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【読録】幸田文のマッチ箱

「おとうと」という映画、山口百恵の主演映画とあわせた同時上映。主演は浅茅陽子。おとうと役は郷ひろみだったか。…小学校に通う頃、正月映画で祖母に連れられ観に行った。(1976年作でした)

「おとうと」は父や世間に反抗し、放蕩を重ねるうちに病(結核だったか)に罹る。それまでの家の内外、姉が自分の心のうちを述懐しながら。弟が息を引き取るまでを映画は描く。

後妻である母、気持ちの通い合わぬ気難しい父。姉だけが「おとうと」にとって、心を開いて話すことのできる唯一の家族でしたが…というハナシ。父、幸田露伴。そして姉の「わたし」が主人公でもあり、原作者でもある幸田文。

本作を読んでる途中、「おや?待てよ…此の雰囲気は」と思いつつ検索して。あの日見た映画の原作が幸田文そのひとであり。父は文豪、幸田露伴であったことを改めて知るきっかけとなるのよ。

「幸田文のマッチ箱」は、編集者でもあり後に作家となる村松友視氏による作家幸田文の略伝エッセイ。エディター出身の村松氏、読みやすく、すらすらと読了できました。

で。幸田文女史によらず、大作家•偉人の家族。とりわけ娘であったり妹であったりという人は、偉人のそばに居て。表向きでないその人を見ているので、端的にいえば、エラくない姿も、まぁ…知ってるわけだ。

露伴先生、明治後期には文壇で流行る自然主義を嫌って…それが後々先生自身を伝記や史作、評伝という新たなジャンルへの道に向かわせるんだが。実に勤勉実直、明治の文豪として恥じない業績を残していく。

その家族として、幸田文女史は幸田家の内向き外向きの事に携わってゆく。

父露伴先生亡き後(昭和22年)。幸田文さんは「あの幸田露伴の娘」として、いわゆる書き手の側になる。御年43。かなりな遅咲きの文壇登場。自然、父露伴の回想が作品主題であったという。

父露伴に関わる著作を一通り著して、一旦筆をとめるも…再度登壇。以後は自身の才能を次々と筆勢に載せて作家としての地步を大成させる。

村松氏は昭和38年以降。作家幸田文に対して仕事にことよせて、時々訪れる編集者という立場での付き合いを重ねていく。

村松友視が幸田家を訪れた折、茶卓の上に置かれた千代紙が貼られたマッチ箱に目を止め、幸田文に尋ねたところ。

「沢山、銀行からもらうマッチ箱を見ているうち。不粋な銀行名の書かれたマッチ箱に千代紙を貼って置いてみたら、と思って…」という。

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「ひとつ貰ってもいいですか?」と尋ねる編集者、村松友視は幸田文に「こんなものでよければどうぞ」と云われ。それから時々、村松友視は幸田邸を訪れる度に、千代紙を貼ったマッチ箱を貰って帰ることになる。

時節労苦を重ね、精緻な視線と独自の感性を作品上で展開する幸田文。だが、シマリやでもあった父…というか、幸田家における「ふつう」の形。そして彼女の心配りを作者村松氏はこよなくほめる。

文の父、露伴の初期作風。市井の職人に通じて在る「生きてゆくために身についた職人の一徹な姿」を丁寧に描くことで「ヒト」の在るべき姿を表現する形…気がついたら、娘である文が受け継ぎ。

次々と著される作品(というより、テーマの求め方)に、読む者の感心を与えることのできる、立派な作家として定着してゆく。ルポライター手法…ともすこし違うんだけど。見たものをどの様に受け止めるか、そこが秀逸。

作家としてでなく、社会活動も行っており。著名なのは、奈良斑鳩の法輪寺三重塔をあちこちへの認可申出を経て、再建させることに尽力したこと。(生活に関わる著作もかなり有名)

露伴先生も生き長らえれば、驚いたには違いないが…露伴の死なくして、幸田文の登場もまたありえないのよね。

本作。
読み終えた後に「幸田文かぁ…全集読んでみっかなぁ」と思ったんだけど。伝記や評伝の悪いところは、読んだだけでその人全てを分かった気になる通弊で。村松友視流の幸田文にとどめを差し。未だ全集には手を伸ばしてない。

だめだねぇ…。(笑)

松陰先生座右の銘「三餘読書」におよばぬ、不心得者。本日これにて書評終了でございます。