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「辞書になった男」を読んで

「辞書になった男」 ケンボー先生と山田先生 佐々木健一著

どなたかのnoteで見知ってこれはぜひ読んでみたいと手に取った本
三省堂国語辞典の編集者・ケンボー先生こと見坊豪紀けんぼうひでとし氏と
新解明国語辞典の編集者・山田先生こと山田忠雄氏の友情そして決別にいたるまでのノンフィクションである。
ノンフィクションであるが、謎解き的な要素は物語としてもどんどん引き込まれていく。

言うに及ばず辞書界の2代巨匠である。
もともと三省堂で明解国語辞典をともに作ってきた二人、それを新明解の中にある独特の語釈や用例から端緒を開き、それに加えての丁寧なインタビューから決別までを紐解いていく。

お互いの辞書に中にある用例が初めは謎なのだが、その謎が徐々に解き明かされていくスリルはミステリー小説にも負けていない。

元々、「辞書はかがみである」と客観的な姿勢を崩さないケンボー先生と
かたや、「辞書は文明批判」と据える主観的な姿勢の山田先生。
決別は必然と思えるが、その裏には密かな画策もあったことに驚く。

よく言葉は海にたとえられて、その海への舵取り役としての船が辞書なのだという。「言葉の海へ」「舟を編む」等
ケンボー先生は「ことばは音もなく変わる」と言う。
ことばは常に変化し続けていくという現実直視。それはことばは更に掴んだ瞬間に流れ落ちる砂でもあると、そして刻々と変わる砂漠の風紋のようにみるみる姿を変えていくと筆者は言う。

対して山田先生は「言葉とは不自由な伝達手段である」という言語観を持つ。
同じことばであっても文脈や状況によって”意味”は簡単に変わってしまう。
せっかく自分の意思を伝えることばというものが、ことばを尽くせば尽くすほどその本意がうまく伝わらないというジレンマは多々ある。
ことばによって伝達が遮断されてしまうという相反する事態。。。

筆者は、ことばという実態のない力に旧約聖書の「バベルの塔」を引き合いに出す。古代人間は一つのことば(言語)を話していた。人間はことばをつかって意思疎通をはかり協力すれば、天国へ続く塔の建設も可能だと考えた。だが、うぬぼれた人間たちに神は罰を与えた。それは元々一つだったことばを、地域や民族によって変えた。ことばという便利なものが、人間の意思疎通を妨げるという皮肉な罰だった。こうして人間は混乱に陥り塔の建設をやめて世界各地に散らばったのだ。
これはことばというものの本質を語っている点で出色の喩えなのだと語る。

二人の50年に及ぶ辞書人生を駆け抜けたこの物語に、言葉によってあぶりださる現実世界を改めて認識する。
言葉は使う人間や使い方によって、天使にも悪魔にもなりえる。
二人の別れを思う時、言葉のデリケートさとその奥深さに身もだえするような感覚に陥る。

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