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来たれ同朋、約束の地へ:SideB


「また、物好きなもんだな」 


 数ヶ月ぶりに取材依頼の電話を受けた。 しかも3泊するらしい。
 取材ならせいぜい1泊、酷い時には日帰りだって珍しくない……ま、後から連泊キャンセルされるくらいは覚悟しておくか。


「おとまりのおきゃくさんがくるの?」 

「そうだ」 

「ふーん」 


 相変わらず、杏(あんず)の反応は薄い。それでも嫌がるような事は無くなったから、今はそれで良しとする。 


「学校はどうだった?」 

「うん!今日はね……」 


 学校であった出来事は嬉しそうに、それこそキリが無いくらいに喋る。友達の事、授業の事、そして。 


「それとね、キンモクセイが『らいげつには咲くからよろしくね』って言ってたから、まわりをきれいにしてあげて……」 


 校庭や花壇の草木の手入れ。これも問題なく出来るようになってきた。 人との会話と植物との会話の切り替えが上手くなってきた証拠だ。 


「公園も、ちゃんとやってきただろうな?」 

「……うん。だいじょうぶ」 


 答えに一瞬の間。これは春の終わり頃から、ずっと。
 理由は恐らく一番奥のハルジオン。だが杏は、何か言いたく無い事があるらしい……この件だけは、不思議と他の樹々も黙ってるから俺も問い質したりしないようにしているが。 


「よし。じゃあ、後は宿題やって終わりだな」 

「もうおわったよ」 

「お、珍しい」 

「そんな事ないよ!いつもあっと言うまにおわらせてるじゃない」 


 ウソつけ。 


「そうか?じゃあ、今日は金木犀の話をしようか」 

「うん!おねがいします!」 


 公園にも金木犀はあるから、今の内に教えといた方が良いだろう。学校のそれとは対応を変えないといけないからな。


++++++ SideB: 追いついてくれたひと ++++++


「いってきまーす!」 


 いつも通りに杏が登校するのを見送って、店の掃除にかかる。 今日の予定は、例の取材希望の泊まり客が一人だけ……なんだが。

 何だか落ち着かない。 
 俺がというよりは、この場所全体が。 


《来るんだね》 

《来るよ》 

《来るんだね》 


 窓の外で日除け担当の楓が二本、そんな話をささやきあってる。 


「来るったって、雑誌の記者だぞ。分かってるだろう」 

《でも来るよ》 

《いよいよ来るんだね》 


 くすくすと含み笑い。

 民宿を始めて2年。有り難いことに泊まり客は多からず少なからずで何とかなってる。記者と名乗る人間も、それなりに。しかしどいつもこいつも記事を書いてやるんだからタダで泊まらせろ的な態度が見え見えだ。そんな奴らがまともな記事を書くわけが無いから、直ぐに追い返すのが定番。

 楓たちも、記者が来ると知るとテンションが下がる……筈なのに、今回はおかしい。こんなの初めてだ。 


《来る来る》 

《あー楽しみ》 


 俺はちっとも楽しみじゃない。面倒なばっかりだ。 


「じゃあ、畑行ってくるんで」 

《はいはい、行ってらっしゃい》 

《でも来るんだよね》 

《そりゃ来るよ》 

《あー楽しみ》 


--------------


 間もなく日没という時間になったが、予定の客は未だ来ない。
 連絡も無い。 

 そう言えば杏もまだ帰って来てない。 


「ドタキャンでせいせいした、って言うんじゃないだろうな?」 


 確かに気分的には楽だが、食材がパーになる辛さは耐え難い。ボヤき半分、八つ当たり半分で楓たちに聞いてみても、小さな笑い声が返ってくるだけで何も教えてはくれない。 

 はあ、とさっきから何度目か分からない溜息をついた時。 


「ただいまー!おきゃくさんだよ!!」 


 杏が転がる勢いで帰って来た。 


「え?」


 杏が今日の客を連れて来たのか?しかも喜色満面。どういう事だ。
 とりあえず玄関まで出迎えに行けば、微妙に脅えた顔をしている女性が一人、立ちすくんでいた。 

 あの公園の気配を纏って。 


(一体どういう事だ? )


