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無理に溶け込もうとしていませんか? 試練があなたを待っている

先日、妻から言われた一言が衝撃的でした。


「あなたが話す讃岐弁に違和感がある。」


私も妻も、出身は岡山県です。普段、家では岡山弁、コーチングのクライアントさんとは標準語(のつもり???)で会話しています。一方で、私が経営している食堂では、岡山弁でも標準語でもなく、讃岐地方の方言を話していたのです。

ところが、私の讃岐弁は、イントネーションも言葉遣いもおかしいとのこと。「そんな言い方をしている香川県の人はいない」と言われました。

この一言は、ものすごくショックでした。努力を全否定されたような気がして、腹も立ちました。

しばらくして気持ちが落ち着いてくると、あることに気づきました。

なぜ、讃岐の方言を使ったのか?


それは、食堂のメンバーに必死に溶け込もうとしたからです。


食堂のメンバーは女性ばかりです。年齢も20歳以上離れています。オーナーという立場もあり、メンバーとの距離を感じていて、距離をどこかで埋めようとしていました。

それが方言だったのです。必死で溶け込もうとする気持ちが、親しみのある言葉を無意識に選んでいたのでしょう。心の底で、拒絶されるのを怖れていたのです。


人の輪に入ろうとする自分は、遙か昔に生まれました。今でも、この自分が生まれた時を覚えています。

小学6年生のときでした。父親の仕事の都合で、新しい学校に転校しました。そのとき、クラスに溶け込めないことを怖れていたのです。

だから、仲良くしてもらおうとして、無理に話しかけました。無理して笑いました。無理に面白いことを言おうとしていました。

しかし、逆にいじめられることになりました。


自分では、なぜいじめられたのか、今でもその理由はよく分かってはいません。ただひとつ言えるのは、無理に溶け込もうとした結果、本当の自分をそこで捨ててしまったということです。

転校するまでは、図書館に行って、1人で本を読むのが好きでした。友達と遊ぶよりも孤独を愛していたように思います。周りに合わせるのが苦手でした。

なので、たくさんの友人はいませんでしたが、心許せる友はいました。

1人は自由だけど、無性に寂しくなるときがある。自由と寂しさの両方を感じていたのでしょう。

それが、転校する際に「こんな自分ではいけない。社交的な自分になろう」と心を決めたのです。孤独の寂しさを友達で埋める方をとったのです。

正直なところ、今でも場に溶け込むのは苦手です。だから溶け込もうとするとき、必死になります。頑張ったのにうまく溶け込めないとガッカリします。


コーチとして独立してからは、溶け込むことを諦めていました。あえて1人を選び、仲間でつるんでいる人達を「なれ合いの連中」とバカにしていました。

でも、諦めたということは、どこかで溶け込めていない自分を否定していたのです。溶け込むということに、こだわっていたのです。

まさか、子供のときの決断が、そこまで自分を縛っていたとは驚きでした。

この気づきは、私にとっては衝撃でした。かなり深い部分に触れた気づきだったからです。


なぜこのような気づきが生まれたのでしょうか。

最近は、食堂が生きているように感じています。いろいろな気づきがあり、食堂にコーチされているような。

先日、ある言葉が浮かんで来ました。


「食堂は頭でやるものではない。身体でやるものだ。」


大勢の中にいるのが苦手な私が、なぜ食堂という大勢の従業員やお客様と関わることをやっているのか。わざわざ苦手なことに取り組んでいるのか。

頭で考えると日々苦しいことばかりです。嫌なこと、苦手なこと、怖いこと、そんなマイナスのことばかりが浮かんできます。

しかし、なぜか身体は元気です。結構イキイキとしているのです。

それがなぜなのか、よく分からなかったのですが、先日あることに気づきました。

1人でいると落ち着いて考えることができるのです。だから1人が好きなのです。


一方で、大勢の中にいると、なかなか上手く調和できません。周りに合わせようとするのも、考えながら一緒にいる状態です。

懸命に場に溶け込もうとするほど、孤独を感じます。だから、無理に言葉でつながろうとしていたのです。それが親しみを込めた方言でした。

つながろうとして頑張るほど言葉が増えていき、「なんで分かってくれないのか」という苦しさがクッキリと浮かび上がってきます。溶け込もうとするほど、苦しみは増していました。


上手く言葉に出来ないのですが、大勢の中にいるときに必要なのは、身体でいること。原因や理由を頭で考えることではなかったのです。言葉で無理につながることでもありませんでした。

ただ身体でいると、溶け込む必要はありません。すでに、ともにいるのです。それを体験できました。


以前もお伝えしたように、私にとって、食堂の運営はビジネスとしての挑戦ではなく、生きる修行です。

私たちには、「生かされたいのちをどう生ききるか」という、試練が1人1人に与えられています。

コーチングのセッションをしていると、仕事が成功しているとか、失敗したという話がでてきます。仕事を通して何を成し遂げるかは、とても大事なことだとは思います。でも、成功とか失敗は、頭でジャッジできることなのです。

誤解を怖れず申し上げると、成功・失敗とジャッジできる事柄は、本当の試練ではありません。試練は、ジャッジを超えた、あるいはジャッジの外にある、もっと個人的なテーマです。


生きていると、「これは試練かな」と思うことがあります。しかし、それは、結構な難題です。

試練は、自分が望んでいないことである場合がほとんどです。頭で考えると理屈に合わなかったり、拒絶することであったりもします。試練には、いわゆる正解はありません。

ちなみに書店にいくと、「合わない人との付き合い方」という本が売られていたりします。昔はそうしたハウツー本をよく読みましたが、ただ、こうした本は、結局役には立ちませんでした。

試練は、解決するものでも、乗り越えるものでもありません。試練は言い換えると、あなたに与えられた人生の真のテーマともいえます。


試練に隠されている本当のテーマに気づくことができるか、
本当の試練に気づけるかどうかが重要ではないかと感じています。

今回のメルマガのタイトルは、当初「価値観が絶対に合わない人とどう付き合うか」にしていました。食堂のメンバーとなかなか価値観があわず、些細なことでもぶつかってしまうのです。

どうすればそんな苦しい状況から抜け出せるかを考えていましたが、どう解決するかという視点でみているとき、その試練は問題でしかありません。


試練は、問題ではありません。解決などできないから試練なのです。

大事なことは、水の表面を周りで眺めて、評価することではありません。水の中に飛び込めるかどうかです。


この原稿は、最初にアイディアが湧いてから2ヶ月ほど寝かせていました。食堂に飛び込んで、ときには溺れながら、いろいろな体験をしました。

そして、最近になって「無理に溶け込もうとしていないか?」という自分の深いところにあるテーマに出会いました。これが私に与えられた試練だったのです。

この試練は、40年間、気づいてくれることを待っていたのだと思います。


その後、言葉は標準語に戻しました。冷たい感じもしますが、温度感がちょうどいいように感じます。

無理に溶け込もうとすることをやめて、逆にメンバーとのいい距離感がとれるようになったように思います。

メンバーとも、揉めることがほとんどなくなりました。必要なときには、報告・連絡・相談もくるようになりました。

お互いに楽になったのかもしれません。

ひょっとしたら、私が無理に溶け込もうとした結果、いじめられるというご縁を生み出していたのかもしれません。

ただ、もう原因はどうでもいいのです。またひとつ自分を縛っていた鎖が外れただけで十分です。

今日も頭は苦しく、そして身体はイキイキとやっています。本当にありがたい経験をさせていただいています。


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