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来たれ同朋、約束の地へ:SideA

 私の記憶にある あの場所は
 灰色に霞んで薄暗く沈殿している

 父の仕事の関係で2年だけ住んだ街
 とりたてて楽しい思い出も無く
 通った小学校でも友達らしい友達はいなかった

 ただ 一人
 夕方の 学校近くの公園で
 必ず遊んでいた男の子
 その子の事は たびたび思い出す

 一緒に遊んだわけでもない
 むしろその逆

 一度だけ『遊ぼう』と声をかけた時
 その子は怯えと怒りの混じったような顔をして
 『あっちへ行け』と砂場の砂を投げつけてきた

 砂は風に煽られて目に入り
 私は泣きながら家に帰った


 その目の痛みだけは 鮮明に覚えている


++++++ SideA: 進み過ぎた地点 ++++++


「え、Q市ですか?」


 15年振りだわ、その名前を聞くの。


「そう。そこに面白い取組みをしてるマスターが居るって話なんだ」

「喫茶店でもされてるんですか?」

「だね。ちょっと駅からは離れてるそうだけど。エコとかオーガニック?みたいな事なのかな、僕は全然分からないけど」

「はぁ」


 住所を地図で調べれば、確かに周囲には畑とか川とか、果樹園まである……それがその人のものなのかは分からないけど。


「ついでに民宿もやってるそうでね。ということで、取材してきて。1週間あげるから」

「1週間も?」


 思わず聞き返した。だって長すぎ。Z県まで日帰り取材させられた事だってあるオニ上司なのに。

 絶対何かウラがある。


「しばらく休めてないだろ。長期休暇って事で、どう?」

「はぁ」


 どう兼ねろって言うのよ?気分的には全然休めないでしょそれ。おまけにこれを長期休暇にするって事は、この後は少なくとも年内まとまった休みなんて無しって事よね。

 ……それでも、1週間はこの環境からオサラバ出来る訳だし。


「じゃあ、とりあえず行ってきます」

「ああ、よろしく」


 上司から手渡された資料と取材道具を持って、私は速攻で事務所を後にした。今日も期間の内に入ってるんだから、ぐずぐずしてらんないわ。


--------


「……すっかり変わってるわ」


 お茶の時間になる前に、Q市に着いた。途中まで特急で、そこから鈍行に乗り継いで片道3時間。記憶だともっと田舎のイメージがあったんだけど、そりゃ15年も経てばね。近くなったモンだわ。

 予約した宿のチェックインには余裕があるから、観光と言う名の取材を始めた。
 駅前で1時間、宿の近くまで移動するのに、バスなら30分。そこでまた写真を撮りながら宿に着く。よし、完璧。

 まずは駅の外観をファインダーに収めて。


「何食べよっかな」


 腹が減っては何とやら。という事で、以前他の雑誌に掲載されてた駅前のレストランに入る……あれ、ここ内装変えたわね?


「そう。半年ほど前になるんだけど、ある人からアドバイスもらって改装したんだ。言ってもちょこっとなんだけど、随分印象が変わるモンだね」

「ある人って?」

「市内で喫茶店と民宿やってるマスターなんだけどね」


 びっくり。ドンピシャじゃない。


「そうなんですか?私、今日はその民宿に泊まるんですよ」

「そうなの?一人旅であそこに泊まるなんて珍しいねえ」

「まあ、取材も兼ねているので」

「あーなるほどね。そんなら正解だ」

「正解?」


 アイドルタイムで暇を持て余していたらしい店長の目がキラキラしてきた。絶対、気のせいじゃない。


「そう。彼はサッと来てすぐ帰るような奴の取材は受けないんだ。最低でも2泊はしろ、一通り体験しなきゃ何も喋らない、ってね。オマケにしっかり宿代も取るから色々言われるんだけど、本人はドコ吹く風」

「……はぁ」


 面白いかどうかは分かんないけど……ちょっと変わってるわよね。ていうかあのオニ上司、そこまでちゃんと分かってたのかしら?


「ま、変わり者だけど偏屈って程でもないから。普通に旅行気分で泊まりゃ大丈夫だって」


 よっぽど私、妙な顔をしてたみたい。店長が慌ててフォローを入れてくれた。


「そうですか?」

「そうそう。で、何泊の予定だい?」

「3泊です」


 せっかくだから、後半はもう少し遠くまで足を伸ばそうと思ってるし。


「それだけあれば大丈夫だ。取り敢えず、初日は写真を撮ったりインタビューみたいな事もしたらダメ。普通に寛いでおいた方が良いよ」

「写真もダメなんですか?」

「駄目ダメ!それやっちゃうともう絶対、取材させてくれないから」

「はぁ」


 十分偏屈じゃないの?予約した時にきちんと取材希望だって事も伝えてある筈なのに……でも、こうして前情報をもらえたのは有難いわ。真っ直ぐに行ってたら確実にアウト。


「分かりました。教えて頂いた通りにします」

「頑張ってね。あ、間違わないでほしいんだけど、仕事には本当に誠実な人だから、俺としても彼を応援したい気持ちは十二分にあるんだ」

「あ、そうなんですね」

「そうそう。それに、君みたいな人に紹介してもらえたら本人も嬉しいと思うんだよね。だからついつい言っちゃったんだけどさ」


 店長も、誰にでもベラベラ喋ってるって訳じゃないのかな。


「ありがとうございます。頑張ってきます……それにしても店長、良く知ってらっしゃいますね。マスターの事」

「取材に行く人行く人が直ぐに追い返されて来て、ここで愚痴言いまくってくれるからね。それで俺も十分、マスター通になるよ」


 お礼言いついでにちょっと水を向けてみたらそんな言葉が返ってきて、お互い何となく、顔を見合わせてニカッと笑った。


「もうちょっとしたら休憩時間で店を一旦閉めるから、民宿まで送ろうか?」

「いえ、途中で寄って行きたい所もあるので」


 気持ちだけ有難く頂いてお店を出る。バスは……あー本数少ないわ。タクシーに乗ろうっと。


--------


「あと5分くらいで着きますよ」


 運転手さんがそう教えてくれた時、左側に見覚えのある建物がちらりと見えた。


「あ、すいません。ここで停めて下さい」


 降りてみれば、それは間違い無く私が通った小学校。
 この近くだったのか、民宿って。


「じゃあ、ここから歩いて行こっかな」


 運転手さんにお礼を言ってタクシーを降り、歩き出す。
 私がここに居たのは小学校の2年生から3年生の間だけ。微かな記憶を辿りながら歩いて行く。


「思い出なんて殆ど無いのに……ちゃんと、懐かしいのねー」


 思わず苦笑。別に当時、誰かに虐められたと言う訳でも無いし、みんな優しかったような気がする。だから特に嫌な思い出も無いんだけど。


「あの時のクラスに居たのって、確か……」


 並木の向こうに見える小学校を見遣りながら思い出す。私に話しかけてくれた人、クラスメイト、そして先生……あれ?


