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お手つき

 まだ梅雨の明けない、湿度が不快感を呼び起こす夜。
 インターフォンが鳴り、お届け物ですと配達員の声。

 特に何も頼んではいなかった筈なのに……と思いつつも受け取った。差出人の欄には、もう何年も前に別れた女の名。


(……おかしいな)


 女は、確か半月ほど前に死んだと聞いた……勿論、死に顔を見た訳じゃないが。
 しかし住所は確かに、彼女の実家のものだ。

 何かのいたずらか、それとも……。

 包みを軽く振ってみたが、しっかり梱包されているようで、こそとも音がしない。


(壊れ物?)


 箱を開ければ、新聞紙にくるまれた物体が出て来た。その中は更にエアキャップで保護されていて……。


「な……っ!」


 中身を認識した瞬間、背筋が凍った。
 記憶と寸分違わぬラインを描くそれは……女の右手。

 思わず放り投げた手はフローリングの床に落ち、コトリと乾いた音を立てた。


 そのまま5分は無言でその手と向かい合っていただろう……ようやく落ち着きを取り戻した俺は、改めてそれを観察した。

 血は流れてない。
 腐臭も無い。

 だがマネキンにしてはリアル過ぎる。何より、その切断面が。


「……」


 食い終わった弁当の上に乗っていた割り箸で、恐る恐るつついてみた。

 見た感じよりも遥かに固い。


(プラスティネーションとか言うヤツか?)


 前に聞いた覚えのある、死体保存法を思い出した。可能性としては一番高い気がする。
 だが、死後半月でこれを完成させるのは無理じゃないだろうか。もう少し、作成には日数がかかると聞いたような……。


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 30分もそうしていたら、この奇妙な光景にも大分慣れて来ちまったらしい。

 そろそろと女の右手を摘んで持ち上げる。手首の側さえ見なければ、白くすらりとした手は美しいオブジェに見えなくもない。赤みの濃いマニキュアも、完璧と言える出来映えで塗られていた。


(それにしても……何で今更)


 勝手に寄って来たから付き合ってやった。
 隣に連れて歩くには見栄えの良い女だったから。
 そして、飽きたから捨てた。

 それだけだ。

 そんな程度の女だったが、こうして手を見ていると当時の記憶が蘇ってくる。


(最初は良かったんだがな……)


 出会ったその日に女を抱いた。その時も彼女の爪はこの色で飾られていて、俺の背中にその跡を刻んでいった……そんな回想に耽っていると、俺の手の中のそれが俄に熱を帯び、熱く溶けるような幻覚に囚われた。


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 翌朝、女の右手はダッシュボードの上に転がっていた。

 朝日に照らされる手には、昨夜程のリアルさや艶かしさを感じない。確かにいきなり目にすれば本物かと驚く程度には精巧だが、人工だと言えばそう見えなくもない、そんな微妙なライン。

 小さく息をついて、俺は仕事に向かった。今日は週半ばの水曜日。仕事が暇になる日でもある。


『今日、空いてる?』


 今の彼女にメールすれば、程なくOKと返信があった。
 互いの都合が合えば夕食を一緒にとる。それが水曜日のスケジュール。そして週末は彼女が俺の所へ泊まりに来る。最近はそれが定番になっていた。


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 いつもの場所で待ち合わせ、彼女と郊外の評判の良いレストランへ向かう。いつもの様に他愛無い話を交わし、愛を囁く。


「もうこんな時間……あっという間ね」

「家まで送るよ。週末にまた、ゆっくりしよう」



 夜の高速を走りながら……ふと思い出した。

 あの、右手。


(……どうしたもんかな)


 普通に捨てれば良いようなものだが、正体がはっきりしてない以上、迂闊な事はしたくなかった。たとえ人工物だとしてもこのご時世だ、もしも回収前に発見されて騒ぎにでもなったら面倒この上ない。

 かと言って送り返すのも憚られる。確かに記載されていた住所はあの女の実家のものだが、本人が死んで間もない所にあんな物を送ったら、何かの嫌がらせや脅迫と家族に受け取られかねない。

 それでもやはり、週末までには処分したいと思う。プラスティネーションの事を教えてくれた友人(アイツならちょっとやそっとの事じゃ動じないし、口が堅いから信用出来る)にこの件を相談してみようと考えつつ、玄関の鍵を開ける。

 廊下からリビングに向かい、照明を点ける……何か違和感を感じた。


「え?」


 あの、右手が。
 今朝と違う場所に転がっている。

 慌てて視線を左右に走らせる。空き巣でも入ったのかと思ったからだ……が、何も盗られた様子は無い。


(玄関の鍵……自分で開けたよな、さっき)


