035_ひとり温泉旅行 脱力編

平坦な道や変わらない景色がどれほど苦痛か、人はよく知っておくべきである。

説教なんてしたくないが、人生も人間も、デホコボコとしていたほうが面白いというものだ。波乱万丈の方が良い。大変な気苦労はあるだろうが、なにもないよりかは良い。

ついでに言うと、私はいつも出勤経路を変えている。その日によって通る道を変え、景色を変えているのだ。そうすると、思わぬ出会いや発見、アイディアが生まれる。余談だが、最近近くのコインパーキングで毎朝弁当を捨てている男がいる。恐らく家族の誰かが手作りした弁当箱であろうそれは、バンダナでちゃんと包まれていた。

よく顔を見ていないが、恐らく10代から20代くらいの、細身の男である。洒落けはまったくなく、服装は工場勤務の作業服であった。いつも長袖長ズボンの格好から、危険物でも取り扱っているのだろうか。
その男は、毎朝、近くのコインパーキングにいる。三方を雑居ビルで囲まれた平地のコインパーキングで、車は5台しか停められない。雑居ビルの1階が飲食店のため、朝から油の匂いが換気扇から出て、あたりはいつも油の匂いがしていた。

男は雑居ビルの壁に向かって、弁当箱を投げていた。ちゃんと弁当箱に包まっているバンダナを外して、中身が飛び散るように投げていた。弁当を入れる保冷バックも投げていた。
なぜ、そんなことをしているのかは、分からない。しかし、毎日そんなことをやっているなら、毎日弁当を準備する人が、その男にいるということだ。
誰も彼もが、波乱万丈の真っ只中なのだ。

(しかし、食べ物に罪はないから、弁当を食べずに捨てるのは本当にやめてほしい)


前々からこの花の写真を載せているが、特に意味はありません。


繁華街が近づいてきた。その頃には、歩いているのがやっとの、まるでゾンビのような状態であった。

朝9時である。
道路には出勤する車が多く、近くの中学校に通う生徒たちが、元気溌剌と挨拶いていく(いい子たちだ)。
その子等の目に、私は一体どう映っているのだろう。おおきなリュックを背負った、目が虚ろな女の人。これはもう不審者だ。
私は地域住民に不審がられないように、いっそう姿勢を正して歩行した。他所から来た私が、地元民の平凡な朝を邪魔するわけにはいかない。
しかし、足も痛い。これは痛いというより、もげそうだ。一步いっぽ歩くたびに、足の裏も膝も尻も悲鳴を上げている。私のそばをタクシーが通り過ぎる。
私には金がある。右手を上げるその手を、私は腕組をして防いだ。あと数キロ先のゴールが、今タクシーに乗ると嗤うぞ。

しかし、大きな波は2回来た。私は道中で、どうしても立てない瞬間があった。低血糖か疲労が原因だろう。クラクラと揺れる程度だっためまいが、まるで飛行機が落下したときのように、視界が上下左右に歪んだのだ。もはや立ってはいられなくなり、電柱に手をついてしゃがんだ。うつむくと、今度は吐き気がこみあげてくる。なにか食べないと、と思ったが、コンビニに買いに行くことはおろか、リュックから物を取り出すことも難しかった。体が動かないのである。それでも、数分しゃがんでいれば、視界の揺れは収まった。視界が良好なら、私は前を向いて歩き始めた。

ゴールである旅館についたのは、午後2時であった。この観光計画では、長距離歩行のゴールを温泉旅館の最寄り駅と定め、駅から旅館までは送迎車で移動した。なんでも、駅から旅館まで歩くと6時間ほどかかるらしい。チェックインの時間に間に合わないし、もう6時間歩く体力もない。送迎車は一般的な自家用車で、運転が荒く山道の傾斜も加算され、私は車酔いをした。車酔いに耐える体力もないため、私は目をつぶり、意識を眠りへ追いやった。徹夜で歩き通したのだ。簡単に眠れると思った。ところがどっこい、ギンギンに目が冴えている。揺られ振られる社内で吐き気と疲労に耐え、温泉旅館に到着した。
山を3つほど越えたのだろう。都市から完全に隔離された旅館は、最近改装したのか小綺麗でホテルの様だった。サイトで見たときには、古き良き温泉旅館と思っていたので、少し意外だった。

チェックインを済ませ、宿泊する部屋に入ったとき、私は崩れるように畳にへたり込んだ。今まで不審者に思われないように気を張って胸を張って立っていたのだ。足からスニーカーを脱ぐと、足の裏は真っ赤にはれ上がっていた。痛みはないが、疲労感があった。試しに立ってみると、腫れたためか、ぶよぶよとした感触があった。

もう歩かなくていいのだ。
私は心の底から安堵した。しかし、夕食会場は別の階にあるし、風呂も部屋にはない。歩行と言う行動が、どれだけ多くの筋肉を使っていたのか、今回の旅行でよく分かった。

また、10kg程度の荷物を背負って50km歩いただけで、一般的な女性はこのありさまだ。出発前に調べた自衛隊員は、50kgの荷物に100km歩く。やはり、日ごろの訓練は伊達ではない。

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