「うそ」


 気付けば道ばたで立ち尽くしていた。夕焼けに染まる目の前の景色が、一気に色褪せて行くような感覚を覚える。


「何で……一人も思い出せないの?」


 確かに子供の頃の記憶なんて曖昧だけど、この街での記憶だけこんなに薄いっておかしくない?確かに友達って呼べる子は居なかったけど、こんなに誰の事も思い出せないなんて。

 風景は確かに見覚えがあるのに。


 ……きぃ、きぃ、という音が私を現実に引き戻す。音の方向へ首を巡らせると、小さな公園が目に入った。気付けば周りの風景も少し変わっている。ぼーっとしたままふらふら歩いてたみたい。あっぶなーい。

 その公園は、植え込みや花壇は綺麗に整備されてるけど、遊具は古びたものが数個しかなくて、しかもペンキが剥がれていた。もう、あまり子供の遊び場としては使われてないみたい。

 でも、そこに小学校の低学年らしい男の子が一人、いた。ブランコに乗っている……さっきから聞こえていたのはこの音だったのね。


「え……」


 その子の横顔が見えた瞬間、私は息をのんだ。
 一番の理由は、その子に見覚えがあったからなんだけど。


『あっちへ行け』


 15年前。私がこの街に住んでいた時、いつも公園で一人で遊んでる男の子がいた。声をかけたら砂を投げつけられた。


(あの子だ)


 間違い無い。あの時の男の子。

 その時、男の子がこっちに気付いた。少し慌てたように両脚でブランコを止める。ちらっと見えたその子の目は赤くて、今まで泣いていたんだって分かっちゃったのよ。


「どうしたの?」


 だから、自然と声を掛けていた。


「……」


 その子は黙ったまま、じっと地面を見つめてる。その姿が余りにも寂しそうで、放ってはおけなかった。


「隣、座って良い?」

「……」


 何の返事も無いならOKって事よねと内心で言い訳を呟き、隣のブランコに腰を下ろした。本当に久しぶりに乗ったブランコが懐かしくてゆっくり揺らす。
 その様子を見て少し警戒心を解いてくれたらしいその子も、突っ張ってた両脚をぶらぶらさせ始めた。


「キミ、この近所に住んでるの?」


 泣いてた理由なんか聞いたら失礼よね。だから普通にお話してみる。未だこっちを向いてはくれなかったけど、俯き加減のまま答えてくれた。


「……うん」

「ずっと?」

「ううん。2ねんせいになってから」

「今、2年生なの?」

「うん」


 じゃあ、引っ越して来てから未だ半年も経ってないのかあ。

 友達が居ない寂しさ、未だ知らない場所ばかりの街に居る心細さ……そんな感覚がじわりと私の心に蘇って来た。
 明らかに夏とは違う温度の風が吹き抜ける。思わず身震いして顔をあげれば、夕闇が迫っていた。


「お家に帰らないの?お母さんも心配してるでしょ」

「……お母さん、いないよ」


 あ、悪い事聞いちゃったかな……。


「お父さんは?」

「いる」

「お仕事してるの?」

「うん」

「そろそろ帰って来るんじゃない?」

「ううん、お家にずっといる」

「お父さんはお家でお仕事してるの?」

「うん」

「忙しいのかな?」

「うん。いつもいそがしいよ」

「そっか。じゃあ私が送っていってあげる。ね?」


 そう言って手を差し出せば、その子は初めてこっちを向いて、ほんのちょっとだけ笑ってくれた。少し恥ずかしそうだったけど、それでも手を繋いでくれたから、私もホッとしながら歩き出す。


「お家、どっちのほう?」

「あっち」


 あ、同じ方向。


「良かったー。私もそっちの方に行く所だったのよ」

「ふぅん。おねえちゃんのお家もこっちなの」

「ううん、実は他の所から来たの。旅行なんだ」

「じゃあお父さんのトコにとまるの?」


 お父さんのトコ?


「えーっと。キミのお父さんのお仕事って、何?」

「お家でお店やったり、みんしゅくしたりしてるんだ」


 あらま。
 調べた限りでは、この付近での宿は一軒だけ。念の為と民宿の名前を聞けば、大当たり。


「そうだったんだ。じゃあ『お世話になります』って言わなきゃね」

「うん。『ようこそおこしくださいました』、おねえちゃん!」


 途端に営業モードになるところが可愛らしいわ。看板息子なんだろうなあ。


「そしたら一緒に帰ろっか」

「うん!ごあんないいたします!」


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 他愛無いお喋りをしながらのんびり歩いて、それでも10分程で民宿に着いた。そろそろ夕焼けも終わり、辺りは薄暗くなっている。結局、ちょっと遅刻だわ。

 『ただいまー!お客さんだよ!!』とその子がドアを開けながら到着を告げれば、程なくシンプルなエプロンをした男の人が現れた。

 えーと……ちょっと強面?


「いらっしゃい」


 ぼそっと言うと、無表情だった顔がへにゃりと崩れた……あ、笑ってくれたのかな。


「あ、どうも。お世話になります。遅くなって申し訳ありませんでした」

「いえ。今日のお客さんは貴女一人ですから、どうって事無いですよ」


 荷物持ちますよと言われ、素直に渡せば(何となく断れない雰囲気があるし)『こちらです』と部屋に案内される。階段を上ってすぐの部屋に通されると、直ぐにあの子が熱いおしぼりとお茶を持って入って来た。


「どーぞ、おねえちゃん!」

「わ、どうもありがとう」

「何だ、今日はえらくサービスが良いな、杏」


 言うとマスターはその子の頭をぐりぐり撫でながら、


「杏がお世話になったようですが?」


 と、私の方に向き直る。


「どんぐり公園で、いっしょにブランコこいでたんだ」


 私が言う前に、そうはさせじの勢いで杏くんが答えた。


「公園で?」

「うん」

「『手入れ』はサボらずにやってきたか?」

「うん。そのあとでブランコしてたんだもん」

「そうか」


 言いながら、よしよしという風に彼の頭を撫でてあげると、マスターはこっちに『夕食の時間はどうしますか?』と確認してくる。


「あ、予定通りでお願いします」

「分かりました。そうしたら、1時間後で。良いですか?」

「はい」

「では、時間になったら下に来て下さい。今上がって来た階段ではなくて、そっちから降りてもらえば良いですから」

「あ、はい」

「ぼくも、おねえちゃんといっしょに食べていい?」


 横から杏くんがそうっと尋ねてくる。マスターの右の眉だけが『ん?』と問いた気にピクッと跳ねたから、杏くんが怒られちゃうんじゃないかと思った私は慌てて言った。


「あの!私も出来れば……その、杏くんと一緒にご飯を頂きたい、です」


 『あの』って言った時点でマスターに正面からじっと見られて、ついつい語尾が小さくなった。何か……蛇に睨まれた蛙の心境?

 そのまま沈黙が15秒くらい続いて。


「良いんですか?」


 もう一度、確認された。


「はい」

「分かりました。杏、そしたら夕食は一緒に食べよう。その代わり、それまでに全部の鉢植えの世話をしておくんだぞ」


 言いながらマスターが頭をぽんぽん撫でてやると、彼はぱぁっと弾けるような笑顔になった。


「はい!じゃあおねえちゃん、あとでね!」

「うん、お世話頑張ってね」

「はぁーい!!」


 言うなり、杏くんは部屋から飛び出して行く。


「……しょうが無い奴だな」


 そんな彼を見送りながら、マスターはまたへにゃりと笑った。


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 1時間後、教えられた通りに降りて行くと、その階段は喫茶店の奥のスペースに直通になっているのが分かった。っていうか、喫茶スペース自体は割とちっちゃいのね。

 奥は板の間。今はその一角が掘りごたつ形式になってて、今日の夕食が所狭しと並んでいた。ちょっとぺたんこになった座布団に腰を下ろすと、直ぐに杏くんがグラスを持って来てくれた。

 梅酒かしら?


