「抗体詩護符賽」ウィトゲンシュタインと括弧的感覚2

「私の言語の限界が私の世界の限界を意味する」ールードヴィッヒ・ウィトゲンシュタイン


つぶグミプレミアムを頬張りながらタバコに火を付ける。どこから手を付ければ良いのか。

「あいつが阿呆でなければ、おれがそうにちがいない」ーウィリアム・ブレイク
「およそ一個の人間に関して最も実際的で重大なことは、なんといってもその人の抱いている宇宙観である。
(中略)
下宿屋の女将(おかみ)が下宿人の品定めをする場合、下宿人の収入を知ることは重要なことではあるが、それにもまして重要なのは彼の哲学を知ることである」ーG・K・チェスタトン

ウィトゲンシュタインが言わなかったことと、小泉進次郎が言わなかったことは同じものだろうか?「あいつが阿呆でなければ、おれがそうにちがいない」とはウィトゲンシュタインも小泉進次郎も言っていない。ウィリアム・ブレイクも言っていないだろうが、書くことも言うことに入れるとこの言葉はウィリアム・ブレイクが言った言葉なのだ。ウィトゲンシュタインも小泉進次郎も共に「あいつが阿呆でなければ、おれがそうにちがいない」とは言っていない。だからといってウィトゲンシュタインが言わなかったことと、小泉進次郎が言わなかったことは同じというわけではない。これは単にウィトゲンシュタインも小泉進次郎も共に言っていない多くのことがあるというだけの話である。

問題は「ウィトゲンシュタインの最良の部分は彼が語っていないところにある」ことを伝えようとした時、「その言葉は何を指しているのか?」をどう特定すればいいのか?否定神学的に外堀を埋めていけば自ずとそれは浮かび上がってくると思ってしまうが、最後のジャンプがどこに着地するのかは誰にもわからない。そうするとどうしてもそこに小泉進次郎の影がついてまわることになる。極度にウィトゲンシュタイン的な人間であるなら、小泉進次郎の語らなかったことからウィトゲンシュタインの語らなかったことと同じメッセージを受け取るかもしれない。

ところで、誰かと似ている顔が存在しているということはひどく奇妙なことだ。顔の種類の類型化が恣意的なものだと言うことを前提にしても「一体この世には何種類の顔のタイプが存在するのだろうか?」と思ってしまう。もちろん各パーツが似ているだけで似ているという印象は生まれるのだから特定の人物を比較対象として目の前の人間を見る時、そいつは複数の人間に似ている可能性はある。しかしそれは顔のタイプが存在しないことではないだろう。Aさんはトム・ハンクスに似ているとも言えるが、西野カナに似ているとも言える。しかしトム・ハンクスと西野カナは似ても似つかない。BさんはAさんに似ているとも言えるし、トム・ハンクスに似ているとも言える。AさんもBさんもトム・ハンクス顔だ。Bさんは西野カナには似てないがデイヴィッドロックフェラーに似ているとも言える。

顔の類型化に使われているのは人ではなくその特徴なのだろうか。トム・ハンクスの顔の特徴のある部分がAさんにもBさんにも現れている。しかしAさんにはトム・ハンクスの顔のある特徴とともに西野カナの顔のある特徴も備えている。そう考えると顔のタイプが何種類もあるのではなく、実際には顔に現れている特徴が何種類かあるということだろうか。でも

「目が細いところは似ているけど、顔全体を見たら別に似てないけどな」

ということもあるだろう。私が不思議に思った事柄は、「顔に現れる特徴」の種類の数ではなく「誰かに似ている顔」の種類の数である。勿論ある顔を誰かの顔と似ていると認識するのにはその顔の特徴ゆえだろう。二つの顔に共有される特徴がある閾値を超えたらその二つの顔は似ていると判断されるということだろう。その閾値は二つの顔を見比べる人によって違うだろうし(だから似ている似てない論争が起こる)そもそもそれは無意識レベルの処理で起こることなので「なぜ二人が似ていると思ったのか」は本人でさえも正確には言うことができない。「なんか目が細いとこが似てるなと思ってー」とか「なんかこういう血の気が多そうな顔の人いるよな」とか似ている特徴を上げるたり、感想を言うことくらいしかできない。

しかし私が問題にしたいことは「人間はどのようにして似ている顔を認識するのか」ではなく「一体この世には何種類の顔のタイプが存在するのだろうか?」ということだ。誰もが誰かに似ているといえるのだとしたら、「誰かに似ている顔の種類」は人間の数だけあることになるだろう。それでは類型化したことにならない。つまり結局は

「あなたが分けた分だけ」

ということに過ぎないのだろうか。つまりそれは色のように必要に応じて細分化されるものなのだろうか。

そもそも「一体この世には何種類の顔のタイプが存在するのだろうか?」という問いは何を問うているのだろうか。

子供は時々変なことをいう。

「さっき宇宙人いたね」

この言葉には3通りの受け取り方が思いつく。

1つ目はこの子供は宇宙人という言葉の意味をまだ習得できていない。髪の毛のない人のことをすべて「宇宙人」と呼んでいるのかもしれないし、女性のことを「宇宙人」と呼んでいるのかもしれない。そのうち何が宇宙人で何が宇宙人じゃないかの区別がつけられるようになると思ってその時は話に乗る。「そうなんだー、どんなだった?」「それは宇宙人じゃなくてハゲたおじさんじゃないかな?」

2つ目は「宇宙人」という言葉の意味の理解の上では我々と変わりないが、「宇宙人」の幻覚を見たという場合。その時、我々は彼の脳の中で異常なことが起こっていると感じ恐怖する。大体は「まだ子供だからそういうこともあるのだろう。しらんけど」と自らを納得させ、その発言に引いたり彼らを隔離したりはしない。

