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『ナインハーフ』 ミッキー・ロークの出世作。エイドリアン・ラインによる鏡像と反射の向こう側世界。

評価 ☆☆☆



あらすじ
離婚したエリザベスはある画廊に務めている。彼女が社会復帰したお祝いのため、自宅で食事会を開くことに。料理の材料を中華街で購入する途中、サラリーマン風の男性と出会った。後日、街角の市場で彼と再会し、声をかけられ、食事をすることになった。



アンドレイ・タルコフスキーの映画には犬が登場する。『ストーカー』では黒い犬が「ゾーン」をすり抜け、『ノスタルジア』ではシェパード犬が記憶の中の女性と共にいる。記号としての犬、隠喩としての犬たちは映像の中に潜り込んでいる。



映画だけではない。物語とはそもそも「物」が語ることを意味し、あらゆる比喩、象徴によって物語の中の小道具が言葉に新しい意味を添え、変容し、過剰な運動を展開する。それが物語の持つ魅力でもある。



『ナインハーフ』はエイドリアン・ライン監督による1986年のヒット作だ。この後、彼は『危険な情事』『ジェイコブス・ラダー』『幸福の条件』などを発表し、80~90年代のヒットメーカーとして活躍することになる。



彼の映像はスタイリッシュで美しい。得意とするのは光と影そしてリフレクション(反射)による画面構成。水を鏡として、磨き上げられたステンレスを鏡面にし、光を乱反射、屈折させる。彼は影を描くのが上手い。バックライトを利用して人の影が揺れ動くのを捉える。ただし、人の表情は見えない。



『ナインハーフ』にも鏡と反射のカットが数えられないほど多くある。しかし、鏡は現実を写しているように見えて実はそうではない。同様に、エイドリアン・ラインの描く人間たちもステレオタイプに見えて、実は違っている。



主人公であるエリザベス(キム・ベイシンガー)は若いけれど、すでに離婚歴のある女性。ニューヨークの画廊に勤め、画家たちの作品を収集、才能ある画家を発掘することを仕事にしている。彼女はどこにでもいるOLではなく、芸術的な要素に強く関心を持つタイプだ。彼女が注目しているのは画家のファインズワース(ドワイト・ウェイスト)という老人。自然と共に生き、金への執着などがまったくない。



一方で、エリザベスはウォール街の一流証券マンのジョン(ミッキー・ローク)に惹かれてセックスを重ねる。次第にエスカレートしていく彼とのプレイに、最初のうちは嬉々として応えようとする。



映画の中で猫が二カ所だけ登場する。ひとつはジョンとエリザベスの目隠しでのセックスをする直前。猫はまるで居場所を間違えたかのように去っていく。もうひとつは画家のファインズワースの家を訪れた時。自然の中で絵を描こうとするファインズワースとエリザベスの横で、猫は寄り添って座る。



映画の中で特殊な小道具が二度以上登場するとすれば、そこに大きな意味があると考えていい。特にアップになるカットがインサートされれば、監督の意図があるはずだ。



『ナインハーフ』の猫は人間の欲望を嫌う正反対の存在と推測できる。ジョンを嫌い、ファインズワース側に寄り添うもの。それは動物的欲望である。勘違いしないで欲しい。欲望=動物ではない。年中発情しているのは人間くらいだ。セックスに欲望を感じるのも人間。キリンのSMがないように、動物にとってセックスは生殖行為がメインである(一部のチンパンジーは除くが)。



画家ファインズワースは「腹が減ったら何か食うことだ。疲れた時は眠ればいい、私の覚えているのはそれだけだ」とエリザベスに言う。これは人間的欲望の否定である。作品はセックスをモチーフにしているが、その向こうにあるのは資本主義的欲望と言い換えられる。ジョンが証券マンであるという設定にも頷ける(男性社会と考えてもいいかもしれない)。



ところが、エリザベスが結果的に求めるのものは資本主義的欲望ではない。それが映画『ナインハーフ』のテーマ。最初、彼女は男性と恋に落ちること=セックスによって充足できると思った。離婚した元夫とも同じかもしれない。しかし、その考えはエスカレートしていくセックスによって次第に亀裂を生じて、老画家ファインズワース(猫と言い換えることができるかもしれない)との邂逅によって決定的になる。



後半、エリザベスがポルノクラブに入るシーンがある。それは欲望の行き着く果ての姿。その殺伐とした風景に、エイドリアン・ラインの得意とする美しいリフレクションの効果はまったくない、荒廃した世界が映し出される。



主人公エリザベスは何を求めていたのか? 相互理解か? ジョンは別れる寸前になって自分の過去を語る。多くの女性客はこのシーンを観てエリザベスの台詞を鵜呑みにして「遅すぎる」と感じる。しかし、それは間違っている。エリザベスが求めていたのは相互理解ではない。ジョンがそんな話をしても結果的にはよりを戻そうとしないことでもよくわかる。



もうひとつ。これだけ鏡がありながら、エリザベスが自分自身を鏡に向かって語るようなシーンが一切ない。客観的に自分を見るという光景も見当たらない。彼女は自分を鏡で客観的に捉えることができない存在。鏡に映らない存在と言うべきか。



ラスト近くでのシーンを観て欲しい。クローゼット(全面鏡!)の向こうにある荷物を取り出すために、彼女は鏡の向こうへ行く。だが、そこにも何もない。



『ナインハーフ』の主人公は紛れもなくエリザベス(キム・ベイシンガー)である。彼女の行動によって、観客は資本主義社会の行き着く果てには何もないということが示される。あるのは「無」だ。ジョンが最後に見せた弱みにすら応えようとしないエリザベスを待ち受けているのは、多分、死だろう。



映画は夕暮れ、人混みに消えるエリザベスで終わっているが、この後、彼女は自殺することになるはずだ。そうなれば物語は極めて美しく完結する。エイドリアン・ライン監督の『危険な情事』にはラストが変わったディレクターズ・カット版がある。ラストは女性の自殺で終わる。監督の描く女性たちは自分たちには何もないことに気づき、死に至る。



この映画を分析的に映画を観るとこんな感じになる。



『ナインハーフ』を単なる変態映画と捉えても別に問題ないだろう。そんなふうに観る人がほとんどだし、この映画を分析している評論を見かけたことがない。当時、ミッキー・ロークはセクシーな男優としての地位を確立していた。「女性を見つめるだけで妊娠させることができる」らしい。このキャッチコピーは後にベネチオ・デル・トロが引き継ぐことになるが、それにしても品のないコピーである。笑っちゃうけど。



よく芸術映画と通俗映画という区別をする人がいる。しかし、ヒットする作品にはヒットする理由がある。恣意的ではないにせよ、時代や社会の風潮、思想、イデオロギー、テイストが見え隠れしている。



ところで80年代とは何だったか? 資本主義社会の行き着く果てが“無”であることを提示した時代、と括れないだろうか。



初出 「西参道シネマブログ」 2014-04-19



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