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『チャンス』 宗教的意味合いの強い映画。神が死んだ世界に降臨したアダムの行く末は?

評価 ☆☆☆



あらすじ
初老のチャンスは庭師。巨大な屋敷で育ち、屋敷の外に出たことがない。庭の草花の手入れとテレビが何よりも好きだった。いつも通りの朝、テレビを見ながら起き上がり、草花に水をやり、乗ったことがない車を磨き、朝食のテーブルにつく。そこに使用人のルイーズがやってくる。



「ツァラストゥラはかく語りき」という曲がある。スタンリー・キューブリック監督の映画『2001年宇宙の旅』で使われ大ヒットした。いまや、お葬式と線香くらい、結婚式と退屈なスピーチくらい切っても切れない関係と言ってもいいかもしれない。だから、他の映画でこの曲が使われている時は「監督は『2001年~』を意識しているんだ」という暗黙の約束みたいなものができている。



この『チャンス』の中でも「ツァラストゥラはかく語りき」が使われている。チャンスは大豪邸の庭師で生まれてからずっと庭の中(といっても大金持ちの庭だから巨大な庭らしい)でしか生きてこなかった。外界に一歩も出たことがない男が雇い主の死をきっかけに初めて世界へ繰り出す。外への第一歩を踏みしめる時に「ツァラストゥラはかく語りき」のディスコヴァージョンが流れる。これが結構、感動的である。



さて、ここでニーチェ作の「ツァラストゥラはかく語りき」とはどんな書物だったか? 山から降りたツァラストゥラは、神が死んだ世界を知らずに生きている人々に対して、超人思想を説き、再び山に戻るという話。これはまさにこの映画のチャンス=ツァラストゥラである。



映画の冒頭にもクラシック曲が流れる。シューベルト作曲の「未完成交響曲」だ。普通交響曲は4~5楽章まで書かれているのだが、この交響曲には2楽章しかないことからこう呼ばれている。不完全だが美しい交響曲であるという意味だ。不完全なこの世界は神なき世界だが、美しいということか。



映画評論家の町山智浩氏によると、富豪の子で私生児という設定であるという。私生児とは父親がいないつまりイエスであり、神の子を示唆している。この映画はつまり、イエスが神無き世界に登場するということか? 二重の意味でニーチェの「神は死んだ」という意味のアイロニカルさを示しているのかもしれない。



チャンスは庭のことしか話さないというか、話せない。しかし、周囲の人たちは彼の話を拡大解釈し、感銘を受け、誤解によって次第に有名になっていく。ピーター・セラーズが主演しているが、彼の傑作のひとつである。



この映画、ロビン・ウィリアムスも大好きだったそうで、時折、テレビ番組などで『チャンス』のピーター・セラーズの真似をしていた。何回か観たけれど、これも面白かった。



ブラックユーモアに満ちていて、アイロニカルなところもありながら、人生に対する示唆に満ちている。『2001年宇宙の旅』のように「神」と「人間」との関係が映画に出てくるので、僕は個人的に裏『2001年宇宙の旅』と呼んでいる。



ラストも『2001年宇宙の旅』くらい難解である。ずっと心に残ります。別に宇宙に行かなくても神は語れるのだ。



追記



原題は『being there』。そこにいるという意味である。神は本当にそこにいるのか? すでに死んでいるのか? 深いタイトルとなっている。『チャンス』って、なんかのチャンス(機会)と間違えそうなタイトル。いまさら変えられないけど、ちょっと考えてほしかった。



初出 「西参道シネマブログ」 2004-12-28



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