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禅語「身心一如」 言葉に自分をはめ込むから枠に縛られる 自分を解き放つ言葉と自分を縛る言葉

最近、毎日近くの山を歩くのが日課になりました。同じ道を歩いていると、日々いろいろな気づきがあります。

すれ違うときに、挨拶を交わすのは気持ちいいですね。

しかし中には、挨拶を返してくれない人もいます。一応、こちらから挨拶するように心がけていますが、まったく反応がないとちょっと悲しかったりします。時にはイラッとしたりします。何も見返りを期待していないつもりでも、相手の反応に敏感な自分がいます。

挨拶をするのがしんどい日もあります。それでも淡々と続けていたら、あるとき、言葉で挨拶しないという方法があることを思いつきました。

ただ会釈をするだけ。

どこかで言葉にしないといけないという無理があったことに気付きました。人によっては、言葉を出したくない人もいます。言葉での挨拶は、どこか相手にも挨拶を強要することにもなります。

「言葉に出して挨拶してもいい。言葉に出さなくてもいい。」

この両方を持てることで、挨拶の幅がものすごく広がりました。

子供に会うと、元気に挨拶する。
話しながら登っている人には、邪魔をしないよう小さな声で。
急いでいる人には、会釈だけ。
山道を掃除してくれている人には、深く頭を下げる。

不思議なことに、毎回声の大きさも頭の下げ方も、目の合わせ方も違います。まるで、ひとつひとつの息が違うように、ひとつひとつの挨拶も違うのです。禅では、すべての行為が坐禅であるとされています。挨拶も奥が深いですね。いつしか、あいさつを意識しなくても、心を交わしている自分がいます。

なぜか、このところ新しい発見に満ちています。もともと発見と気づきが大好きなのですが、最近朝がくるのが待ち遠しいです。今日は何が起こるのだろうかと楽しみでたまりません。子供のころ、日曜日の早朝、弟といっしょに家族が食べるパンを買いにいくのが楽しみでたまらなかった、あのときのような感覚です。

といっても、日々すごい出会いやすごいプロジェクトがあるわけではありません。「今日何をしましたか?」と問われたら、朝カフェに行って、坐禅して、山に散歩に行って、掃除をして、花に水をやって、昼寝して、ときどきセッションをして、時間があれば再び夕方カフェに行って、晩ご飯を食べて、星を見ながら妻と散歩する・・・というのが日々の主な流れです。特別な出来事は、何もありません。でも、それがスペシャルなのかもしれません。

とても静かな日々の中で、密かに「果物チャレンジ」という試みをやっています。スーパーで地元の果物を買ってきて、都会に住む友人に送るだけのことだけなのですが、結構喜ばれています。ある1人暮らしの友人は、「昨夜、八朔を一個いただきました。いや〜、Inspiringな味でした。果物は生きていくために必ず必要というわけではないですが、やはり生活に潤いを与えてくれますね。」とメッセージを送ってくれました。

「潤い」って、とても大事なように思います。自粛と我慢だけでは、心は蝕まれていきます。果物は季節感を感じさせてくれます。ちょっとした季節感があれば、苦しい中にも潤いが生まれるように思います。

「潤い」「季節感」

いい言葉だなあと思います。

ある友人は、「赤野さんは思いやりの人ですね。」と言ってくれました。


「思いやり」


思いやりがある人だったらいいのにと思います。時々、思いやりがあると言っていただくこともあったのですが、思いやりがない自分も当然いて、どこか偽善的な感じがしていました。「思いやり」という表現は、どこか美しすぎて距離がありました。

今回は、相手の顔を思い浮かべて、「喜んでくれたら嬉しいな」という思いだけでしたこと。特に何か思いやりを発揮しようと思ったわけではありません。果物を選びながら、少しだけですが、「余計なおせっかいではないか」「美味しくなかったら逆に迷惑ではないか」と心配する声はしていました。私は結構、心配性なのですね。

今回、果物チャレンジをやっている中で、自分でも気づかなかった、いろいろな感情が言葉になっていくのに気づかされます。

思いやりに話を戻すと、私が持っているのは、「思いやり」ではなく「共感」なのかもしれません。相手の苦しさや孤独を感じたときに、「共感」が湧いてきます。「今苦しいだろうな」と。なぜか相手の幸せには、共感は湧いてきません。

どんなに美しい素晴らしい言葉であっても、自分に合っているかどうかは分かりません。言葉に自分を当てはめようとするのは、無理矢理感があって、違和感があります。

現代社会では、言葉から自分を定義するというやり方が当然とされています。もしも今、枠に縛られているように感じている方は、言葉で自分をはめ込んでいるのかもしれません。

一方で、体験する中で、自分がやっていたことが後で言葉になっていくことがあります。体験の中で生まれてきた言葉は、自分の中に馴染んでいきます。

生き方には、大きく分けて2つあるのではないでしょうか。
「言葉になってから実行する」のと「まずやってみて言葉になっていく」のと。

「言葉になってから実行する」とは、「どんな意味があるのだろう。失敗しないためにしっかりリスクと対応策を考えておこう」と、先に意味を言葉にして、実行するやり方です。