 どうやらこの客、どんぐり公園に立ち寄ったらしい。なら、そこで杏と会ったって事だろうな。 


《来たね》 

《来た来た》 

《嬉しいねえ》 


 楓たちも機嫌が良い。


《ほらぁ、挨拶》 

《えがお、えがお》 


 分かってるよ。まったく。 


「いらっしゃい」 


 客に対して不機嫌になってる訳にもいかないから、挨拶に精一杯の笑顔を足してみた……なんでそこで半歩下がるんだ。 


「遅くなって申し訳ありませんでした」 


 遅れたのを気にしてはいたんだ。なかなか素直な事で。 


《すなお、すなお》 

《そりゃそうだ》 

《ほら、荷物もってご案内》 


 うっさい。何で楓に指示されなきゃなんないんだ。

 心中で文句を言いながら部屋に案内すれば、何も言ってない内から杏がおしぼりとお茶を持って来る。やれば出来るじゃないか。 


「わ、どうもありがとう」 


 礼を言われた杏、まんざらでもない顔をして喜んでる。すっかり懐いてるな。夕食もまさか、自分から客と一緒に食いたいなんて言うとは思わなかった。 


「どう言う事だ?」 


 煮立って来た土鍋を見ながら楓たちに問いかけてみたんだが。 


「……寝たのかよ」


 さすが植物、日没と同時に就寝か。 


「はぁ」


 これ以上は本人と話してみないと分からない。 献立、鍋で正解だな。これなら3人で食べても変じゃない。いつもは最初の乾杯だけさせて貰ってるが……。 


「おきゃくさんが来るとね、お父さんはおきゃくさんとかんぱいするんだ」 


 おっと、それ以上言うんじゃないぞ、杏。 


「せっかく来て下さった訳なんで、せめて乾杯で感謝の気持ちをと思いまして」

「確かに、マスターと乾杯出来るのって客としては嬉しいです」 


 社交辞令にしちゃ嫌味が無い。
 多分、素の意見だな。どれだけ素直な育ちをしてんだか。 


「それはどうも」 

「杏くんが給仕してくれるのも、可愛くて和みますね」 


 お礼を返せば、今度は彼の事まで褒めてくれた……本当に仲良しになってんのか。しかも会ってすぐに?

 これは今までに無いタイプの客。ちょっと興味が涌いて来た。
 一つ、こちらのタネ明かしをしてみる。 


「この子が自分からお客さんのお相手をするなんて、初めてなんです」 


 それを聞いた瞬間の彼女の驚いた顔は……ま、なかなか可愛かったかな。 

 その後は杏が本当に楽しそうにしてるからそのままの流れに任せといたが、やっぱり気にはなってたようだ。


「ホントに、いつもは全然お客さんのお相手はしてないんですか?杏くん」 


 食後に再び尋ねられた。
 だからホントなんだよ。それはこっちのほうが吃驚だ。 でもまあ、やれば出来るという事が分かったのは良かった。まだまだだけど、それでも杏なりに着実に成長してる。 


「特に男の子は父親の背中を見て育つって言いますし。良い息子さんですよね」 


 彼女はまた杏の事を褒めてくれるが、実際に彼をそうやって育ててくれたのは杏の母親、そして母親代わりとなってくれた俺の叔母だ。
 それを話してみようと思ったのに、杏が割って入ってきたから尻切れとんぼになった。俺と彼女だけで話してるのが、どうも気に入らないらしい。 

 まあ良いか。明日は少し裏手を案内してみよう。他の樹々の反応も知りたいし。
 杏とは朝の内に改めて話をしておかないと。今日のいきさつも、もう少し詳しく教えてもらうべきだろう。
 杏が来客であれだけ有頂天になったのは初めてだ。彼の『能力』のコントロールが甘くなってるかもしれない。