「おまたせしました!」

「どうも有難う」


 グラスを受け取りながらそう返すと、彼はエヘヘとはにかむ。


「ほら、杏。後はこれだ」

「はーい」


 キッチンからマスターが呼べば、杏くんは再びとたとたと走って行った。戻って来た彼の両手には丸いトレー。載ってるのは二つのグラス。


「それはなあに?」

「えとね、こっちがリンゴジュース。こっちはお父さんのリンゴのおさけ」

「へぇ」

「おきゃくさんが来るとね、お父さんはおきゃくさんとかんぱいするんだ」

「せっかく来て下さった訳なんで、せめて乾杯で感謝の気持ちをと思いまして」


 威勢良く湯気の立つ土鍋を手に、マスターが杏くんの話を引き継ぎながらやって来た。テーブルにそれを置きながら『ほら、ちゃんと座れ』と杏くんに声を掛ける。


「確かに、マスターと乾杯出来るのって客としては嬉しいです」

「それはどうも」

「杏くんが給仕してくれるのも、可愛くて和みますね」

「……いや、それなんですが」


 へにゃりと愛想を崩していたマスターが、僅かに眉を顰めてぼそりと呟く様に言った。


「この子が自分からお客さんのお相手をするなんて、初めてなんです」


 ……その場で『それどういう事ですか?』なんて聞けない。本人居るし。
 彼の『かんぱーい』の声に調子を合わせて、夕食はどうにか和やかな雰囲気で終える事が出来たけど。


「……ごちそうさまでした」

「おかわりもういいの?おねえちゃん」

「うん、もうお腹一杯よ。ありがとね」

「杏、そしたらお茶を持って来てあげなさい」

「はぁい」


 いそいそとキッチンへ向かう後ろ姿は、とても今日が初めての様子には見えない。


「ホントに、いつもは全然お客さんのお相手はしてないんですか?杏くん」

「そうです。勿論、あの子の歳でも出来る挨拶と対応くらいは一応教えてましたし、出迎えとお茶運びくらいは手伝わせてましたが、私が言わないとやらないですからね」

「……信じらんない」

「私もびっくりですよ。まあ、日頃私がやっている事も、あの子なりにしっかり見ていたんだなと。成長出来てると分かったのは収穫です」

「子供は何でも直ぐに覚えて吸収しますもんね。特に男の子は父親の背中を見て育つって言いますし。良い息子さんですよね」

「そうですね。実の息子では無いんですが、自慢の跡継ぎですよ」


 時々、不思議な物言いするわねこのマスター……って、息子じゃない?!


「え?」


 そこで杏くんが戻って来て、話はまたも中断された。


「おまちどぉさまでした!ローズヒップのブレンドティーです」

「ありがとう。キミがいれてくれたの?」

「うん。天気がよかった日は、じょせいのおきゃくさんにはこのお茶を出すんだよ」

「こら、それじゃ説明不足だろう」

「はい。えーと……お日様にあたってつかれたおはだにはビタミンCがいいです!」

「随分端折ったな。まあ良い、後の片付けはやっておく。宿題まだだろう?早くやって寝なさい」

「はい!じゃあおねえちゃん、おやすみなさい」


 おやすみ、と返せば、杏くんはにっこり笑って手を振りながら奥へ消えていった。


「明日は裏手の畑を案内します。ゆっくり休んで下さい」


 そう言って片付けを始めたマスターはまた無表情になってたから、私はそれ以上何も聞けないまま部屋に戻る事になった。

 何だか引っ掛かるじゃない。
 もやもやするじゃない。
 こんなんで今夜眠れるかしら。

 そう思ってたのに、用意されたカモミールティーを飲めば直ぐに眠気がやって来て、日付が変わる前にコトンと眠りに落ちていた。


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 『いってきまーす』という声が遠くで聞こえて、あぁ朝だなと意識が浮上した。あれはえーと……そうそう杏くん。もう学校に行くのかあ。


(え、今何時?!)


 慌てて枕元の時計を見れば、まだ7時。朝食は8時と昨夜マスターに聞いたから、これからのんびり起きても十分間に合う。あーびっくりした。

 ホッとしたけど……早いなあ、杏くん。朝からクラブ活動って訳でも無いだろうし(まだ2年生だし)、どこか寄る所でもあるのかしら?


「……おはようございます」

「ああ、どうも。良く眠れましたか?」

「はい。こんなにすっきり起きれたのは本当に久しぶりです。何だか自分じゃないような昔の自分になったような、そんな感じで」


 本当に目覚めは良かった。だから素直にそう言ったのに、マスターはくるっと私に背を向ける。


「あの……?」

「いえ、良く眠れたんでしたら、それは……何よりで」


 途切れ途切れにそう返すマスターの背中がぷるぷると震えてるのがやっと分かった。


「マスター……笑ってるでしょ」

「いや、笑ってませんよ」

「じゃあ何ですかその揺れは」

「気のせいです」

「もう!」


 何だか悔しくて、手にしてたポーチを振り上げる。その気配を察したのかマスターはくるっとこちらに向き直った。


「いやいや、すいません……悪かった」


 今にも突っ掛かりそうな勢いの私を止めようと両手を前に出して宥めるような仕草をするマスターの、そのへにゃりと笑ってる目が予想と違ってとっても優しかったから。


「……え?」

「その元気は後にとっておいて下さい。朝食、出来てます。ごゆっくりどうぞ」

「あ、どうも」


 何だかそれ以上追求するのも馬鹿らしくなって、私は素直に食卓に着いた。


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 10時前になって、マスターが私を呼びに来た。昨日言ってた、裏手の畑を案内してくれると言う。


「カメラは持って行っても良いですか?」

「ああ、良いですよ。どうぞ自由に撮って下さい」


 昨日のあの店長の話があったからOKが出るかどうかちょっと心配だったのに、尋ねてみたらあっさりそう言われて何だか肩透かしを食ったような気分。
 でもそんな素振りを見せたらまたこっそり笑われそうで、何だか悔しかったから、ぐっとお腹に力を込めて平静を装った。


「ありがとうございます」

「いえいえ。はい、これ被って下さいね」


 渡されたのは麦藁帽。めちゃめちゃつばが広い。


「まだ日差しも強い。結構日焼けしますからね……うん、似合う」

「は?」


 その最後の一言が分からないわよ?マスター。


「じゃあ、行きましょうか……こっちです」


 そんな私の事などお構い無しで、彼はさっさと歩き出していた。


「最初に……そうですね、杏が世話をしてる鉢植えから見て頂きましょうか」

「あ、昨日夕食前に言ってらした」

「そうです。主にハーブですが。最近は一人前に寄せ植えなんてのも覚えましてね、なかなか良いセンスをしてる」


 麦藁帽からちらっと見えた右目は本当に嬉しそうに弧を描いていて。


「……自慢の跡継ぎです」


 昨夜のあの言葉をまた繰り返した。


「……」

「……貴女は以前、この街にいた事がありますよね」


 反応に困って黙ってた私に、マスターは突然そんな事を言う。


「え、どうしてそれを?」

「今朝、杏が教えてくれたんです」

「私、何か言いましたっけ……?」


 私の問いには答えず、マスターはぽつぽつと話を続けた。


「あの子は私の叔母の孫なんです。生来、人と話をするのが極端に苦手でしてね。この春から私と一緒に暮らしてるんですが、最近になってやっと学校にも行けるようになりました」

「そうなんですか?」

「はい。特に最初の1・2ヶ月は学校に行くなり飛び出してしまい、夕方まであの公園に居て一人で遊ぶ……そんな状態だったんです」


 昨日、一人でブランコを漕いでいた杏くんを思い出す……と同時に、15年前、やっぱり一人であの公園で遊んでいた子の記憶が蘇り、昨日の姿と重なった。

 怯えと怒りの混じったような顔で『あっちへ行け』と私を遠ざけた15年前のあの子と、目一杯大人ぶって『ようこそおこしくださいました』と笑顔で歓迎してくれた、昨日の杏くん。