私は、最近、想いや考えが言葉にならないことが増えました。

何か伝えたいという思いだけはあります。
でも、それが何なのか自分でも分からないのです。

以前は何かに気づいて、言葉になってからメルマガを書いていました。
今は、言葉になる前からスタートしています。
それは「分からない世界」との出会いです。

言葉になる前の状態を「分からない」と言います。

分からないというのは言葉になっていないこと。分かるとは、言葉になっていくプロセスです。

書いてみるまで分からない。やってみるまで分からない。
逆にいえば、書いてみれば分かる。
やってみれば分かるのです。


ある老師は「禅は初心です」とおっしゃっていました。「初心忘るべからず」という教訓を伝えたいのではありません。初心とは、人のもともとのありかたなのです。

意味とは、言葉になっている世界のことです。言葉に表現できた時点で、もう意味となって固まっています。固まったものを「価値観」「信念」と呼ぶこともあります。固いから拠り所にもなります。ただ、固まってしまうと、もう意味の枠がガッチリと決まっています。それはやがて頑固になり、信念は頑さに育っていきます。意味になっているときには、もう初心ではありません。

無意味とは、言葉になっていない世界といえます。私たちの周りには、言葉になっていないいろいろなエネルギーがあります。今この瞬間にそうした無数のエネルギーに出会っています。これを仏教では「縁起」と呼びます。縁起とは人だけではありません。私たちを取り巻くすべてのもの。見えるものだけではなく、見えないものまで、すべてです。そうしたご縁の断片は粒子のように細かいので、最初は言葉になりません。それがやがて、断片が繋がって点になり、言葉として組成されていきます。そして、点と点がつながり「言葉」となり「意味」になっていきます。

言葉になっていない、目に見えない粒子との出会いがあり、それを分からないまま、放っておくのです。禅の師匠は、「分からないことが深まっていく」と表現されていました。

これは、分からないから解決しようという問題解決型の取り組みではありません。心のゼロポイント、つまり「初心」という状態から何が起こってくるのか、その有機的な生成過程に出会っていくというあり方です。

細かい粒子を感じられる人もいますし、大きな点にならないと見えない人もいます。禅の修行というのは、どこまで細かい粒子が見える目を養うかということでもあるように、個人的には感じています。

禅のお坊さんではない。ビジネスマンでもない。そんな中途半端な自分をどう言葉にしたらよいのか。自分の存在意義というものが見つけられず、苦しんだ時期もありました。

存在意義、役割を見つけようとすると、なかなか見つかりません。このメルマガでいうと、何かお役に立てることを書こうとすること。最初から目的があっては、初心には出会えません。

クライアントのセッションをしていると、自分の存在意義や役割、進む方向性を明確にしたいという悩みによく出会います。これは言葉からスタートしようとしている心。セッションでは、対話をしながらゼロポイントに戻っていきます。

曹洞宗の開祖である道元禅師は「正法眼蔵」で「身心一如」を説きました。身体と心が一つのものの両面であるという考えです。大事なのは、「身心」であって「心身」ではないということです。あくまで身体が先にあって、心が立ち上がってくるのです。坐禅はまさに身から心を整えていく鍛錬といえます。

私たちは、言葉で理解し、分かったような気になります。これが良い悪いではなく、人間の特徴です。脳は言葉を生み出します。そして、脳から我が身を整えようとするのです。ただ、スポーツでビジネスでも言えるのですが、言葉から行動しようとすると、逆に言葉の枠の中で苦しむことになります。言葉では、自分の限界を超えることはできません。言葉になっていない世界とつながったとき、そこに初心が生まれるのです。

なので、セッションでは、一度言葉から離れるために、「今この瞬間、言葉になっていないこと」にコンタクトしていきます。

それは一見無意味であり、見えていないことです。お互いの間にある「空気」とも言えますし、「ゆらぎ」とも言えます。

言葉になっていないことから始めることで、無限の可能性への扉が開きます。分からないまま、何かが顕れてくるのを待つのは、ドキドキしますが、イキイキした時間です。使い古した言葉は固いです。そして、生まれたての言葉は柔らかいのです。

私の場合、若いときは言葉にならないものは無意味であり、無駄だと切り捨てていました。正義と信念の世界からスタートしたので、最近は逆に言葉にならない無意味の世界に興味を持っているのだと思います。

「意味」と「無意味」どちらが良い悪いではありません。「固い」と「柔らかい」も、ただの状態です。信念はあってもいいし、なくてもいい。初心でもいいし、初心でなくてもいい。言葉になるかもしれないし、ならないかもしれない。

ぜひ、無意味に感じる時間を日々とってみてください。それは言葉になる前の大切な時間です。

書いてみて、こんな気づきがあったことを嬉しいと思う反面、一方でなんて無駄なことに時間を割いているのだろうとも思います。ただ、今回はゼロポイントからの初心で表現することを心がけました。何かあなたの心に響けば、嬉しいです。


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