……もしも二人が会った時に公園の時空バランスが歪んでいたら、杏はともかく彼女に影響が出かねない。それは阻止してやらないと。 


--------------


「あのおねえちゃん、まえにも公園で会ったんだ」 


 翌朝、朝ご飯を食べながら杏に問えばそんな答えが返ってきた。 


「前?」

「うん」

「いつ頃だ?」 

「5月」 

「その時に友達になってたのか?」 

「ううん……あのね、おこらない?」 

「怒らない。でも、間違ってると俺が思った所は注意する。いつもそう言ってるだろう」 

「うん」 

「よし。話してみなさい」 


 じっとこっちを見つめたままオレンジジュースの残りをごくごくと飲み干してから、杏はやっと口を開いた。 


「……その時ね、あのおねえちゃん、おんなの子だったんだ」 

「ん?子供だったって言う事か?」 

「そう。ぼくのクラスの子たちとおんなじくらいだった」 


 5月と言ったら、杏はまだここに慣れてない頃。公園の時空も確かによく不安定になってたから、そこに誰かが迷い込む可能性は大いにあった。
 この場合、その『誰か』が彼女だったという訳か。 


「そうなのか。それで?」 

「おんなの子のおねえちゃんは何回か見たんだ……しゃべらなかったけど」 

「うん」 

「でも、だんだんその形がぼやけてきたから、この子はここにいたらダメなんだって気づいて……でも何て言ったらいいかわかんなくて、こわくて」 

「どうしたんだ?」 

「『あっちへ行け』って、すなをぶつけちゃったんだ」 

「あー」 


 そりゃやっちゃダメだ……杏も良くない事をしたと分かってるから、追い打ちをかけるような事は止めておくが。 


「……それで、なかせちゃったから。そしたらハルジオンが『かわいそう』って言って、だからぼくすっごくわるい事しちゃったんだって……もうぼく、ぜったいイヤな子だと思われただろうなって」 


 話しながら涙目。本当に優し過ぎて可哀想になるくらいだ。
 でも、だからこそ叔母は俺のところに杏を託してくれたんだろう。遺言までして。 


「それで?それからはその子を見たりしなかったのか?」 

「うん」 

「そうか。なら、お前はきちんとその子を返してあげる事が出来たんだ。やり方は良くなかったが、その時はそれが精一杯だったんだな」 

「……うん。ごめんなさい」 

「もう謝らなくて良い。それに昨日も別に、あの人に怒られちゃいないんだろう?」 

「うん。おこられなかった。それから……その時、ぼくブランコにのってたんだけど、おねえちゃんがとなりのブランコにすわって色々しゃべってくれて。そのうちに、おねえちゃんが今日はこのまちにとまるって言ったから、ひょっとしてウチに来るのかな?って思ってきいたらアタリだったから、ぼくすっごくうれしかったんだ」 

「そうか」


 話は大体分かった。分かったが……最後が飛躍してるだろ。何で当たりで嬉しいんだ。いつもなら泊まり客が居ると渋い顔をするのに。 


《だからさあ、来てくれたんだよ》 

《みんな喜んでるんだから》 

《嬉しいんだから》 

《いいじゃん》 

「うるさい」 


 いきなり話に加わってきた楓たちを一喝してもどこ吹く風。ここの植物達は杏の味方だし、こっちに勝ち目なんて無い。 


《まあまあ》 

《せっかく来てくれたし》 

《楽しくなるし》 

《いいじゃん、とりあえず皆を紹介してよ》 

《してして》 

「分かった。分かったから」 


 両手でストップをかけて楓たちを黙らせる。植物達が彼女を歓迎してると分かって杏の機嫌もあっさり直ったから、そこで俺はもう一つ尋ねてみる事にした。 


「それなら、お前はあの人とはもう仲良しなんだ。だったら、ハルジオンも昨日は『可哀想』なんて言わなかっただろ?」 


 すると杏は何かを思い出して『あ』と小さく叫んだ。 


「そうそう!あのね、おねえちゃんがウチに来るってわかった時に『もう良いんだよ』って言ってくれたんだ。それと『かえって来たんだから、ようこそ、っておむかえしてあげなさいね』っておしえてくれたよ!」 

「それで、昨日は一緒に帰って来たんだな」 

「うん!」 


 “かえって来た”がまだ分からないが、この調子ならハルジオンの時間もそろそろ動き出すんじゃないだろうか……これは良い機会かもしれない。


「じゃあ、今日の夕方は公園の手入れのチェックをしよう。良いな?」

「うん!いってきまーす!」 


 言うなりランドセルを引っ掴んで飛び出して行く。いつもより30分も早いじゃないか。浮かれっぷりが知れようと言うもんだ。 


「さて、と……」 


 朝食の下拵えは終わってる。客の朝食は8時。暫く余裕がある。
 この間に、クスノキの長老のところへ行ってみる事にした。クスノキなら何か教えてくれるだろう。
 楓たちにはおちょくられるばっかりで話にならないからな。 