 時間の経過が変よね。でも、昨日ひと目見た瞬間に『あの子だ』って思ったのは私。あり得ない事なんだけど、でも……。


「子供だった貴女は、そんな頃の彼に、あの公園で会った。そうですね?」


 私の戸惑いなんてドコ吹く風で、マスターはさらりと言い切った。


「えっと、多分。そうなんですけど……でもそれは」

「かなり前の事だと」

「……15年前です」


 どうにも先回りして話されてる気がして落ち着かないけど、だからって他にどうする事も出来ないから、すっかり会話はマスターのペース。


「それなら十分可能です」

「何がですか?」

「あの子はちょっと変わった能力があります。それが『跡継ぎ』の条件でもあるんですが」


 話があちこちに飛ぶから、一つもすっきりしない。なのにマスターの言葉に引き込まれて行く。


「能力?」

「そう」

「それはどんなものなんですか?」

「草木や動物と意思疎通が出来る事、そしてあの公園の手入れが出来る事」


 草木と意思疎通?動物とだったら、まだ何となく想像は出来るけど……。


「意思疎通と言っても実際に話す訳じゃない。お互いの思ってる事を感じ取れるという意味です。愛情込めて水やりをした花や野菜は元気に大きく成長する、なんて話を聞いた事はありませんか」

「あ、それは確かに時々聞きます」

「そう。だから動植物……つまりは自然界の物ですが、それらと交流する能力は本来、誰でも持ってるんです。個人差があるだけで……ああ、こちらが杏が担当してる場所です」


 言われて視線を巡らせれば、確かにそこはハーブの小庭。チコリにバジルにローズマリー、カモミール。あ、パセリやシソなんかもハーブよね、確かに。
 杏くんが一生懸命育ててるのが、こうして見るだけで伝わって来た。


「杏くんはその能力が飛び抜けてるという事ですか」

「そうですね。素質は十分です。ただ、未だコントロールが不安定なので、それを鍛えていかなければなりません」

「彼が跡継ぎという事は、マスターもその能力があるという事?」

「そう。私もここに7歳の時から住んでます」

「杏くんみたいにですか。マスターも誰かの『跡継ぎ』で、ここに居るんですか?」

「まあ、そうですね」


 陽光をいっぱいに浴びて如何にも元気そうな鉢植えのハーブを眺めながら会話は続く。私が立て続けに質問しても、マスターは嫌がらずに返してくれる。


「それは……ええと、この土地を継いでいるという事ですか?あの公園とか」


 何もしていなければ、どんぐり公園の辺りはとっくに宅地になってたと思う。実際、あの周辺はそれなりの住宅街に変わってたし。私から見たって条件の良い土地だわ。だから、あの公園の手入れが出来るのが条件なんじゃない?


「まあ、そんなトコですかね。半分くらい正解」


 麦藁帽の陰でマスターがまた小さく笑うのが分かった。だから何なのその笑い。こういうトコは意地悪よねぇこの人。


「あと半分は?」


 イラッとなりそうなのをこらえて尋ねてみた。
 するとマスターはゆっくり私のほうに向き直り、麦藁帽を取って恭しく一礼した。


「え……!」


 その仕草と連動するようにハーブ園の空気が一気に変わった……何て言ったら良いのか分からないけど、とにかく『うわっ』と変わった感じ。もちろん、初めての感覚。


「自然界の力を借りて、この土地の『時空バランスを保つ役目』を継いでるんです」


 顔を挙げてそう答えるマスターの雰囲気までもが違って見える。


「時空バランス……?」

「はい」


 眼差しの深さが増してる。怖い感じとかじゃないから良いんだけど、何か人間離れした、森の精霊みたいな……そんな感じ?


「……っくく……ハーブ達が皆で笑ってますよ」


 ぼぅっとしてたら、またマスターが肩を震わせて笑い出した。


「ハーブが?」

「ええ。『森の精霊にこんなゴツイのなんか居ない』って。酷い言われ様だ」


 元の雰囲気に戻ったマスターは涙目にまでなって笑って、でもとても嬉しそうに見えた。

 ゆらゆら笑いながら歩き出すマスターにつられてハーブ園の裏木戸を抜けると、なだらかな稜線を描く山を背景にして果樹園らしい樹々の集まりが向こうの方に見えた。
 その手前には広々とした畑。ピーマンや長なすは今が収穫期なんだろな。カラーピーマンも大きなのが沢山出来てる。綺麗ねぇ。


「……この農地と」


 私が一通り眺めた頃、マスターが徐に口を開いた。


「あの公園は、先代がここまで整備してくれました。どちらも、別の時空との接点になってるポイントなんです。まあ、タイムトンネルの入り口があると思って頂ければ良いかと」

「それ以前は?」

「整備の必要が無かったんですよ。昔の人達は自然の中で生活してたし」


 私の中で何かが繋がる。


「皆が『交流』出来てたからですか?」

「そう」


 ウンウンとマスターの麦藁帽が二度頷いた。


「でもマスターや杏くんみたいな人も居たんですよね?その、時空ポイントっていうのが出来てからは」

「ああ、それは違うな……実際、大昔から時空ポイントはあるんですよ。ただ、当時は誰もが自然界との交流が出来てたから、無意識の内に皆でバランス調整をしていたと言う事なんでしょう。だから私達のような、言わば『管理人』のような存在は必要無かったんです。
 無論、昔の人達が皆この事を理解していた訳では無いでしょうが。ただ、色々と不思議な現象が昔からあった事は記録にも残ってる。だから人々はこの場所を畏れ敬い、大切にしてた。それは容易に想像がつきます」


 じゃあ、今はわざわざ『管理人』が必要な状態になってるって言う事?


「時代は流れ、近代化の波は当然ここにもやって来ました。開発が良しとされ、土地や自然に対する畏怖の念が薄れるに連れて土地が荒れていきました。
 そうなれば自然界の力が弱まり、バランスも崩れ出します。事実、先代がこの地に来た頃は時空が不規則に歪む事もありました。大人子供を問わず何人かが突然姿を消したりもして、一時は神隠しの騒ぎになったと聞いてます」

「え……」

「そんな訳で先代がこの土地を整備し、それを私が受け継いだんです。何十年もかかりましたが、最近はようやく落ち着いてます」

「……」

「もうお分かりだと思いますが、杏にも言っている『手入れ』というのは、大小問わずに植物の世話をするという事です。それは同時に、時空バランスを安定させておくという意味もあります」


 ……ざわり、と私の肌が粟立った。
 15年前の、記憶の灰色が急激に浮かんで来る。


「もちろん、あの公園も最低限の整備は私の方でやってありますが、杏が来た時点で彼に全て任せました。跡継ぎとなる者は公園の手入れから始めて、自身の力を強化し、力を自在にコントロールする技術も養って行くんです」

「じゃあ、ひょっとして手入れをする人の力が不安定だと……?」

「気付きましたか」


 マスターがそう言うって事は……そう言う事なの?