3つ目は「宇宙人」という言葉の意味はわかっているが、大人の気を引こうとして嘘をついている場合。そう受け取った場合。「嘘を付くな」と怒るか、発言を本気に取らず、その気持ちに対してケアをしてあげる。「そうなんだ、すごいね!お父さんは宇宙人なんか見たことないよ!」

しかし、大人でも「宇宙人」に会ったと言う人がいる。そういう時私達は彼らを異常な人間だと思い恐怖を感じる。金儲けや注目を集めるために嘘をついているのではないか。それとも本当にイッちゃってるのか?と。最初の可能性は予め排除されている。大人なんだから宇宙人という言葉の意味を知らないわけないと。

しかし彼らはその言葉で何か微妙なことを伝えようとしているのかもしれない。言語化できない気づきを無理やり言語化しようとしたためにおかしな言葉の使い方になっているのかもしれない。もしそうであるなら彼らがどういう意味でその言葉を使っているのかを理解できるまで共に時間を過ごした方がいいかもしれない。

星空に充満するムスリムガーゼの風の音。


「バカっていうほうがバカやねんで」

小学生の時よく聞いたセリフだ。

AさんとBさんが議論をしていて、イライラしたAさんが相手の事を「ほんと馬鹿だな」と言う。Bさんは「バカっていうほうがバカ」と返す。バカは自分のバカさに気づく知能がない、つまりバカがゆえに自分を賢い人間だと思っている。だから相手をバカにできるのは自分のバカさに気づかない大馬鹿者だけだ。というわけだ。

Aさんは「「バカって言うほうがバカ」って言うほうがバカ」と言い返す。Bさんは「「「バカって言うほうがバカ」って言うほうがバカ」って言うほうがバカ」と返す。バカのハウリングが起こっている。

実際二人はどこまで言っても「バカって言うほうがバカ」という形式を繰り返しているだけだ。

もしくはAさんは「そのとおりでござんす。私のような大馬鹿はそうそういませんぜ。だからお前も俺もバカなんだよ」と開き直る。つまり私はあなたと違って自分のことを賢いと思っていないほどには賢いのだと。しかしこれは何も言っていないに等しい。「俺は自分をバカだと認められるほどには賢いが、お前はそれにも気づかない大馬鹿者だ」というわけだ。Aさんは「俺もお前もバカなんだよ」とメタな視点に立つことで「俺は賢いがお前はバカだ」と伝えている。発言の内容と正反対のことをその発言で言っているわけだ。だからAさんは自分のことをバカだと認めることで「Aさんは自分のことを賢いと思っている」というBさんの指摘に反論したことにはならない。

批判という行為は必然的に相手と自らの差異を強調する。本人がいくら自分と相手は同じと思っていようがそうした主張が成り立つにはそこに差異が生まれなければいけない。つまり相手のことをバカという主張が成り立つためにはその発言によって自分はバカじゃないと主張している事を認めないといけない。

しかしそもそもAさんは自分のことを賢いと思っていることを認めることで、自分がバカだと認める必要はない。Bさんの「相手をバカにできるのは自分のバカさに気づかない大馬鹿者だけだ」という前提をそもそもAさんは持っていないかもしれない。「俺は自分がバカではないと思っているよ。だからお前をバカだと言えるのだ。俺はバカだと言うほうがバカだとは思っていない」と。

Aさんが「「バカって言うほうがバカ」って言うほうがバカ」という時、それは「あなたの言葉の使い方が正しければあなたは自分のことをバカだと言ってることになりますよね?」ということであり、「あなたの言葉の使い方は私も正しいと思います」と認める事を必ずしも意味しない。しかしそれはBさんからすれば自分のバカの定義を相手も認めているように見えてしまう。Aさんがまずやらなければいけないのは相手のバカの定義と自分のバカの定義の違いを明確にすることだ。

そもそも相手をバカだということでメタな議論を初めたのはAさんだ。BさんはAさんのゲームに乗るべきだったのか?Bさんは「それでは答えになっていません。私の問いに答えて下さい」と言うべきだったのではないか。Aさんが自らの優位な立場へ持っていくためメタな発言にそもそも乗るべきではなかったのではないか。

しかしBさんはAさんの戦略に乗ることでAさんのそうした罠を告発したとも言える。つまりそういう議論を放棄するような振る舞いこそもっとも「バカ」なのだと言うことで議論が壊れてしまわないよう警告しているわけだ。しかし同時に「バカって言う方がバカ」と言うことで、Bさんはメタにはメタをという戦略をとっていることになり、Aさんの始めたメタゲームに乗ってしまうことになる。

こうして議論の前提となる場が共有されず各々がただ空気に向かって(同じ場を共有していないので相手に向かって話せるわけがない)同じ言葉を繰りかえしていくことになる。


「思考は現実化する」

一体誰の思考が現実化するのか?

我々が往々にして悪夢を見るのは脳内に住み着いている他者の声のせいだ。

すべての言語は引用である。そうした言語によって編まれた思考は必然的に「私」の思考ではありえない。

「思考は現実化する」と言う人間が暗に我々に伝えているのは

「あなたの人生はあなたが望んだものですよ、つまりあなたに責任があります」といった自己責任論か端的に

「私の言うことを聞きなさい、私に感化されなさい、私に富と名誉を与えなさい」

といったメッセージだろう。

さらに、お互い矛盾する思考を持った二人の人間の思考は決して現実化することはない。二人の人間が「単独一位」を強く願ったところでその席はこの世に一つしか用意されていないのだ。

それでも掛け声としては「もうだめだ」よりは「思考は現実化する」の方が元気が出るのは確かだろう。

そして元気を得た奴隷は主人の成功を現実化するため日々、仕事に精を出すことになる。

公安が考案した公案






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