 リビング、寝室、台所や風呂場の換気窓まで調べたが、全て朝と同様に施錠してある。外部からの侵入は無い。


「……俺の記憶違いだ」


 自分にそう言い聞かせて手を拾った。
 照明の加減だろうか、夜の方がこの手は本物っぽく美しく見える。

 だがいくら綺麗でも、自分の領域にこんな得体の知れない物があるのは精神衛生上良くない。やはり今夜の内に処分しよう。


 襤褸布で手をくるみ、更に黒のビニール袋に入れる。ついでにゴミ箱のゴミも纏めて捨てる事にした。
 一杯になったビニール袋の口をしっかり閉め、マンションのゴミ置き場に放り込んだ。ここのゴミは毎日、明け方に業者が回収に来る。それで終いだ。


「あぁ、やれやれ……」


 直ぐにシャワーを浴び、寝酒をやりながら映画を観る。大して面白くも無かったから1時間程で俺はさっさとベッドに潜り込んだ。

 翌朝、鳴り響く目覚まし時計を止めようとしたら、何かが指先に当たる感触があった。

 続いて、ことりと物が落ちる音。目覚ましはまだ鳴っている。


「……何だぁ?」


 先に目覚ましを止め、落とした物に手を伸ばす。


「ひ……!」


 急いで手を引く。だがそれは俺の掌を絡めとるかのようにくっついて来た。

 否応無く視界に映ったものは……捨てた筈の、女の右手。 


「わあああぁっ!!」


 パニックになりかけながらも必死でそれを引き剥がす。手は意外にあっさりと俺から離れ、反動で部屋の隅に転がった。


「な、んだよ……一体」


 口内が干上がってるのが自分で分かった。端から見たら滑稽な姿だろう、それでも手に向かって叫ぶのは止められない。


「俺、に……俺に、何か恨みがあるって言うのか!!」


 言った途端、手がこちらに向かってくるかと思った。思わず身構えたが、手はピクリとも動かず……ただそこに転がっていた。

 むろん、何かを喋るなんて事も無い。聞こえるのは自分の荒い呼吸音だけだ。


(……誰かのいたずらだ)


 自分に言い聞かせる。そうだ、昨夜俺がゴミを捨てるのを見た奴が、面白がってこれだけまた拾って来たんだ。

 だが、どうやってこの部屋に……?


「……駄目だ!もっと徹底しなきゃ駄目なんだ!」


 良からぬ方向へ思考が傾くのを強制的に断ち切り、俺は即座に行動を起こした。

 まずは上司に午前中欠勤の連絡を入れる。今日は夕方にアポが一件あるだけだから、体調不良と言えば難なく許可が下りた。それからいつも通りに服を着替え、手を昨夜以上に厳重に包み、更にジムに行く時に使っている袋に入れる。

 近所の住民に怪しまれては台無しだ。いつもと同じ出勤時間に家を出て、5分程走ったところで通勤ルートから外れた。

 向かう先は海。それも海流の加減で波が高く、滅多に人が近づかない岬だ。片道2時間で着く筈だから、午後の出社には影響無い。


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 予定通りに目的地に着き、袋から包みを取り出した。周囲に人影が無い事を確かめ、手頃な大きさの石を見つけて拾い、持って来たロープで包みにくくり付ける。

 崖のてっぺんから放り投げたそれは強風に煽られ、かなり遠くまで飛んで波しぶきをあげる海の中へと沈んでいった。


「……これでよし」


 確かに今、この手で捨てた。
 確かに今、この目で一部始終を見た。

 もう、これで大丈夫だ。


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 午後は特に問題無く過ぎていった。上司がしきりに『大丈夫か』と気にしてくれたが、それには仕事熱心な部下の顔で礼と詫びを言えば終わりだ。
 そのまま残業をしても良かったが、大した量でも無い。今日は定時で帰ろう。
 体調が優れないと言ったばかりだし、それに。


(流石に、もう無いよな……)


 早く家に戻ろう。あれが無くなってる事を確認しないと、とうてい安心出来そうになかった。


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 会社を出る頃から降り出した雨は、梅雨の末期を象徴するように、勢いを急激に増していた。雨粒が車のボディを乱打して賑やかな事この上ない。

 晩飯を調達したいが、この雨に打たれるのは嫌だ。少し遠回りになるが、立体駐車場のあるショッピングモールへ寄る事にした。

 閉店間際と言う事もあり、店内はかなり閑散としている。人波に煩わされる事無く買い出しが出来るのは有難い。

 と、ふと目をあげたその先に知った横顔が見えた。
 彼女だ。思いがけず遇えて嬉しくなる。
 ガラス戸の向こうを恨めしそうに見つめてる彼女の元へ急いで駆け寄った。


「今、帰り?」

「え……あ!どうしてここに?」

「買い出しさ」

「珍しくない?会社帰りでしょう?」

「こんな天気だからね、ここだと雨に濡れずに済むし」

「車だとこういう時は便利よね」

「まあね。君は?」

「見ての通り、雨宿り。来た時には降ってなかったのにね」

「送ろうか」

「良いの?」

「ああ、今日はもう帰るだけだし。何なら家に来る?」


 あの家に一人で帰るのが嫌だなと少しだけ思って、だから誘ってみた。だが流石に急だったようだ。


「ごめんなさい、今日は無理だわ。何も持ってないし、明日は早番なのよ」

「そっか。ごめん、俺こそ」

「ううん。でも、その分明日は早く終われるから」


 そうだ、明日は金曜日。


「待ってるね」

「ああ、仕事が終わったら大急ぎで迎えに行くよ」


 約束の時間を確認し、ついでに彼女がリクエストした週末用の食材を買い込んで、俺は彼女を家まで送り、帰路に着いた。


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 一つ大きく息を吸い込んでから玄関の鍵を開ける。
 そろりと照明のスイッチをオンにして、ゆっくりと歩を進めた。