--------------


「……という訳で」 

《ほぅ》 

「雑誌記者だと言っているが、あまりそういう雰囲気でも無いし。昨夜は何も聞いて来なかったので拍子抜けした部分もあって……」 

《彼女も今は未だ練習中なのだろう》 

「練習?」 

《書いて伝える事を、だ》

「……」 

《無論、駆け出しのど素人という事は無かろうが、かと言って熟練の域には達しておらん。その点では今までやって来た者どもと大して変わりは無いがな。しかし少なくとも後先考えずホイホイ何でも聞いて済ませようというつもりでは無さそうだて》

「かと言って、したたかという感じでもない」

《そういう芸は無理じゃろうな。まあ、駅前の楡の木の主も彼女を気に入ったようだから》 


 ああ、改装の相談をしてくれたあの店長か。 


《何かアドバイスでもしたんだろう》 

「何の」 

《さあな》 


 それだけ言ってクスノキは暫く黙り込む。無音。だがその気配はゆらゆら楽しそうに揺れてるからこっそり笑ってるらしい。 


「笑い方がいやらしいですよ、長老」 

《主に言われたくない》 


 何だそれは。 


《それより、せっかくやって来てくれたのだ。主が話せるところからで良いから、ちぃっとずつでもここの事を伝えてやるのが良かろう》 


 ちょっと驚いた。クスノキがこんな事を言うのは初めてだ。


「良いんですか?」 

《問題なかろう》

「『かえって来た』というのがピンと来ないんですが」

《彼女は元々この地に深き繋がりのある者だぞ。分からんのか》 

「力足らずで」 


 言い訳なんか通用しないから素直に白旗を掲げる。するとクスノキは枝を楽しそうに揺らして今度は明らかに大笑いした。 


《そうか、主も未だまだという事だな》 

「恐れ入ります」 

《ではヒントをくれてやる。色眼鏡を外せ》 

「色眼鏡?」 

《決めつけておるだろう、彼女の事を》 


 記者だと言う事か。


《主は殊更、ああした人種が嫌いのようだからの。あの子の方が素直だて》 

「杏の反応を信じろと?」

《そう言う事じゃな。それと、おまけでもう一つ》 


 腕組みをして考え込む俺に、クスノキにしては気前良く二つ目のヒントをくれた。 


《後で案内する時には、あの麦藁帽子を貸してやれ》 

「あれですか?」

《そうだ。似合うと思うぞ》

「似合う?」


 クスノキはゆらゆら笑って、そのまま黙ってしまった。こうなったらもう何も話さないのは分かってる。とりあえず礼を述べて家に戻る事にした。そろそろ彼女も起きて来る頃だ。


--------------


 朝食のセッティングが終わった所に彼女が降りて来た。確かに昨日と空気が違う。都会に住む者特有のざらついた雰囲気が薄らいでいる……尤も、彼女は元々アクが強い方でもなかったが。


「……おはようございます」

「ああ、どうも。良く眠れましたか?」

「はい。こんなにすっきり起きれたのは本当に久しぶりです。何だか自分じゃないような昔の自分になったような、そんな感じで」


 素直な感想。ついでに、彼女独特の言い回しに笑いがこみ上げて来る。慌てて後ろを向いて誤摩化そうとしたが、久しぶりの嬉しいような楽しいような感覚に、どうも笑いが止まらない。


「マスター……笑ってるでしょ」

「いや、笑ってませんよ」

「じゃあ何ですかその揺れは」

「気のせいです」


 こんな些細な遣り取りさえも楽しく思えてしまう……不思議だ。


「もう!」


 ムキになった彼女がポーチを振り上げた。こりゃちょっと調子に乗り過ぎたか。


「いやいや、すいません……悪かった」


 慌てて詫びを入れれば、毒気を抜かれたようにポカンとこっちを見つめる。すかさず朝食の案内をすれば素直に食卓についてくれた。更に二言三言、突っ掛かって来るかと思ったが。


