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村上春樹さん、73歳の顔になられたよな。アクティブに体を動かす方でも老化するんだなぁと。

    • 軍医さん

      だいぶ昔の話。 小学生の頃、ちょっと酷めの擦過傷になった事がある。校庭の隅の水道で傷を洗ったのだけど、繊維が見える位に抉れてしまっていて、保健室に行ったら今日は帰ってキチンとした病院に行く様に言われた。 親父が店を留守にして車で迎えに来てくれたのだけど、病院を手配してくれていた。ちょっと痛いけど早く治るからそこに後で連れて行くとの事だった。 怪我をしただけでも充分痛かったので、痛くないとこは無いのか聞いたところ、痛くない医者は余計しんどいからそこ行っとけ、との事だった。しょ

      • ローリングストーンズアルバム個人的評価(基本初期はUK盤です)前編。

          今更ローリングストーンズのアルバムについて書くのもどうか、とも思ったのだが、完全スルーしていたBLUE&LONESOMEが聞いてみるといいアルバムだった事と、今後アルバム作成するとは余り思ってないので一度振り返ってみようかと考えた。僕の音楽の入口は間違いなくストーンズだったしね。  まぁ歴史は長いバンドだから余りリリースしない時期があってもアルバムの数はある。何処に価値軸を置くかで評価は分かれるとは思うがここは僕個人の感覚で評価をS~Eまで付けて簡単な理由も書き添えます

        • 令和元年

          ありがとう フレッドペリーのスワローテイルコート ドクターマーチン ロークのローファー グランドセイコー アマプラミュージックアンリミテッド ソニーRX100Mk3 GalaxynoteS10+ お店のキャストの女の子 止まり木のイタリアン 止まり木のbar そして、転職の後押ししてくれた松本。 感謝してるよ。みんな愛してるよ。

        村上春樹さん、73歳の顔になられたよな。アクティブに体を動かす方でも老化するんだなぁと。

          若い時に諦めた事。

           小学校の4年生だか5年生だか忘れたけれど、放課後に保健室に行くようにと担任の先生に言われて何だか分からずに行った事がある。保健室に放課後にわざわざ呼び出しを喰らうのはきっと良くない事なんだろうな、くらいは小学生でも想像がつく。気乗りしないで取り壊し寸前の木造校舎の端っこの部屋に行くと、室外のベンチに見知った顔が二人いた。なんやろなー、知ってる?知らんー、怖いな。とか暗い顔を突き合わせながら座っているとみんな入って、と言われて保健室に入った。  入ってみると、机が置かれてい

          若い時に諦めた事。

          生い立ちの切り売り 3

            だいぶ間隔が空いてしまったので構想忘れかけてしまった。。  幼稚園はスクールバスが家の前まで迎えに来て、終わったら家の前まで送ってくれる私立の幼稚園だった。商家だったので公立幼稚園の送り迎えが出来ないと言う理由だった。幼稚園のバスはウチが真ん中位で友達が半分くらい乗ってて、徐々に友達が乗ってきて楽しかった。カトリックの幼稚園だったので黒い修道服を着たシスターが乗っていた。あまり騒ぐとよく叱られた。程よい微笑みと共に。彼女も楽しかったのかも知れない。  一度、授業が終わ

          生い立ちの切り売り 3

          #8月31日の夜に

          10代の頃は何をしていたのだろうか。 小学生時代を振り返ってもあまりディテールが思い出せない。中学受験の塾通いと友達の電気屋の倉庫で女の子二人、男三人でお化け屋敷ごっこをして女の子のパンツを下から覗いた事、駄菓子屋でカレーせんべいや訳の分からんヨーグルトやペプシを摂取してギャラガをしたりロケット花火を開いているアパートの窓に撃ったりはじめて洋楽のレコード(ボズスキャッグスのベスト盤)を買ったり、一応中学受験に受かったりとまぁ楽しい日々だった。 大多数の人には小学校と言うの

          #8月31日の夜に

          亡くなった後のネット。

          Twitterを眺めていたら、ネットの上の存在はそうそう消えないと言うが、サービスが無くなって故人の存在がすっと消えて行く(悲しい)と言う超意訳だがそういうのが流れて来て、大学時代の後輩を思い出した。 その子は僕の二つ下で、サークルも一緒だったがお互い大学を離れてから、一度だけ学祭に顔を出したきり会って無かったのだが、mixiと言う古のサイトで見つけて二度飲みに行った。 何かでケンカしてからスルーしてまあ再会なんてそれ以前にさして仲良く無かった人としてもしょうが

          亡くなった後のネット。

          生い立ちの切り売り 2

           家の周りは場末の繁華街だった。繁華街の一番隅に家があった、と言うのが正確なのだろう。周囲に子供が少なかったせいか幼稚園に入るまで、近くにあったキヤノンのコピー機の営業所のサラリーマンが昼休みに。夕方になればキャバレーの呼び込みのおっちゃんが遊んでくれた。ホステスさんが粉っぽい匂いを漂わせながら家の前を通る時にお菓子をくれて頭を撫でてくれた。  家の周りのトタンや網のフェンスには、教育に宜しくないポルノ映画やストリップ劇場、キャバレーの催し物のポスター。それと過激派のポスタ

          生い立ちの切り売り 2

          生い立ちの切り売り。

           昭和40年代も終わりの頃、雪の降る寒い午前7時。母の実家の近くの南河内の産院で僕は産まれた。逆子だったのでひょっとしたら窒息死しそうだったみたいだ。昔の医療技術なんてそんなものなのであろう。  当然、生まれたころの記憶はまったく無くて思い出せる記憶は三歳の頃に段ボールを被ってロボットの真似をしていた時に玄関で転んで顎を切って血だらけになって病院で麻酔無しに縫われた記憶が昔の最初の記憶だと思う。その傷跡は今でも細い線で残っていてそこに髭は生えない。  暮らしていたのは大阪

          生い立ちの切り売り。

          最近はウィスキーばかり飲んでいる。凝った色々覚えないといけない様なシングルモルトは卒業した。ジョニーウォーカーのグリーン、ダブルブラック、ブラックの三種類を自宅で気分で飲み分ける位。 旨い酒はバーテンダーに聞かないと解らない。

          最近はウィスキーばかり飲んでいる。凝った色々覚えないといけない様なシングルモルトは卒業した。ジョニーウォーカーのグリーン、ダブルブラック、ブラックの三種類を自宅で気分で飲み分ける位。 旨い酒はバーテンダーに聞かないと解らない。