(何で自分の家でこんな事しなきゃいけねぇんだ)


 心中で毒づきながら、それでも万が一を考えると嫌でも慎重になる。
 リビングに辿り着き室内を眺め回すが、右手はどこにも無かった。


「だよな」


 ほぅと溜めていた息を吐く。同時に、どっと今日の疲れがのしかかって来たような気がした。


「ホント、人騒がせだよ……ったく」


 二日ぶりに平穏な夜を過ごし、晩飯と風呂を済ませた俺はさっさと眠りについた。


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 翌朝、雨は止んだが空はどんよりしたままだった。それでも普通に朝を迎えられただけで俺にとっては有難い。


「よし、行くか」


 纏わりつく重さを含んだ湿気を撥ね除けるように気合いを入れ、会社に向かう。
 遅くとも12時間後には週末の休みに突入だ。それを楽しみに今日は頑張るとしよう。


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「ごめん、待たせたね」

「ううん、私も結局残業だったし」

「早番だったのに?」

「今ちょっと人手が足りないからね、今だけよ。それに、貴方に比べたら全然楽なんだから」


 言ってふわりと笑う。こんな気遣いの出来る女は最近付き合った中じゃ珍しい。だからこそ貴重だし、俺にとっての安らぎの場になってくれてるのも確かだ。


「じゃあ、夕食の準備手伝うよ」

「ありがとう!張り切って作るわね」


 すっかり冷めてた彼女のコーヒーの残りを『失敬』と横取りして飲み干せば、しょうがないわねと笑って小突かれる。そんな遣り取りにすら幸せを感じながら、俺達は車に乗り込んだ。

 家に着けば早速食事の用意。昨日買い込んだ食材にもう少し付け足して中華風のおかずが二つ三つと出来上がっていく。味も申し分無い。


「美味いよ」

「良かった!ありがとう」


 言ってはにかむ彼女を見て『ああ、良いな』としみじみ思う。
 その思いは気づけば言葉になって零れ出ていた。


「結婚、しようか」

「え……?」

「結婚しよう。ずっと俺の隣にいてほしい」


 自分でも唐突だと思った。彼女にはそれ以上のいきなりの事だったろう。
 暫く黙りこんで、紅潮する頬に涙が一筋流れ。


「……良いの?私なんかで」

「君だからさ。他には考えられない……良い?」

「うん……嬉しい……」


 なおも肩を震わせて涙を流す彼女を、俺はしっかりと抱きしめてやった。


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《……ねえ、覚えてる?》


 彼女を抱いて眠る俺の耳元で声がする。
 どこかで聞いた事のある声……。


《あなた、前に私に『結婚しよう』って言ってくれたわよね》


 ああ、言ったさ。今日プロポーズした。それがどうしたんだ?


《違う、『私』によ。それも何年も前。あれから貴方はもうずっと私のもの……》


 誰、だ?


《忘れないでね。私はあなたの“お手つき”だって事。これ以上増やしたらダ・メ……いい?》


 声と同時に右頬をぞろりと冷たいもので撫でられる感触。


「……っわあぁ!!」


 思わず叫んで目を覚ました。布団を撥ね除け起き上がろうとした……が、彼女の頭の重みを左腕に感じ、辛うじて押し止まる。いきなり腕枕を外しちゃ可哀想だ。

 未だ夜は明けてない。暗闇の中、うすらと見える彼女の寝顔は綺麗で、彫像を思わせる程。俺のあげた声にも気づかず、ぐっすりと寝ていた。


(仕事、大変そうだったからな……)


 彼女を起こさないように、そっと触れた頬が……冷たい。


「え……?!」


 あり得ない冷たさ。急いで照明を点けて顔を見直せば、血の気はとうに失せ……呼吸も止まっていた。


「うそ、だろ……おい!!」


 思わず彼女の両肩を掴んで揺さぶる。その時……彼女の首に巻き付いてる物に気づいた。


「……!」


 びしょ濡れの、あの右手。
 もう……俺には訳が分からなかった。


《ねぇ、分かってる?お手つきの代償って、結構大きいのよ……》


 茫然とする俺の思考にそんな声が木霊する。そして。


 その手は甲高い嘲笑を残してどろりと溶け去った。


(20080719-20121104-20210130)

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