「15年前、子供の貴女は一時的にですが時空バランスの歪みに巻き込まれ、どんぐり公園で『今』の杏に会った。言うなれば、貴女は“進み過ぎた地点”に迷い込んだんです」


 ざ、とマスターの斜め後ろの大木がその全身を震わせた。
 風は吹いてないし、何も周囲に変化は無い……明らかに、その木が動いた。
 でも怖くない。寧ろ……。


《おかえり》

《おかえり》


 ……何度も、そう言ってくれてるのが分かる。
 その気持ちが、伝わってくる。


「杏がここへ来てひと月経った頃の事です」


 大木の揺らぎに合わせるかのように、マスターがゆっくり話を続ける。


「当時の彼の能力は不安定極まりない物だったんです。その為に自然界の声と人の声の区別や、それぞれに対する意思疎通の方法も上手く切り替える事が出来ず、人と話すのが殆ど出来ない状態でした。
 そして公園の時空バランスは、そんな杏の不安定さに共鳴する形で歪みを生じていたんです。貴女は、その歪みに紛れ込んだのでしょう」

「……今朝、杏くんが言ってた事って、何ですか」


 震えそうになる声をそれこそ必死で絞り出して尋ねれば、マスターはまたあのへにゃりとした笑顔で答えてくれた。


「……一人ぼっちだった彼に、遊ぼうと言ってくれた女の子が居た事。でも、その子は『今』ここに居てはいけなかったから本来の場所に戻って欲しかった事。それを上手く言えず、砂を投げつけて追い返してしまった事。そして……それが貴女だったという事」


 昨日、公園で初めて会った時を思い出した。
 あの時、杏くんも気付いたんだ……私が誰なのかを。


「実はあの公園の新芽が、この春から一本だけ成長を止めてました。それは私も気付いていたんですが、実は成長が止まったのが、丁度彼が15年前の貴女に会った時からだったと……それも今朝、話を聞いて理解出来ました。
 彼は、貴女に対して酷い事をしてしまったから新芽が育たなくなったと思ってたそうで……これは自分への罰だと思ってたと言いました。思い出す度にどうしても泣いてしまうとも」

「じゃあ、昨日泣いてたのは……そのせいかも」

「ああ、そう言えばちょっと目が赤かったな……まあ、そうかもしれませんね。学校の事とかで泣くのはあまり考えられないな。この頃は友達も増えてるようだし」


 色んな事が一斉に一つの所に収まってきた感じがして、でもそうして見えて来た物が想像を超えてたから、何だか胸がいっぱいで……頭の中もぐるぐるしてる。


「でも昨日彼に出逢った時、貴女は彼を奇妙に思う事も無く、怒る事も無く傍に寄り添ってくれましたよね。そうしたら、聞こえたそうですよ」

「……何が?」

「新芽の声ですよ。『もう良いんだよ』『還って来たんだよ』『ようこそ、ってお迎えしてあげなさい』とね」


《おかえり》

《おかえり》


 ……また、あの声が聞こえる。
 私、還って来たの?


「ああ、困ったな。えっと……泣かないで、ね?」

「え……」


 言われて目元に手をやって、自分が泣いてたと初めて分かった。目の前でマスターがあたふたしながらポケットからハンカチを取り出して私に渡してくれる。それがまた見事なヨレヨレ具合で。


「……っぷふっ……あは……ぅえーん……」


 お陰で笑うのと泣くのに忙しくって仕方無いじゃないの。

 ……取り敢えず木陰に座って気持ちを落ち着ける。『待ってて下さいね』と言って喫茶店の勝手口に向かったマスターは、10分程してグラス片手に戻って来た。


「どうぞ」

「……有り難うございます」


 受け取ったグラスはひんやりしてて気持ち良い。口をつける時、仄かにオレンジの香りがした。


「落ち着きましたか?」

「ええ、まあ……だいぶ。あの、これ……良い香りですね」

「そうですか、それは良かった」


 そう言いながら、マスターは頭の後ろをがしがし掻いて視線を泳がせてる。何かを言いたそうなんだけど、時々『あ』とか『う』とかの音が聞こえて来るだけで。

 ……その間に私から質問だわ。この人なら何か知ってるかもしれない。


「あの」

「……はい」

「まだ信じられないですけど、私が杏くんと15年前に会ってたというのは分かりました。子供の私が『15年先の今』に紛れ込んだというのも……何となく」

「はい」

「でも、私は子供の時、ここに2年間は住んでたんです。それも事実なんです」

「そうですね。確かに」

「それなのに、その2年間の……思い出って言った方が近いのかもしれないんですけど、友達とか先生とか、何をして過ごしてたかとか、そんな記憶が殆ど無いんです」


 この土地の事はぼんやり覚えてたけど、でもそれだけ。


「それって変じゃないでしょうか?」


 向かいに腰を下ろしてたマスターに問えば、その目が一瞬くるりと大きく瞬いた。


「……ああ、成程」


 そう言って、あのへにょりとした笑顔を見せる。


「余程、杏との事がショックだったんですね。大丈夫、多分その記憶は戻せますよ」

「え……!」


 そうなの?記憶が曖昧な理由が分かるだけじゃなくて、戻せるの?!


「本当、ですか?」

「はい。もう今なら大丈夫だろうし……貴女にも聞こえてるんですよね?さっきから、あの」


 言いながら、後ろの大木を指差す。


「クスノキの声が」

「え?そうなんですか?!」


 反射的に、指し示された木をまじまじと見つめる。
 気のせいじゃなかったのね?マスターの話から勝手に私が想像したんじゃないのね……今も、聞こえる、この声は。


《おかえり》

《……おかえり》

「『おかえり』って、何度も聞こえてるんです」

「ああ、やっぱり」


 私の返答に、マスターはそう言ってウンウンと頷くと少し居住いを正して、それから私の目を真正面から見つめながら、ゆっくり説明してくれた。


「先程も言いましたが、自然界と交流する能力は誰にでもある。だが貴女は、一般の人達よりもその力に長けています。特に『受信』が上手い」

「……わたしが?」

「そう」

「『受信』って事は、メッセージを受け取る側ですよね?」

「そうです。貴女は今すでに、貴女に向けて発せられた植物達の言葉を受け取れています。コツを掴めば、もっと多くを周囲から受け取る事が出来るでしょう」


 杏くんに教える時も、こんな風に話してるのかしら……なんてふと思えば、私のほっぺたもへにゃりと緩む。


「ただ、貴女自身から植物や時空へ積極的に働きかけるのは、当面は難しいと思います」

「何故ですか」

「『発信』が出来る人であれば、15年前のその時に、自力で元の時空に戻れた筈なんですよ」

「あー……」


 何となくだけど、言わんとする事は分かった。
 あの時、私は公園の『歪み』をキャッチしてしまって……『受信』の力が強いから尚更なのね……そしてそれに一歩足を踏み入れたままの状態になってたんだ。それで結局、杏くんが私に砂を投げて『返して』くれるまで、その状態が続いてた、って言う事?

