R_B < Part 5 (3/7) >
霞がリビングに戻ってきたのを見て、芥が弾かれたように立ち上がった。
時計は19時を指している。
「どうですか?先生」
「余程気が張ってたんだろうね。点滴と処置で少しは安心してもらえたようで、今は眠ってるよ」
「結構、時間がかかってたみたいですけど……」
「うん。事前に教えてもらっといて良かったよ。やっぱり右上腕は怪我をしていた。それで、近所に薬局はあるかい?」
「あります」
「OK。そうしたら処方箋をここで出そう。飲み薬だ。痛み止めと化膿止め」
「……そんなに酷い怪我を?」
芥の顔が曇る。そんなに心配しなくて良いよと、霞は笑った。
「念のためだ。傷そのものは大きくなかったし応急処置もしてあったけど、時間が経っていたからね」
「応急処置……それは、“ここ”に来る前ですか」
「ああ。そう言っていた」
芥は急いで、あの時の記憶を呼び起こす。どこで受けた傷なのか……ドッグファイトの前……逃亡……その前は。
「山吹君」
霞が、芥の意識を引き戻した。ハッと顔を上げた彼の右肩をポンと叩いて落ち着かせる。
「あ……はい」
「また彼とゆっくり話す時間を取ったら良い。今日明日とは言わないから……慌てない事だね、こう言う場合は」
「わかりました……ありがとうございます」
「あ、治療終わったんですか?先生」
彩が小ぶりのトレーを持って入ってきた。コーヒーの香りが室内に広がる。
「だいたいね。後は点滴の終了待ち」
「ありがとうございます。良かったら、召し上がってください」
「ああ、ありがとう。丁度小腹が空いてきたところなんだ」
勧められるままに、霞はコーヒーとカナッペに手を伸ばした。
「これは美味い。ワインが欲しくなる」
「ありがとうございます。今度はぜひゆっくり来てくださいね!」
「嬉しいお誘いだね。楽しみが出来た」
微笑んでコーヒーを一口飲むと、霞は芥に通院の件を切り出す。
「それで、彼の右腕の怪我の事なんだけど。出来れば数日フォローさせてもらいたいんだ」
「え、統クン、他も怪我してたんですか?!」
「ちょっとね。大した事は無いよ」
彩には詳細を伝えないほうが良いだろうと、霞は軽く返した。
「手当ても済んでるけど、やっぱり清潔の保持がね。数日、診療所まで来てもらえると助かる。昼過ぎなら待たせずに処置出来ると思うんだけど、どうだろう?」
2人は顔を見合わせ、頷いた。考えている事は同じだ。
「明日と明後日は、彼は仕事なので。私が付き添いしても良いですか?」
「勿論だよ。すぐ隣がスーパーだから、ついでに買い出しもお薦めだ」
「そうなんですか?それなら私も助かります」
効率重視の彩の言葉に苦笑しながら、芥が付け加えた。
「3日目は俺が付き添います。どうでしょうか?」
「完璧だね。3回来てもらえれば僕も安心だ」
予定が決まったところで、霞が手書きの処方箋を芥に渡す。
「そうしたら、これをお願いするよ」
「はい。行ってきます」
「悪いけど、僕は点滴が終わるまで、もう少しゆっくりさせてもらうね」
「勿論です、寛いでください。彩、よろしくね」
「うん。行ってらっしゃい」
上着を羽織り、芥は家を出た。
(あれだけの時間と化膿止めが必要な怪我……統、辛かったんじゃないだろうか。それに……一体何があったんだ、あの時)
車のエンジンをかける。記憶の巻き戻しが、彼の中で再び始まっていた。
-------
薬の受け取りに手間取ったため、芥が帰宅した時には霞はもう居なかった。彩はキッチンでクリームスープを温めている。
「5分くらい前かな、先生が帰られたのは。入れ違いだったわね」
「対応してくれてありがとう……それ、統に?」
「うん。薬を飲む前に、少しでも食べ物を胃に入れるようにって言われたから」
「そうだね。スープなら口当たりも良いだろうし」
「もうすぐ出来るから、持ってってあげて」
「わかった」
既にテーブルの上に用意されていた夕食をつまみながらスープの出来上がりを待った。いつもなら『行儀が悪い』と小言を言う彼女も、今日は大目に見てくれる。
「お待たせ。そしたらこれ、よろしくね」
「ありがとう」