《だから素直なんだよ》

《そうそう。ひねくれちゃんより良いじゃん》

「まあな」


 また騒ぎ始めた楓に言い返す気も失せて適当に相槌を打ったら……なぜだか楓たちが静かになった。


《……すなお、だよね》

《うん、素直》

《彼、が?》

《だね》

《何か、さ。ちょっと》

《気持ち》

《わるい》

《よね?》


 五月蝿い。素直が良いって言ったのはそっちだろう。

 彼等のお喋りにこれ以上付き合ってられない。俺は裏口の横にある倉庫に向かった。クスノキの言ってた麦藁帽子を出す為だ。

 その麦藁帽子は、杏の母親の形見。叔母が遺言で教えてくれてた。だが杏はそれを傍に置きたがらなかった……思い出が蘇って辛かったのだろうと思う。だから暫くはと、本人の了解を得てしまっておいたのだ。

 久しぶりに表に出したそれは少し埃っぽく、土の匂いがした。


「風通しだけでもしておくか」


 畑を回るのは10時頃からだから、一時間は干しておける。楓の所に戻って『手伝えよ』と有無を言わさずその枝に帽子を引っ掛け、朝の片付けと昼食の下拵えの為にキッチンに戻った。


--------------


 9時50分。そろそろ案内をと呼びに行く。
 出て来た彼女は硬い表情。何をそんなに緊張するんだと思ったら『カメラを持って行って良いか』とわざわざ聞いてきた。
 ホントに面白いな。普通はこっちが言わなくても持ってくるモンだろ。断っても写す勢いで。記者ってのはそういう人間たちだ。


「ありがとうございます」


 ご丁寧に礼まで言う。調子が狂うじゃないか……いや、それよりも帽子だ帽子。
 日焼け予防だとか何とか言って、麦藁帽子を渡してみれば。


(……そう言う事、なのかな)


 クスノキが言いたいことが分かってきた気がする。彼女が帽子を持った瞬間、杏の母親の気配を感じたのだ。そしてその気配は何の違和感も感じさせず、直ぐに彼女本来の空気と溶け合って一体化した。

 ……3年前にあの子を遺してこの世を去った母親は、彼の能力そのものについては理解してなかったそうだが、それでも『普通の』子供と違う事は感じていたようだ。で、当時ここで店を始めた俺の事を叔母経由で聞いて、いずれは彼を俺のところへ預けようと思っていたそうだ。

 だから杏がここに来たのは必然。けど、母親としてはやはり我が子の事だから、行った先(つまり俺のところ)で無事に暮らしているかどうかは気になるわけで……結局、今まで帽子にくっついていたんだな。

 それが今、目の前の彼女と同化したって事は……やはり、話しても大丈夫という事なんだろう。


「うん、似合う」


 ついと、そんな言葉が滑り出た。
 似合ってる。帽子が……というか、この場所そのものが。


「じゃあ、行きましょうか……こっちです」


 それならクスノキの言った通り、一つずつ話してみるか。土地の事、杏の事。ああ、今朝の件もあるな。だけど、どっから言えば良いんだろう。人間相手だとそれが難しいんだ。

 畑へ向かうには勝手口から出る。出て最初にあるのは、杏に任せてるハーブの鉢植え。俺がドアを開けない内から、ハーブたちが早速騒ぎ出した。


《やったぁ》

《やったね、僕たちが最初に紹介してもらえるじゃん》

《こんにちは!》

《初めまして!!》

《いらっしゃいいらっしゃい!!こちらにどうぞ!》


 ……どこの呼び込みだ、お前等は。

 昨夜の内にあの子がすっかり喋ったんだろう。ハーブは楓たちとも仲がいいし、彼女の事は筒抜けのようだ。
 だがこんな状態のまま紹介したら、彼女が混乱しかねない。


(嬉しいのは分かったが、未だ彼女はお前達の声を聞き取れないんだ。ちょっと静かにしててくれよ)

