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『ハリー・ポッターと謎のプリンス』 ハリーとジニーのキスシーンは幼年期の終わり。しかし、もっと破壊すべきだったのでは?

評価 ☆☆



あらすじ
その日、イギリスの首相は魔法省大臣のコーネリウス・ファッジと5回目の面会をした。首相に就任した当初、顔合わせに来たファッジは「魔法界で深刻な事態が発生しない限り、二度と会うことはない」といっていた。何度もも会うことになつたのには大きな理由があつた。彼が復活するかもしれないというものだった。



始まった物語は必ず終わリを告げる。永遠に続くわけがない。当たり前である。世界的なヒットとなった小説シリーズである『ハリー・ポッター』もまた同じ。さて、ここまで大きな話題になったシリーズをどのように終わらせるか? 原作者も大変だろうね。



この壮大な物語を終わらせるためには、いくつかの壮大な装置が必要になる。2009年公開の『ハリー・ポッターと謎のプリンス』はまさに装置づくりのためのストーリーだった。監督はデイビット・イエーツ、出演はダニエル・ラドクリフ、エマ・ワトソンなど。



装置としての物語を作り上げる上で、問題はふたつある。ひとつは主人公が極めて正義の側に立ってしまったことをどうするか。ポッターVSヴォルデモートという図式からすれば、どうしてもその中間にある存在を生み出す必要がある。それが今回の謎のプリンスということになった。本来ならポッターそのものが両義的=謎のプリンスであるはずだったのに。



いずれにしてもトリックスター的な、両義的な存在が必要になる。この物語にはそのようなアンビバレントな人間は明確に描かれていなかった。その意味で、物語がキャラクターを求めている感がある。



もうひとつは、ヴォルデモート復活がいったい何を意味するのかがよくわからない。ヴォルデモート=既存の制度の破壊だろうが、じゃあ、それによってどう世界が変わるのかが明確ではなかった。本来ならものすごい破壊をしなければいけない。「じゃあ、このあたりで、いっぱい破壊しちゃおうかな」なんて感じで『謎のプリンス』が描かれている。



ヴォルデモートが復活したとしても、別に実社会にも影響なくてホグワーツにも影響なかったら特に描く必要もない。それがどういう形で変化するのかがポイント。天災的なカタストロフなのか、政治的なカタストロフなのか、あるいは精神的なものなのか。ところが、この作品はそのあたりがうまく描かれていない。



僕は原作を読んでいないので、原作がそのあたりを濁しているのかもしれないけど(ラストにそれがわかるのかな?)。あるいは映画の方で濁しているのか? あるいは描いているけれどインパクトが薄いのか、どれかなんだろう。いずれにしても「おお、それはまずいな」ていう危機感があまりなかった。



この映画では「おお、それはまずい」というものを描かなければいけなかったはず。そんな状況になればなるほど、エンディングに起こるだろうカタルシスは大きなものになる。もっともっと破壊しても良かったし、困ったことがいっぱい起こっても良かったのに。こういうのはジェイムズ・キャメロン監督が得意です。キャメロン監督にこの回だけは任せたかったな。



成功している部分もある。この壮大な物語の主人公を成長させなければならない。そのためには誰かと恋に落ちる必要があった。ジニーとハリーのキスは、そのままハリーの幼年期の終わりと青年期の始まりを意味している。



それにしてもみんな成長してますね。今回、とてもびっくりしたのはエマ・ワトソン。前回はあまり感じなかったけれど、とても美人になったのでびっくり。女性はわかんないものです。



初出 「西参道シネマブログ」 2011-08-23



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