スープカップと薬を乗せたトレーを持つと、統のもとへ向かった。ノックし、一呼吸置いてからドアを開ける。
「入るよ。どう?気分は」
彼は起きていた。布団の上で、膝を抱え込んでいる……ゆっくりとこちらを向いた瞳が、僅かに澱んで見えた。
「夕方よりずっと楽だ。点滴ってすげーな」
言葉と裏腹に抑揚の無い声。倦怠感のせいだけではない。
「それなら良かった……そうしたらこれ、スープ。少しでも良いから腹に入れて。その後で、この薬な。先生が出してくれた」
「……ああ」
素直にスープを飲む。最初の一口で『美味いな』と呟いた以外は終始無言だった。それでも食欲は戻りつつあるようで、カップは程なく空になった。
「全部いけたな」
「サンキュ……ホント、美味かった」
「彩に言っておくよ。彼女も喜ぶ」
空になったカップと引き換えに、芥は薬と水を彼に渡す。
「ほら」
「うん……」
受け取りはしたが、統は一向に飲もうとしない。じっと自分の手もとを見つめている。
「……芥」
ややあって口を開いた。
「ん?」
「何も聞かねーのか」
俯いたまま。
「……」
勿論、聞きたい事は沢山ある。この数10分間で考えた仮説を確かめたいとも思う。だがそれらはいずれも、彼を追い詰めてしまうような気がした。
[……慌てない事だね]
霞のアドバイスを思い出し、芥は穏やかに言葉を返した。
「話したくなったらで良いさ。まずは怪我を治して元気になることが先。な?」
-------
「どうだった?」
「ああ、昨日よりもだいぶマシって言われた。明日ラストで大丈夫だってさ」
「そっか、良かったわね!」
通院2日目になり、統の体調も復活してきた。元気になれば思考もポジティブになってくるようだ。夕食の買い出しをしながらの会話も弾む。
「芥の入院中も思ったんだけど、霞先生はホントに腕が良いのよ。オールマイティ。しかも優しいし、格好良いし」
「ちょ、そんな事まで言って良いのかよ」
「え、何が?」
「だって、あんたには芥がいるじゃねーか。その……だだ、だ、ダンナだろ」
「やだ、何でそこでキミが照れるのー」
コロコロ笑いながら彩は手際良く食材をカゴに入れていく。
「確かに彼も優しい人よ。でも特にそう感じるようになったのは、統クン達の世界から戻ってきてから。それより前は……何て言うのかな、どこか危なっかしいところがあったって言うのかな。私なんか何度も『こんなんで生きていけるのかな、この人』って思ったわ」
「へぇ……」
そう言えば仁の説明に全くついていけずにボケっとしてたな、あんな感じかなと、31での初顔合わせを思い出した。だがそれ以外で覚えているのは、死と隣り合わせの日々を共に生き延びようと必死になっていた姿ばかりだ。
あれが、“ついこの前”の事……。
「統クン?」
遠くで自分を呼ぶ声がした……いや、違う。
今、自分が居るのは。
「大丈夫?気分悪い?」
彩の声が、隣から。
「ああ……大丈夫。ちっとぼんやりしちまった」
ゆっくりと意識が身体感覚にシンクロする。『心配ねーよ』と笑って見せれば、彼女もホッとして笑顔を返してくれた。
「無理しないで、何でも遠慮無く言ってね」
「サンキュ。それよりさ、あいつ何の仕事してんだ?」
彼女との会話に重苦しい空気は要らない。統は話題を変えた。
「昨日も結構遅くに帰って来てたし、今朝は俺が起きた時はもう居なかっただろ」
「確かに、時間は不規則ね。ちょっと特殊な仕事ってせいもあるけど」
「特殊?」
「うん。一応の肩書きは“会議コーディネーター”なんだって」
「……何ソレ?」
聞き慣れない言葉に目をぱちくりさせる。
「ホントは、私もよくはわかってないんだけど」
言いながらも、彩は知っている限りの事を説明した。
「色んな国で、国際会議って言うのが開かれるの。それはこの国も一緒。会議のジャンルは色々で、芸術家が集まるのもあれば、社長さんとか偉い人ばかりが来るものとか、本当に色々なんだって」
「うん」
「で、とりあえず国際会議って言うくらいだから、海外からも色んな人が集まって来るわけ」
「人数、多そうだな」
「そうね、大きな規模だと1000人以上の人が集まるって言ってた。そうすると裏方さんはそれ以上に沢山必要になるでしょ?