 尋ねてみれば、マスターが今度はウンと大きく一回頷く。


「流石ですね、その通りです」

「『発信』出来る人は、どうやって戻るんですか?」

「自分で『道』を作るんです。周りの植物に力を貸してもらって。あ、『力を貸せ』なんて命令したら駄目ですけどね。私たちの方が自然界の中で『生かされてる』んですから」

「はぁ……」


 こっちの話は未だ理解しきれない。イメージも涌かないし……あ、この辺が受信オンリーなのかも。


「もちろん、子供の貴女はそんな事など知らなかった。それでも、何かが変だと気付いてはいたんでしょう。だから無意識の内に自らの感覚を鈍らせ、この土地に関する記憶を封じ込めたんです。自分が壊れてしまわないように」

「それは……確かに、一理ありますね」

「納得出来ますか」

「そうですね。それも有りだろうな、って感じで」

「じゃあ大丈夫」


 その一言と一緒に、私の頭にマスターの大きな掌がぽんとのっかった。


「夕方、杏が戻って来たら一緒に公園に行きましょう」


……それからは普通に畑を見せてもらって、果樹園は入り口からざっと見渡して。
 12時を回る頃に宿に戻れば、マスターは直ぐに軽いランチを用意してくれた。その後『17時に玄関に集合』とだけ打ち合わせて部屋に戻る。

 結局一枚も写真を撮って無かった事に気付いたけど、もうそれもどうでも良くなってた。頭の中、ぼぅっとなっちゃって……これ、絶対に暑さのせいだけじゃない。あれだけの話を聞いたんだもの。

 とりあえずちょっと昼寝させてもらおう。頭冷やさなきゃ。


「……お待たせしました」

「いえ、全然」

「じゃあ行こう!おねえちゃん」

「そうね、よろしく」


 時間通りに集まった私たちは早速歩き出した。昨日と同じように、私は杏くんと手を繋いで。その後ろからマスターがのんびりとついてきた。
 自分で封じ込めた記憶を取り戻す……昼間は単純に喜んだけど、何を思い出すんだろうと考えたら、ちょっと怖い。どんぐり公園には行きたいけど、戻りたい気持ちも少しだけ残ってる。でもそれはなるべく考えないようにして、杏くんとのお喋りで気持ちを紛らわせた。

 そして気付けばもう公園の入り口。


「よし、良く出来てるな、杏」

「うん!今日こそごうかくだよね?」

「うーん、どうかな?……ああ、すいませんが暫く待ってて下さい」


 『手入れ』のチェックかしら?私に公園の敷地内に入らないように言い置いて、マスターは杏くんと一緒に植木や花壇を一つずつ見て回った。時々『ほら、ここは……』と何かを教えてる。杏くんも真剣に聞いてる。


「偉いなあ……」


 そんな様子を眺めてたら、待ってても全然退屈しなかったわ。むしろ『どうぞ』と言われて腕時計を見たら15分も経っててびっくりしたくらい。


「お待たせしました。どうぞこちらに」

「おねえちゃん、こっちこっち!!」

「あ、うん」


 言われる侭に歩を進めて砂場を横切り、公園で一番大きいケヤキの樹の前に案内された。そろそろ秋の姿になりつつあるその葉っぱが、夕日に映えてとても綺麗。


「その足下にあるのが、昼に言ってた新芽です」


 マスターの声につられて下を見れば、確かにそこには春色の葉っぱ。じっと見てたら、ふわっと浮かんで来た花の名前。


「……ハルジオン?」

「そうです。ご存知でしたか?」

「いえ。今、なんとなく」

「キャッチしましたね」

「あ、そうかもしれません」

「大丈夫ですよ、分かる時っていうのはそんなもんです」

「はぁ」


 どうにもハッキリしないし自信も無いけど、マスターがそう言うんならそうなんだろうなと思う事にした。そう言えば、クスノキの声が聞こえた時もこんな感じだった……かも。


「すごいや、おねえちゃんホントに聞こえるんだ!」

「そうみたいね……アリガト」


 杏くんが目をキラキラさせて私を見る。この子にこんなに喜ばれると何だかこそばゆいな。でも、ちょっとずつ私も楽しくなってきたような気もする。

 自然界と交流出来るのって、きっと楽しい。そう思わせてくれる。


「じゃあ、やりましょうか。そこに適当に座って下さい」


 マスターはそう言うと、自分もその場に膝をついた。杏くんもちょこんと座る。丁度ハルジオンを囲んで小さな円陣を作るような形になった。


「彼と手を繋いで下さい」

「はい」


 言われる侭、私は右手を出して杏くんの左手を握った。
 杏くんの右手はマスターの左手と。そしてマスターの右手は、その人差し指だけハルジオンの若葉にちょんと触れている。


「では、貴女の左手でこの新芽に触れて下さい。それで記憶が戻ります」

「え、それだけ?」

「はい」


 笑いながらマスターは付け足してくれる。


「因みに貴女の記憶は貴女のものですし、貴女自身が受信者だから、私達がその内容を知る事はありません。ただ、杏は『発信』のコントロールが未だ完全ではないので、僅かですが彼の記憶がそちらに流れる可能性があります」

「じゃあその場合は、私の記憶とごちゃまぜに?」

「いえ、区別はつくようにしておきます。なるべく流入自体を食い止めるようにはしますが、その分は勘弁してやって下さい」

「はぁ……分かりました」


 何かすごいのね、マスターの力って。


「ごめんね、おねえちゃん。でもぼくがんばるから!」


 私の返事を何か勘違いしちゃったみたいで、杏くんがすまなさそうに見上げて来た……ああ、ゴメンね。


「大丈夫よ。私もちゃんと、自分の事思い出すわね!」

「……うん!」


 ぱあっと、輝くような杏くんの笑顔。その横で、ぽかぽかと暖かいマスターの姿。
 心がふわりとするような安心感に包まれながら、私はハルジオンの葉っぱに触れた。


「わ……」


 一瞬、目眩のような感覚が走り抜け、思わず呟いて目を閉じる。その弾みでとすんと尻餅をついた。


「だいじょうぶ?おねえちゃん」


 杏くんが心配そうに右手を握ってくれる。暖かいなあ。


「うん……大丈夫よ。ありがと」

「気分はどうです?何ともない?」

「あ、んーと……」


 聞かれて、改めて昔の記憶を手繰り寄せてみる……何て言うのかな、今までよりも思い出し易い、っていう感じがあるみたい。奥底に沈んでたモノがゆっくり水面に浮かび上がってきてるような、でもまだ中途で漂ってるような、曖昧な感じ。
 ドラマだったらいきなり全てが鮮明になって……とかになるんだろうけど、そういう訳でもないのねぇ。

 ちょっと拍子抜けしながら思ったままをマスターに言えば、それでも満足げにウンと頷いた。


「ああ、でも少しずつで良いですよ。明日にはすっきりするだろうし」

「そうなんですか?」

「はい。いきなり全て思い出して混乱しないようにしてるんでしょう」

「え、それもマスターが?」

「いえ、それは貴女自身が自動的に行なってる事です。誰でも同じだとは思いますが、一種の防御反応みたいなもんです」

「はぁ」

「明日には戻ってる筈ですから。まあ、楽しみにしておいて下さい」


 人間って不思議なのねぇ……そんな事を思いながら視線を足下に戻すと。


「あ」

「ああ、戻りましたね」

「ほんとだ!良かったぁ!!」


 いつの間にか、新芽だけだったハルジオンが花を咲かせてた……この花の時間も動き出したんだ。


《もう大丈夫》

《みんな、大丈夫》

《ありがとう》


 そんな声が聞こえてきた……ああ、分かるわ。これはハルジオンの声。
 もう杏くんが私の事で心を痛める必要も無い。


「良かった、ホントに」


 言うとはなしに呟いて顔を挙げれば、西の山に夕日が沈む所。
 そのオレンジの光に輝いた杏くんの瞳がとっても綺麗で。
 それをみてくしゃっと笑うマスターの横顔が……とっても、その……うん。


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(……ちゃん、学校行こー!)

(今日のきゅうしょく、カレーライスだよね。楽しみだよね!)

(おにごっこ?やろやろ!そしたら……じゃぁんけーん)

「ぽん!」


 夢の勢いのまま思いっきり叫んで、自分の声で目を覚ました。
 うわ恥ずかしい。外に聞こえて無いわよね?