《えーそうなのー》

《しかたないなあ、今日はそうしておくよ。早く来てよね》

《たまには花を持たせてあげるよ》

《ハーブだけどね!》

《あはは!》


 流石に聞き分けは良いので、恩着せがましいのには目を瞑る。


「最近は一人前に寄せ植えなんてのも覚えましてね、なかなか良いセンスをしてる。自慢の跡継ぎです」


 杏の話題で場を繋ごうとしたが、彼女は困った顔をして黙ってしまった。そうか。俺があの子の父親だと思ってるんだったな。
 そろそろそれも訂正したいんだが……出来れば先に、彼女自身がこの状況をどの程度認識してるのかも知りたい。


「貴女は以前、この街にいた事がありますよね」

「え、どうしてそれを?」


 間違い無いようだ。それなら杏の事を説明して……そうだな、跡継ぎの意味もちゃんと話しとくか。

 途中で再確認すれば、5月に杏が会ったのは15年前の彼女だった。当時、二人が直接話した事は無さそうだ。それなら大丈夫だろう。彼女にも大した影響は出ていない筈……。


《そうか?》


 安心したところを突くように一言、クスノキの声が聞こえて首筋がひやりとする。何かを見落としてるんだろうか……だが、長老はそれ以上何も答えてくれなかった。後は自分で探るしか無いようだ。


「……あの子はちょっと変わった能力があります。それが『跡継ぎ』の条件でもあるんですが」


 どちらに彼女の意識が向くか、様子を伺う。これで完全に拒否反応を示されるようならもっと手前から説明しないといけないが、彼女は『能力』という言葉に反応してくれたので、そちらから話を進める。


「それはどんなものなんですか?」

「草木や動物と意思疎通が出来る事、そしてあの公園の手入れが出来る事」


 ピンと来ないようで首を傾げるから『愛情込めて水やりをした花や野菜は元気に大きく成長する、なんて話を聞いた事はありませんか』と補足説明。それは忘れてしまっているだけで、本当は誰にでもある能力。だから君も当然持っている……と言いたいのをぐっと堪える。


 この地に繋がりのある人……杏の母親も認めて受け入れた人……彼女は、記者のままで良いのか?


《慌てないあわてない!》

《そうそう、それより紹介してよ!僕達の事!!》


 ハーブ園に着いた。待ちくたびれたハーブ達が騒ぎ出す。落ち着け。


「……こちらが杏が担当してる場所です」

《えー、そんだけ?!》

《紹介になってないじゃん!》


 そう言って文句を言うバジルとパセリを、他のハーブたちが宥めた。


《大丈夫だよー、この人分かってる》

《そうそう、自己紹介したほうが早いって!》

《こんにちはこんにちは!!チコリです!》

《こんなオヤジ放っといて、仲良くしてね!》

《私はカモミール!昨日はよく寝れたでしょ?!今夜も良ければどうぞ!》


 何か聞き捨てならない言葉が混じってる。


「杏くんはその能力が飛び抜けてるという事ですか」


 ハーブたちとの密かな攻防には全く気付かず、彼女は質問を重ねる。それに沿って杏の力の説明をしていけば、今度は俺に矛先が向いた。


「マスターも誰かの『跡継ぎ』で、ここに居るんですか?」

「まあ、そうですね」


 自分自身の説明には少しだけ腰が引けてしまう。


「それは……ええと、この土地を継いでいるという事ですか?あの公園とか」


 一般的にはそういう感覚なのか……まあ、確かに土地そのものを引き受けてると言うのも嘘じゃないんだが。


《何だよぅ、いい加減教えてあげたら良いじゃん》

《そうそう、もったいぶらなくてもさあ》

《だいじょぶ、分かってくれるって。この人だったら》

《ちゃんと応援したげるから》


 ハーブは人の気持ちを汲むのが殊更早い。自分の正体(?)をバラしたら彼女が怖がらないだろうか、なんていう俺の小心はお見通し……みんな成長してるな。
 ハーブ達の声に後押しされて、自然と頬がほころんだ。


