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『ロッキー』 アメリカン・ニューシネマの終焉とエンターティメントの復活。

評価 ☆☆☆☆



あらすじ
フィラデルフィアの三流ボクサーであるロッキー・バルボア。30歳を迎えようとしているのに、本業の
ボクシングでは生活できずに、高利貸しの取立のアルバイトで日銭を稼ぐというヤクザな生活を送る。トレーナーだったミッキーからも愛想を尽かされてしまう。



大人気となってしまった『ロッキー』シリーズ。シリーズが続けば続くほど、段々ひどくなってくる。しかし、第1作目の『ロッキー』は低予算ながら、素晴らしい映画だった。



公開は1977年。監督はジョン・G・アビルドセン。彼の映画には美学が見える。僕は彼の映画がさらに評価されてもいいと思うが、あまり評論家たちに評されていない。アクションシーンにこだわらず、登場人物たちの心の動きを細やかに表現しようという姿勢を常に持ち、限られた時間と予算の中で楽しめる映画を作ろうとしている。もちろんそれは、この映画でも伝わってくる。



脚本と主演はシルベスタ・スタローン。彼は『ロッキー』の主人公同様、この映画で一夜にしてアメリカンドリームの実現者となった。



スタローンは、あるボクシングの試合に触発されて3日で『ロッキー』を書き上げたという伝説が残っている。実際はどうかよくわからないが、この映画は派手なボクシングシーンを排除しているところがいい。殴られて変わる顔だけで時間経過を表現するなんて荒業もいい。ジョン・G・アビルドセン監督の『ベストキッド』もそうだが、とにかく試合のシーンが短いのだ。短いんだがものすごく感情移入ができる。



どうして感情移入ができるのか? そこがアビルドセン監督のうまいところだろう。同時にこの映画の面白さでもある。試合シーンの前までに観客は洗脳されていく。人間の弱さ、努力しようと試みる誠実さ、失敗に打ち勝つ姿、仲間や師弟関係の素晴らしさを知ることが、試合に勝つということよりもどれだけ大切か、物語を追っていくうちに自然と刷り込まれる。だから、結果として応援したくなる。



もちろん、予定調和的なところもある。努力したものは勝つ(負けない、でもいい)というアメリカンドリームを踏襲しているし、ラストはどうなるかわかっている。



ただし、ひとつだけトリビアを。『ロッキー』シリーズはすべて最終的に勝っていると思われているが、この一作目の『ロッキー』は『がんばれ、ベアーズ』と同じで勝ち負けにこだわっていない。第一作はなんと判定負けしている。そこがいい。「最後まで立ち続けられるか?」というその一点をポイントにしている。実は試合に勝つ、負けるなんてどうでもいい、という発想に行き着いたところが『ロッキー』を成功させた鍵でもある。



その意味で、この作品はアメリカン・ニューシネマの延長線上に位置している。アメリカン・ニューシネマの到達点であると同時に、その終焉と言ってもいいかもしれない。皮肉にも、それはエンターティメント映画の復活をも意味している。



だからこそ、それ以降の『ロッキー』シリーズは、最後に逆転して勝つというパターンに陥り、段々とその魅力が失われていく。



追記



ジョン・G・アビルドセンが再び監督となった『ロッキー5』は、残念ながら勝負なんてどうでもいいじゃないか、という原点に戻ろうとして戻りきれず、中途半端な仕上がりになってしまった。でも、『ロッキー・ザ・ファイナル』で再びそのことを問う作品に仕上がっていて、好感を持った観客は多いのではないだろうか。



続 追記



もうひとつ。この映画から教訓を得るとすれば「いいコーチにめぐり合えることこそが、成功する秘訣」ということだ。最近、この言葉を痛切に感じることが多い。本当にひとりよがりで成功したひとっていない。天才は別なんだろうけど。



初出 「西参道シネマブログ」 2006-01-18



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