「……あれ?」


 焦って周りを見回して、ドアの向こうに人の気配が無いのを確認してちょっと安心すると、つい今しがたまで見てた夢の映像が勝手に溢れ出した。


「あー!」


 止めようにも止まらない。ずるずると一本の紐をどんどん手繰り寄せる様に出て来る夢の記憶……ううん、これは単なる夢じゃなくて。


「……マスター!!」


 慌てて着替えてとりあえず顔を洗って、髪をまとめて布団をあげてドアを開けてマスターを探す。
 そうする間にも記憶がどんどん蘇る。
 奥の階段を駆け降りれば、キッチンにマスターの後ろ姿が見えた。


「マスター!!」

「お早うございます。どうかしましたか?」

「記憶が……記憶が!!」

「戻りましたか」

「それどころじゃないわ、芋づる状態よ!どんどん出て来るの!!」


 だって本当にそんな感じで、だからそう言ったのに。
 マスターは目をまん丸にしてこっちをじぃっと見つめて。

 それからぶはっと盛大に噴き出した。


---------


「……どうですか?」

「おかげさまで……とりあえず止まったみたいです」

「それはそれは」


 じゃあそろそろ朝食にしますか、と板の間から立ち上がったマスターの背中がまた細かく震えてる。


「もう……そんなに笑わなくても」

「笑ってませんもう笑ってません」

「ウソ」

「大丈夫だいじょうぶ」


 何が大丈夫なのよ。あれだけ爆笑しといてよく言うわ。


「それよりも」

「え?」

「今日はどうしますか」


 一拍置いて、ああ取材のことかなと思い至った。


「昨日は色々予定外な事で一日終わってしまいましたからね。見たい場所があればご案内しますが」

「そうですね……」


 言われて少し考えるけど、どうも出掛ける気にならない。でも取材はしないといけないし……とあれこれ考えてる間に、マスターは朝食をキッチンから持って来てくれた。
 今朝はスライスしてこんがり焼いた山型パンとベーコンエッグ、サラダにフルーツヨーグルト。シンプルだけど、特に女性が喜ぶメニューよね。


「まあ、食べながら考えて貰ったら良いですし」

「はぁ」

「……ご一緒させて貰っても?」

「あ、はい」


 ていうか、既にちゃっかり二人分持って来てるじゃない。


「いただきます」

「はい、どうぞ」


 あんまり細かい事は気にしないようにしつつ、トーストを一口。


「わ、あまい」

「でしょう」


 驚いたわ。当然この場合は砂糖なんかの甘さじゃなくて、いわゆる素材の甘さ……それにしても素敵。


「自然の甘さですよね。しかも噛む程に甘みが広がる」

「契約先の農家で作ってもらった小麦が原料ですからね、格別です」

「それとこれ、全粒粉も入ってますよね?健康にも良さそう」

「無農薬の小麦をそのまま製粉してます」


 ホントに、軽くバターを塗るだけで十分美味しい。次にサラダ。昨日見せて貰った畑にあった野菜が使われてる。そう言えば昨日の朝は和食……あの時には枝豆があった。あれもここの畑で穫れたのよね?


「そうです」

「このベーコンや卵は?酪農まではされてないですよね?」

「鶏は何羽か飼ってますけどね。他は近場の酪農家さんとこれも契約してるんです。畜舎に入りっぱなしじゃない、きちんと牧場があるんですよ。だから動物も皆元気だし、とれる牛乳も、それから作るバターやチーズも、格別にうまい」


 朝食を摂りながら喋るマスターの口調が滑らかになってきた……それなら、先にインタビューさせてもらっちゃおうか。


「確か、この宿を始められたのは3年前ですよね?」

「そうです」

「喫茶店は……」

「もう5年くらいになります」

「それは、こうした地産地消の活動を広める為に始めたんですか?」

「地産地消?」

「え?」


 こちらが尋ねてる筈なのに、鸚鵡返しされて言葉に詰まった。


「あの……ええと」

「ひょっとして、こっちに来られる前にどんな話を聞いてましたか?この土地の」


 ずいっと上体を乗り出して『ん?』と言いた気に片眉を跳ね上げて聞いて来るマスターに気圧されそうになる。辛うじてそうならないのは、そのマスターの口元が面白そうに上がってるからで……別に機嫌を損ねてる訳じゃないわよね。そうよね。


「……うちの編集長からなんですが」

「はい」

「ここでは面白い取組みをしてるらしいと。エコ活動をされてて、その一環で喫茶店と民宿も経営していると聞きました」

「ははあ」


 なるほどといった風に、マスターがウンウン頷く。


「まあ、このご時世ならそんな風に受け取られるのも妥当なところでしょう。その上でそっとしといてくれたら有難いんですけどね」

「……記事にされるのは嫌ですか?」

「絶対に嫌なら、そもそも取材依頼を頂いた時点で断ってますよ」


 マスターの言葉の端に引っ掛かりを感じて尋ねれば、へにゃっと笑ってそう返された。


「じゃあ……」

「貴女自身はどうですか?ここの何を記事にしたい?」

「私自身?」

「そう」


 どん、と胸を突かれたような衝撃が走る。


「貴女は会社からの指示で取材に来た。その際に仕入れた情報は、あくまで伝え聞きレベルの物だ」

「……」


 確かにその通り。何も返せない。


「では、前情報から抱いたここの印象と、今の貴女がここに対して感じてる事……それは同じ?」

「いえ……かなり違うと思います」

「思うだけ?」


 いつの間にかマスターからは笑顔が消え、真剣そのものの眼差しでじっと私を見据えてる……ああ何かまた蛙の心境。それも『取って食われる恐怖』と言うよりも、こっちの考えや行動なんかとっくに見透かされてるような、諦めというか何というか。


「すいません、言い直します……一昨日と今と、ここに対する印象は全く違います。そう感じています」

「どんな風に?」

「そもそも、巷で言われてるような意味のエコ活動では無い。そんな次元の物ではありません」

「成程。ではその上で、貴女はここについてどんな記事を書きたいですか?」

 「……一般的に言われているエコ活動は、それなりに意味のある事だと思います。だから、多くの人に受け入れられ易い記事やキャッチコピーで、多数の読者にエコ活動の意識を持ってもらう事は意味が有ると信じています。
 私はこれ迄にも何本か、そうした記事を書かせて貰いました。だから同じ様に、ここでされてる事も活動の一つの形として記事にしようと思いました……でも……今までに見せて頂いた事や体験した事や……杏くんの事を思うと、これまでみたいには……」


 自然と語尾は重くなり、途切れ……とうとう消えた。
 マスターの視線は変わらない。揺るがない。私の言葉の続きを促す事も、無い。


「……書けません」


 これを言ってしまったら今回の記事を落とす事になる。仕事として請けた以上は言っちゃいけない。でももう、それ以外何も言えない。


「慌てて書かなくても良いんじゃないですか」

「でも、期限が」

「会社のでしょう?貴女のじゃない」

「……」


 そう、ここの事は書きたい。その気持ちは一昨日よりもずっとある。でも後4日しか無いって状況で書くのが嫌なのよ。すっごく。


「貴女は自然からの言葉を受けとめ、言葉で人々に発信する才能がある。そして私達の生活と、何よりも杏の事を理解してくれる」

「だって……あれは元は誰にでも備わってる能力だって」

「今まで取材に来た人達は、この土地や私達を理解する気など無かった」


 怒るでもなく嘆くでもない淡々とした口調が、逆にこの空間を凍らせた。でもその寒さを自覚する前に、マスターはまたあの笑顔を見せる。


「……やっと、この地域の方々とも連携が取れるようになってきたんです。地味で良いから着実に、この土地の事を理解してくれる人を増やし、杏が安心してここを守って行けるようにしたい。それだけなんですよ」


(俺としてもマスターを応援したい気持ちは十二分にあるんだよなあ……)

 駅前のレストランの店長が言ってた言葉を思い出した……そうか、きっとあの人も。


「そして……貴女もね」

「え?」

「良き理解者になってくれると、そう確信してるんです」

「あ……どうも」


 そう言って笑うマスターの顔をそれ以上見てられなくて、間が持たなくなった私はトーストの残りを食べる事に専念した。えーい静まれ心臓。


「……今日はゆっくりして下さい。記憶も戻ったばかりだし、考えを纏める時間も必要でしょう。私は畑に居ます。ハーブ園でも畑でも果樹園でも、好きに見て頂いて結構ですから」


 先に食べ終えたマスターが、自分の食器を手に立ち上がりながらそう言ってくれた。敷地内を自由に見て良いって事よね。


「写真は?」

「どうぞご自由に」


 笑顔で即答。じゃあ、ダメ元でもう一つお願いしてみよう。


「それと、マスターのお仕事の様子も撮って良いですか?」


 ぴた、とキッチンに向かおうとしてたマスターの背中が固まった。
 やっぱりダメか……それとも、ひょっとして何か怒らせた?