「まあ、そんなトコですかね。半分くらい正解」


 だが何となく彼女には簡単に答えたくなくて、ついついワンクッション置いてしまう。俺も大概、大人気ないな。


「あと半分は?」


 ムッとした声……あ、またやりすぎたか。


《ほらほら、しっかり説明!》

《誤魔化さないで、ちゃんと、ちゃんと!!》


 そう言ってハーブたちが一斉に俺の背中を押して来た。集団でやられるとかなりのパワーだ。


「自然界の力を借りて、この土地の『時空バランスを保つ役目』を継いでるんです」


 ハーブのパワーは見えなくても、彼女なりに周囲の変化を感じたようだった。呆気に取られた顔で俺を見てる。


《……ちょっとぉ》

《うん。ふふ、おっかしいの》

《森の精霊みたい、だってさ》

《やだあ、だっさい!ねえ?》

《こんなゴツイの居ないよねぇ》

《あー失礼しちゃう!》


 ハーブたちが口々にそんな事を言ってコロコロ笑い転げる。彼女の気持ちを読み取って勝手に暴露して、失礼なのはお前たちだろう。


《だって言ってあげなきゃ分かんないみたいだし》

《そうそう!良いじゃん。ちゃんと「あと半分」を当ててきたんだから》

《正解はほめてあげるんでしょ。いつも言ってるじゃない》


 ぐうの音も出ない……でも確かに、彼女は俺の事を怖がったりしてないと教えてくれているのだから。


「……ハーブ達が皆で笑ってますよ」


 彼等の事を、彼女にも伝えてあげたいと思った。


「ハーブが?」

「ええ。『森の精霊にこんなゴツイのなんか居ない』って。酷い言われ様だ」

《あー、ずるい!》

《僕たちの話バラしてる!》

《紹介はしてくれなかったくせにぃ》


 たちまち沸き起こるハーブたちのブーイング。その向こうから、ゆらゆら笑うクスノキの気配が漂って来た。


《さて、そろそろこちらも紹介してもらおうかの》


 早く畑に連れて来いって事か。長老も相当、会うのを楽しみにしていたらしい。


(すいませんね、お待たせして)

《構わん》

(先にご挨拶を?)

《急かんでも良い。それよりもここの種明かしをしてやったらどうだ》

(時空ポイントの、ですか)

《そうだ。彼女なら主が解説すれば得心するだろうて》


 彼女が畑や山々の様子を眺めてる間に、クスノキと話し合う。


(それにしても、全然私達の遣り取りに気付きませんが……本当に?)

《何だ、未だ疑っとるのか》

(そういう訳じゃないんですが)

《こちらが『発信』を控えておるからじゃろ。まあこれからだて。とにかく説明してやれ》

(……はい)


 一通り眺め終わったらしい。彼女がほぅと息をついた。そろそろ良いか。


「この農地とあの公園は、先代がここまで整備してくれました。どちらも、別の時空との接点になってるポイントなんです。まあ、タイムトンネルの入り口があると思って頂ければ良いかと」

「それ以前は?」

「整備の必要が無かったんですよ。昔の人達は自然の中で生活してたし」

「皆が『交流』出来てたからですか?」


 こう言うところで彼女の勘の良さを感じる。時空ポイントについて勘違いしていた部分は訂正しつつ、この土地の歴史をかいつまんで説明する。

 そして、何故俺達のような存在が現れたのかと言う事も。


「……開発が良しとされ、土地や自然に対する畏怖の念が薄れるに連れて土地が荒れていきました」


 『開発』なんて土地から見れば侵害同然。大半は荒らされっぱなしになるから、それを阻止する管理者が必要になる。
 ここでも、時空の歪みが落ち着く迄にアクシデントが何度もあった。今はかなりマシだが、それでも完全には歪みを抑え切れていない。

 『開発』は終わってない。綻びは僅かながらも常にあちこちで生じてる。だから、植物たちの力を借りて歪みを修正し繕う作業は不可欠……特に、この土地では必須だ。そして、その役割を引き継いで行くのが杏。


「じゃあ、ひょっとして手入れをする人の力が不安定だと……?」


 これまでの説明が繋がったようだ。彼女の理解が一気に進んだのが手に取るように分かった。


「15年前、子供の貴女は一時的にですが時空バランスの歪みに巻き込まれ、どんぐり公園で『今』の杏に会った。言うなれば、貴女は“進み過ぎた地点”に迷い込んだんです」


 そして今日、やっと彼女は『現在』に追いついてくれた……杏のところに。


《よう、戻って来たな。おかえり》


 クスノキが初めて彼女に話しかけた。
 いきなり全て聞き取れる訳じゃない。それでも彼女の裡で変化が始まった事は俺にも感じられた。彼女を取り囲む空気が動揺を伝えてくる。

