「とき」の仕事
先日、腹が立つ出来事がありました。
心の中では、さまざまな声が湧き上がってきます。
「こんなにしてあげたのに、いざとなると自分のことばかり。なんて冷たい人なんだ。困っているときに助けてくれないなんて、もうこれ以上の付き合いはやめよう・・・」
若いときでしたら、怒りをぶつけていたかもしれません。
相手を責める言葉が何度も頭の中をよぎります。
お恥ずかしいことですが、こういう思考は珍しいことではありません。まずは、大体独りよがりなところからスタートします。心の表面は憤りで荒れています。
それから、一週間あまりたち、どうなったでしょうか・・・。
忘れていました。何があったのか詳細は覚えていません。あのときは、確かに怒っていたのです。しかし、どこか遠い場所で起きていることのように感じます。
これは「とき」の仕事といえます。
私も運営メンバーで参画している京都からだ研究室では、ボディワーカーの小笠原和葉さんの講座を開催しています。
先日の講座の中で、時間がやってくれる仕事があるというお話をされました。梅を塩に漬けておくだけで、熟成されて梅干しになる。どんなに科学が進んでも、一瞬で梅は梅干しにはならない。「とき」の仕事だと。
「どんな味になるのだろう?」
これは待つ楽しみと言えます。
「とき」の仕事は、他にもいろいろあります。
怪我の治癒もそうです。食堂で作業をしていると指を切ったりします。しかし、大抵の場合、数日すれば治っています。
また、新しい発想やインスピレーションも、「とき」が大事なファクターです。
世界的数学者の岡潔さんは、誰もが手に負えなかった数々の難問を一人で解明しました。そのときの発見について、「とき」の大事さを述べています。
「まったくわからないという状態が続いたこと、そのあとに眠ってばかりいるような一種の放心状態があったこと、これが発見にとって大切なことだったに違いない。種子を土にまけば、生えるまで時間が必要であるように、また結晶作用にも一定の条件で放置することが必要であるように、成熟の準備ができてからかなりの間をおかなければ立派に成熟することはできないのだと思う。」(春宵十話より)
最初にお伝えした「忘れていく」というのも「とき」の大事な仕事です。どんなに忘れようとしても、意志の力で忘れることはできません。また、どんなに忘れまいと思っても忘れていきます。
禅の修行とは、「生かされている自分」に気付くことと言えます。空気がなければ呼吸できません。大地と重力がなければ立っていることはできません。
この生かされている姿を体現した姿が、坐禅なのです。周りの力をいただきながら生きていることを知るとも言えます。坐禅をしていると、一瞬一瞬のときの移り変わりを感じることができます。息、心臓の鼓動、血液の流れ・・・
今あなたは、ときの力を感じながら、生きているでしょうか?
禅にとって「とき」とは、今この瞬間を生きることであり、無常を知ることです。
「とき」は、遅くも早くもなります。
早く目的地に着こうとすると、周りの車が邪魔に感じたりします。また、早く結果を出そうすると、ときの遅さがもどかしくなったりします。
また「とき」は伸び縮みもします。過去に引っ張られているとき、あるいは未来の目的に引っ張ってもらっていると感じるときは、誰しもあるのではないでしょうか。「とき」は結構、柔軟性というかストレッチするのです。
まずは、「ときの仕事」を感じることが必要ではないかと思います。
ある建築家は「時間はそもそも光であり、光は時間ではないか。」と話していました。「例えば、太陽が昇るに従って自分の影が変化することに気づく。こうしたことから、時間についての認識が生まれたと思うのです。古代メソポタミア文明は日時計をすでに発明し、エジプト文明となると時間を分割し始めます。そもそも光がなかったら時間は計れませんでした。」と文明が「とき」と密接に関係しながら進化してきたことを指摘しています。
ちなみに私は海辺に住んでいるのですが、一日の終わりに、夕日が沈んでいくのをただじっと見ているのが好きです。海の向こうに太陽が消えていくとき、空や海の色が刻々と変わっていきます。「おつかれさま」という感謝の言葉とともに、わたしの一日も終わっていくのです。
私の心と身体をゼロにリセットしてくれる「とき」です。
「ときの力」を忘れていると、人は自分の力でなんとかしようとしすぎてしまう傾向があります。
人はときの流れから外れることがあります。これが焦りであり、躊躇、迷いになります。
ときから外れた状態で何かを決断したり、行動すると、考えが浅はかだったり、逆にタイミングを逃すのです。
自分でなんとかしようとするほど、空回りします。
人生には、どうにもならないときがあります。どうにも解決策が見つからない。そもそも解決など出来る問題ではない。
「ときの力」を借りるときです。なんとかしようとする気持ちというのはどこかはやっている状態。一度リセットして、ときに委ねましょう。
禅の修行は「待つこと」です。なにかが起こってくるのをただひらすら待つ。今この瞬間を先に行くのではなく、受け身の姿勢で待ちます。
人間関係についても、「ときの力」を感じられているでしょうか。無理に上手くいかせようとすると、どこかで手を加えすぎてしまうというか、人口的になりすぎてしまいます。
人との関係に行き詰まったとき、いかに「ときの力」に委ねられるかがポイントだと思います。
それはゆっくりすぎてイライラするかもしれません。永遠に苦しみが続くように感じるかもしれません。
「もう何もできない」
そんなときは、心の中で泣きながら呼吸という「とき」に委ねてみてはいかがでしょうか。どんなに苦しいときでも、息だけはしています。呼吸だけを感じていれば、ときが進んでいくのです。
さきほど禅の修行は「待つ」ことだと申し上げましたが、だから問題が起こっても解決するというアプローチをとりません。答えを出そうとするのではなく、「問い」を持ち続けるのです。
すると、ときの力によって、その問いは深まっていきます。漬物が熟成されていくように、問いも熟成されていくのです。
すると、当初考えていた問題そのものが変わっていきます。問題が問題ではなくなり、新たな姿に変質していく。これが自然なありかたです。
そして、どこかで「ときがきた」と感じることがあります。「満を持して」とも言えるでしょう。そういうとき、心はスッキリと晴れ、希望に溢れています。
まず「ときの仕事」を感じられているでしょうか。
そして、「ときの仕事」に委ねられるでしょうか。
あなたの力だけでは、今この瞬間を生ききることはできません。
自然の働きといっしょに仕事することで、本当の仕事が現れてくるのです。
ひとつやってほしいことがあります。
今気になっている言葉を一つノートに書いてみてください。文章ではなく、キーワードでお願いします。
その言葉に対しての考え方を一文で書いてみてください。
それを一週間寝かしてみましょう。そして、一週間後にその言葉を振り返ってみるのです。どんな風に感じているでしょうか。
なにか変化はあるでしょうか。
私たちは確実に死に向かっています。死のときをむかえるのは苦でもあります。でも、死があるから、「いかに今を生きるか」という問いが生まれるのです。
私自身もさらに「ときの仕事」を探究していきます。
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