で、彼はその裏方さんの1人。会議の道筋を作る係って言ってたわね。会議の主催者さんと打ち合わせしたり、参加する人や講演に出てもらう人を集めたり、広報活動とかもするって言ってたわ」
「……へー」
さっきとはまた違う溜め息が出た。内容はよく解らないままだが、なかなかスケールの大きい仕事だと言うのは理解した。
「でも芥に合ってるって感じだよな。あいつ他国語喋れるんだろ?」
「そうなの。会議の時には同時通訳とかも必要になるから、結構駆り出されてるみたい」
「そりゃ大変だな」
「でも会議の無い日とかは、通訳ガイドで参加者さんと一緒に観光に出かけたりする事もあるんだって。で、お昼を奢ってもらうとかね。その辺は上手い事やってるみたい」
ちゃっかりさんなのよ、と笑う彼女に釣られて統の顔にも笑みが浮かんだ。
そう……ここが、芥のいるべき世界。
(戻れて良かったな、ホントに)
芥は決してリーダータイプではない。しかし、人と人を繋いでいく能力は誰にも負けない。それは半年間、ずっと一緒にいた統にはよく分かっていた。
争い傷つけ合うためでなく、互いの理解を深め、繋がりを作るために言葉を操る……これが、彼の本来の姿。
-------
この日の夜も、芥はなかなか帰って来なかった。だが明日は休みだから急ぐ必要も無い。夕食後にのんびりとしている彩に倣って、統もリビングで寛いでみる事にした。
ラックに入っていた雑誌を手にしてみたり、テレビ番組を眺めてみたり……と、合間にどこからか水音がするのに気付いた。
尋ねれば、ここ数日キッチンの蛇口レバーから水漏れしていると言う。
「そんなに難しい修理じゃないんだけどね」
「芥はやってくんねーのか?」
「やらない訳じゃないけど、こう言うDIY的な事には腰が重いのよ。不器用だからって」
苦笑する彼女を見て、彼は思うより先に言っていた。
「俺、やろっか。今までも機械整備とかやってたから、こういうのは得意中の得意なんだ」
「腕は大丈夫なの?」
怪我の具合を心配する彼女に、統は『それくらいなら全然平気』と笑って返す。
「どーせ時間もあるし。良ければちっとやらせてくれよ」
「ホント?ありがと、助かっちゃう!!」
「道具は?」
「あるわよ。確かひとまとめにしてあった筈……待っててね、見てくるわ」
ホント助かるわ!ともう一度言って、彼女は納戸に向かった。統にしてみれば本当に簡単な作業だが、役に立つのなら嬉しいものだ。
「……あれ、統?何やってんだ」
修理を終え、道具を片付けているところに芥が帰って来た。蛇口を直したと返せば『それなー』と、少しバツの悪い顔になる。
「彩に言われてたんだけど、ついつい後回しにしちまってて」
「このくらい構わねーよ、あんただって毎日忙しいんだし。俺もそろそろ何かやんねーと身体が鈍っちまうからな……よっしゃ、確認してくれよ」
言われて直ったばかりのレバーを動かせば、キュッと気持ちの良い音が響いた。
「サンキュ。腕はどう?」
「おかげさんで順調。通院も明日まででOKだってさ」
「そうか、良かった」
我が事のように喜び、芥は彼の肩をぽんぽんと叩いた。
その笑顔に、心がチクリと痛む。
[……君の事をとても心配している]
霞は、芥に傷の内容を伝えていない、それは間違いなかった。
だが彼の事だ、自分の怪我を知った時からその原因を考えているに違いない。
(余計な心配はかけたくねーけど……もう散々、迷惑かけちまってるよな)
何も話さないでいるのは、結局自分のエゴなのか……『話したくなったらで良い』と言ってくれた彼に甘えてるだけなのかもしれない。
[君が彼の立場でも同じように思うのかな]
黙っている事で、彼を傷つけているとしたら。
[『知りたくなかった』と悲しむんだろうか……]
「……芥」
「ん?」
「後で、部屋に来てくんねーか?急がねーからさ……話してぇ事があるんだ」
-------
芥がやって来た時には、日付が変わっていた。
「ゴメンな、遅くなって」
「いや、あんただって疲れてんのに……彩さんは?」
「もう休んでる。大丈夫だよ」
ヨイショと腰を下ろし、芥は両手に持っていたマグカップを一つ彼に渡した。立ちのぼる仄かな柑橘系の香りに心が解けていく気がする。統は香りを吸い込むように大きく息をつく。
長い沈黙の後、一旦手にしたマグカップを横に置いて統は漸く口を開いた。
「あの、さ……呼んどいてすまねーけど……先に聞きてぇ事があるんだ」
「良いよ。何?」
何から話せば良いのか考えあぐねているようだったが、それでもぽつりぽつりと話す彼の言葉を、芥は一つひとつ受けとめていく。
「……F国に飛んだ時の事、未だ覚えてるか?」