「……あの」

「構いませんよ、撮ってもらっても」


 こっちに背中を向けたままマスターは小声でそう言って。


「……良ければこれから先も一緒に居て、ずっとここを撮って下さい」


 片手で頭をがしがし掻きながら、そう付け加えた。


--------


『何だってぇ?!』


 用件を告げれば、受話器の向こうから予想通りの上司の叫び。


『本気なのか?戻って来ないなんて』

「はい」

『ご両親は』

「もう大人なんだし、自分で決めたなら責任持ってやりなさいとは言われましたけど」


 マスターにいきなりプロポーズされて、私は当然取材どころじゃなくなった。湧き出た記憶と目の前の現実で頭の中がごちゃごちゃになって、部屋に夕方まで籠もりっぱなし……知恵熱出るかと思ったわよ本当に。
 そうこうしてる内に杏くんが帰って来たから、私が一緒に住むのってどう思う?って聞いてみたら、即答で大歓迎。


『うれしい!すっごくうれしいよ!!お父さんとおねえちゃんと三人でくらせるんだね!』


 これほど嬉しい事がある?これで私も心が決まった。次の日には両親に電話して……返事は上司に言った通り。私が言うのもアレだけど、がっちり子離れしてる親だわ。


『じゃあ、今回の担当分は?』

「駅前のレストランの取材をしてます。それを送ります」

『え……それは他の雑誌でも出てた、あの店じゃないのかい?』

「そうです。でも、うち限定の特典を付けてくれるって言われたんですよ」

『……へ?』


 直ぐにその内容を告げれば、上司はぴたっと大人しくなった。


『君、いったい……どんな交渉したんだ?』

「特には。良いじゃないですか、うちの雑誌を気に入って頂いてるって事ですし」


 本当に交渉なんてしてない。初日にアドバイスをくれたお礼と、マスターと住む事を決めたって報告に行ったら、店長自ら提案してきてくれた企画なんだもの。
 逆に私がそれに便乗して取材させてもらったんだから、こっちがいくら感謝しても足りない。


『……』


 沈黙。上司が電話の前でどんな顔して困ってるか目に見えるようだわ。
 困んなくて良いのに。確実にこれで販売部数は倍増するでしょ。


『……分かった。そしたら週明け、記事が届いて最終OKが出た時点で君は退職扱い。それで良いんだね?』

「はい、ありがとうございます!」


 勝手な言い草だと言われるのも覚悟してたから、思ったよりすんなり了解がもらえてホッとした……と思ったら、まだ上司の話は続きがあった。


『で、今後はずっとそっちに住むって事だよね?』

「はい」

『出来れば、これからも時々Q市の情報をこっちに流してほしいんだけど』

「え?」


 言ってる意味が掴み切れずに聞き返すと『参ったなあ』という呟きが微かに聞こえてきた。


『君の記事は評判良いんだよ。君が思ってる以上にね。
 何て言うのかな……人に真っ直ぐ物事の要点や人々の想いを届ける才能みたいなのがある。だから社員は無理でも、フリー契約とかでこれからも記事を頼めたらって考えてるんだが』

「そんな……良いんですか?」

『君さえ良ければ。副業に、どうかな?』


 思いがけず嬉しい話。しかも、上司が私の記事をこんなに評価してくれてたなんて初めて知ったわ。


《自然からの言葉を受けとめ、言葉で人々に発信する才能がある……》


 マスターが言った、あの事を実践するんだ。私が。


「分かりました。これからもよろしくお願いします」

『助かるよ。こちらこそよろしく。また手続き関係の書類は送るから。そっちでも頑張って。改めて、おめでとう』


 受話器を両手で抱えて、電話の向こうの上司に向かって深く一礼。
 オニ上司だったけど、今まで頑張って来て良かったかも……って、ちょっと思えた瞬間だった。


「どうでした?」


 電話を切って降りて行くと、早速マスターが結果を聞いてきた。


「まあとりあえず。OKです」

「そう。それは良かった」


 言ってへにゃっと微笑まれたら、照れくさくて顔を見てらんない。まだ免疫ついてないんだから頼むわよ、もう。


「……ちょっと外出してきます」

「取材?」

「散歩!」


 ムキになって返せば、また肩を震わせて笑ってる。


「行って来ます!!」

「はいはい」


 今日も快晴、まだ日差しはきつい。麦藁帽子を被って、小学校への道を改めて辿ってみれば、ここに到着したばかりの時とは明らかに違う印象を受ける。
 そりゃ、あの時も懐かしいという気持ちは感じたけど、何て言うのかな……その深さや濃さみたいなののレベルがね。

 一つ、何かを見る度に記憶が涌き上がる。その場所で遊んだ友達一人ひとりの顔までが、今は鮮明に思い出せる……そうそう、ここは昔は並木道だった。そっちには小さな池があった……この区画にはたんぼがあって、細いけど用水路があって、小魚を掴まえたりもした。
 今はそれらの一つも残ってないけれど、それでも私の裡にこんなにも鮮明に記憶されている。戻って来た自分の記憶が、とてつもなく大切で愛おしく感じる。

 そして、それと同じに愛おしく懐かしく思うもの。


《久しぶり》

《待ってたよ》

《戻って来たんだね》


 樹々の、声。


《こんにちは》

《ようこそ》

《はじめまして》


 道ばたの草花や、プランターのハーブの、声。

 まだ少ししか聞き取れないけど、それでも皆が歓迎してくれているのが分かる。
 ああ、良かったなあ。ここへ来て、良かった。

 ……そのままふわふわした気分で歩いていたら、角を曲がった所で女の人が荷物を落っことして慌ててるのが目に入った。
 両手いっぱいの紙袋と手提げ……あ、妊婦さんじゃない。大変だわ。


「大丈夫ですか?……はい」

「あ、すみません。ありがとうございます」


 転がった果物を集めて渡せば、安堵の声。そうしてニッコリこっちを向くとその女性が『あれ?』と言ってまじまじと私を見つめた。

「あの、すいません……ひょっとして」

「はい?」


 聞かれてびっくり。


「やっぱり!私、覚えてる?」


 懐かしいわぁ!と言う彼女の笑顔が、私の記憶と重なる。そうだ、私転校して来た時、この子の隣の席になったんだわ。


「そうそう!わあ久しぶりねえ!!」

「ホントほんと!!懐かしい!」


 ああ、本当に私、戻って来たんだ。
 やっと、私の時間はこの場所に追い付いた。


「でも珍しいね、何でここに居るの?」

「うん、実はね……」


(了)


SideBはこちら


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