音楽のような楽しみ方をするものだったからだ。今でもその基本は変わらない。私達は新たなゲシュタルトを発見する興奮にドライブされていた。どこまでヤバい空間へ飛べるか。それが私の求めていたすべてだった。
特に私が気に入った空間はデレク・ジャーマンが創り出すものだった。カルト映画コーナーで『ザ・ガーデン』のジャケ裏をみて、すぐにこれはただならぬ作品だと思い、家へ帰り再生し始めて1分ほどでこの映画は私の生涯のベスト1ムーヴィーに認定された。8ミリフィルムのスレた質感、ブレたカメラが映し出す照明、松明を持って海へ入る半裸の男たち、ドラッグクイーンの聖母マリア。極度にチープな合成映像。画面に映っているロケ地はどことなく幼少期から住み続けている団地の質感によく似ている。観ている内に強烈な懐かしさと、安心感が私を襲ってきた。ティルダ・スウィントンは最高だし、サイモンフィッシャーターナーの作り出す音楽世界もまた最高だ。ゲイ、マリア、キリスト、吊るされた男。イメージの洪水が脳内を洗っていく。これはもう一吸いするべきだ。しかしこの質感の正体は一体何なのだろう?本当に素晴らしい。いつの間にか外は明るくなっている。夜明け前の団地の風景が涙を誘う。タバコを吸いながらしばらく感傷にひたり、そして小鳥のさえずりを聞きながら眠りに落ちた。
それからデレク・ジャーマンを立て続けに観ていった。後にスロッビング・グリッスルが音楽を担当している『イン・ザ・シャドウ・オブ・ザ・サン』、バロウズを映し出した『パイレイトテープ』、ブライアン・イーノとジャー・ウォブルが音楽を担当している『グリッターバグ』などに出会ったときは、点と点が繋がる興奮を覚えた。
それからも私はひたすら脳内で特殊な化学変化を引き起こすような映像体験を探し求めた。やがてその志向は私を実験映画の世界へ導いていく。マヤ・デレン、ケネス・アンガー、トニーヒル、パトリックボカノウスキー、セルゲイ・パラジャーノフなどに出会い、更にもっとアブストラクトな映像、例えばノーマンマクラレン、ウィットニー兄弟やジョーダンベルソンの世界へと興味が移っていった。ロバートエイブルなどの初期CGの質感やアンドリューブレイクのアート系ポルノの世界にも魅了されていた。私は段々と自分でも映像作品を作りたくなり、当時世に広まっていたパカパカ携帯で教室の風景を映したり、友達に演技指導をして短い動画を撮っていた。将来は実験映画の作家になるのだと決意し、メモ帳に次々とアイデアを書き連ねていった。
またしても映画のせいで勉強を放棄した私はまたしても受験に投げやりになり、結果、勉強せずとも入れそうな大学へ進むことにした。しかしその探求のおかげで、その大学生活も半年もたず、その年の9月、私は姉とヨーロッパへ旅行に出ることにした。アルスエレクトロニカにいってみたかったのだ。遡ること半年ほど前、高校最後の冬、私は実験映画の祭典イメージフォーラム・フェスティバルにでかけた。その年は大変な豊作で、『スラヴォイ・ジジェクによる倒錯的映画ガイド』やレフ・マエフスキの『グラスリップス』ドイツのメディアアーティストマックスハットラーの実験アニメーションなど魅力的な作品が上映されていた。そこで私は『ザ・ネットーユナボマー・LSD・インターネット』という映画に出会い、サイバネティックスや60年代のニューヨークの前衛映画の作家たちの世界に目を開かされた。そして実験映画やメディア・アートに興味を持ち始めたのだった。映画の中でハインツフォンフェルスターがウィトゲンシュタインの話を熱っぽく語るシーンを強烈に覚えている。また当時私はメディアというものにも興味を持ち始めていた。実験映画が好きだったのは、それが映像メディアの可能性を広げていく試みだからだ。映像という媒体を演劇の延長線上に持ってくる劇映画というものに飽き飽きしていた私は自然とそういったエクスパンデッドシネマやらアブストラクトシネマと呼ばれる領域に興味を持ち出していた。ナム・ジュン・パイクを知り、岩井俊雄を知り、スプツニ子を知った。ミクシーでスプツニ子にDMを送り「リンツ楽しいよ!一気にいろいろな人に会えます!!」と背中を押された私は姉と共にヨーロッパへと飛び立った。
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