「ああ。全部とは言い切れないけど」
3年前……統の中では僅か数日前の、あの出来事。
「あの時、あんた……黄丹に捕まってたんだよな?」
「そう。誠が助けに来てくれたんだ、それでお前と仁とも合流出来た」
俺の記憶、合ってるよな?と問えば、統は小さく頷いた。
「そう、あいつがあんたを助けに行った。それで……そン時、何か聞かなかったか?」
「何か、って……誠から?」
「ああ」
芥は細い記憶の糸を手繰った。
青褪め、切羽詰まった表情の誠……あの時、彼は何と言ったのか。
「確か……」
逃亡を決意する決め手となったのは。
「黄丹が死んだ、って」
瞬間、統の全身が大きく振るえる……それを見た芥の中で、全てのピースが揃った。
彩が手当てをした時、腕を見せなかった。
買い出しの時も、痛みを耐えていたのだろう。
そこまで腕の傷を隠そうとした理由は。
「……黄丹にやられたんだな?その腕」
問えば、彼は観念したかのように力無く笑った。
「やっぱ……一発でバレるよなー。さすが芥」
芥は確信した。自分を助け出す為に、彼等は……。
「まさか、お前が黄丹を?」
「いや、その前にヘマしちまって撃たれたんだ……情けねー話だけどさ」
語尾が震えそうになるのを必死で堪え、統は話を続ける。
「俺がラボに入った時には、ヤツが誠を殺ろうとしてた……でも俺じゃヤツを止められなかった」
「それなら、仁か」
確認のための一言。統は再び頷き……遂に芥の視線に耐えきれずに顔を背け、ぎゅっと目を閉じた。
「腕の事を言ったら、ヤツとやりあった事も話さなきゃなんねーって解ってたから……そんな事言ったら、あんたを傷つけちまうんじゃねーかって思って……言えなかった。ホントは……そんなんじゃねーのにな」
あの時も、何も出来なかった。そんな自分を認めたくなくて、芥を理由にして現実から逃げていただけ。
「ヤツだって、俺が一発で殺ってりゃ仁の手を汚させる事も無かったんだ。なのにこのザマで……」
言葉が途切れる。自分が心底情けなかった。
「……すまねぇ」
芥の怒りを覚悟し、統は正座した膝の上で拳を握りしめる……だが。
「……馬鹿野郎」
返ってきたのは、罵倒と言うにはあまりにも弱々しい声だった。
「え……」
困惑する間もあらばこそ。
統は彼の腕に抱え込まれた。
「だったら謝らなきゃいけないのは俺のほうじゃないか。俺が原因で、皆を危険に晒す事になっちまったんだから」
思ってもいなかった彼の言葉……違う、そんな事を言わせたかったんじゃない。
「……ンなワケ無ぇ!」
ぐ、と芥の肩を掴んで引き剥がす。
「あんたが31に来てくれたから俺は……俺達は救われた。あんたが、敬の事を信じる気持ちを、俺達にくれた。希望をくれた。だから踏ん張れたんだ。あんたが謝る事なんか、ひとっつも無ぇ!」
必死だった。この言葉にだけは嘘は無いと分かってほしかった。
視線がぶつかり、長い沈黙が流れる……そして。
「……俺も同じだよ」
芥に笑みが戻った。
「皆のお陰で、俺は希望を捨てずに済んだ。そして生き延びられた。別の世界に跳んだ時だって、皆が必ずどこかで生きていると信じていたからこそ頑張れたし、今こうして自分の世界で暮らせてる。この幸せをくれたのは、君たちだ」
「……」
「ありがとう。お前にも、皆にも、どれだけ感謝しても足りないよ」
無言のまま……だが統の瞳からは、いつの間にか涙が溢れていた。
「ありがとう、統」
「……っあああ!!」
繰り返される感謝の言葉に、彼は突如、声をあげて泣きだした。
常に焦燥感に駆られ、生き延びるだけで必死だった日々が脳裡を過ぎる。なのに心から湧き上がってくる想いは、自分でも信じられない程に満ち足りていた。
それは芥への、そして仲間達への感謝の気持ち。
ずっと自分の小さな殻を守るのに必死だった事を彼は恥じた……だがその何倍も、皆の優しさと友情が身に染みた。
「ありがと……ありがとう……芥!」
今までどうしても言えなかった一言が自然と口を突いて出た。抑え込んできたあらゆる感情が、一気に堰を切って流れ出す。だが統は、もうそれらを制御する術を持たなかった。
(ありがとう……みんな!)
何度も『ありがとう』を繰り返しながら、彼は小さい子どものように泣きじゃくる。そんな彼の背中を、芥はあやすようにぽんぽんと叩いてやった……彼が泣き疲れて眠りに就くまで、ずっと。
「俺のほうこそ、ありがとな。本当に、また会えて良かった……」
20130401-0430-20190426-20210822
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?