 なるべく穏やかに、ゆっくりと、俺は『その時』の状況を説明していった。今朝杏と何を話したのかも……公園のハルジオンの事も。


「……新芽の声ですよ。『もう良いんだよ』『かえってきたんだよ』『ようこそ、っておむかえしてあげなさい』とね」


 その間も繰り返し彼女に話しかけていたクスノキの『音』が少しずつ、彼女に響き始めたのが分かる。


《おかえり》

《おかえり》


 音に同調するように彼女の肩が細かく揺れ出したかと思うと、大きな両の瞳から見る間に涙が溢れてきた……うわ、こう言う時はどうすりゃ良いんだ。


「えっと……泣かないで、ね?」


 急いでハンカチを出して渡せば、今度は笑いながら泣いてる。全く、忙しい子だなあ。


《そんな事言っとらんと、早ぅネロリの茶でも持って来てやらんか》


 オロオロしてたらクスノキに一喝された。取り敢えず彼女を木陰に座らせ、俺はキッチンに向かった……俺まで彼女の動揺が移ったんだろうか、動悸がする。

 キッチンに入り、直ぐにポットの湯を沸かしなおす。ネロリとカモミールをブレンドしたハーブティを作り、氷を入れたグラスに注いで一気に冷やした。


「うわっち!」


 グラスから溢れたハーブティが左手にかかり、慌てて手を引っ込めた。熱湯のかかった人差し指が、水で冷やしてもどくどく言ってる。


《ふふ、カワイイよねぇ》

《うん、なんだかね》

《オヤジでも恋すりゃカワイイんだ》

《そうそう。人間ておっもしろーい》


 聞こえよがしに楓たちがそんなお喋りをする。茶化すにも程があるだろ、恋すりゃって……。


「……こいぃ?!」

《あ、やっぱり気付いてないんだ》

《へー、気付いてなかったんだ》

《ニブいねぇ》

《ニブちんオヤジだぁ》

「うっさい!」


 顔が熱くなるのが自分でも分かった。それは、あれだ。つまり。

 ……俺も気に入ったんだ、彼女の事。


「うー……」


 これは困った。このまま彼女の顔なんか見れないじゃないか。
 でも、待たせてるし。それより何より、俺が行ってやんなきゃ彼女が余計に要らぬ不安に駆られるかもしれないぞ。そう自分に言い聞かせ、両頬をバンと叩いて気合いを入れた。


「よし、行くか」

《あー、行ってらっしゃーい》

《頑張れがんばれぇ》

《応援してるからぁ》

《がぁんばれぇ~》


 楓たちがすかさず茶々を入れてくる。お前等、絶対面白がってるだけだろ。

 ……しっかり汗をかいてるグラスを持って戻れば、彼女はさっきと同じく座り込んだままで居た。それでもだいぶ落ち着いてきたようだ。グラスを渡せば『有り難うございます』と受け取り直ぐに口をつけた。


「落ち着きましたか?」

「ええ、まあ……だいぶ。あの、これ……良い香りですね」


 ハーブへの反応が敏感になってる。その変化と順応の早さに驚く……が、その前に彼女が言葉と共に見せた笑顔がとんでもなく可愛く見えて、耳の奥で鼓動がどくんと大きく一回鳴った。
 まずい、どう返せば良いか分からない。


「そうですか、それは良かった」


 やっとの事でそれだけは言えたが、後はどう続けたら良いのやら。気ばかり焦って口を開いても『あ』だの『う』だの間抜けな音しか出て来ない。


「あの」


 おろおろしてたら、彼女が15年前の事について尋ねてきた。そして。


「……友達とか先生とか、何をして過ごしてたかとか、そんな記憶が殆ど無いんです」


 当時の出来事が彼女の記憶を歪ませていたと、初めて知った。クスノキが『発信』を控えていた理由も、それだったのかと思い至る。

 元々この土地と縁が深い彼女の勘が鋭いのは当然の事。彼女の能力は、無意識の内にこの土地と共鳴していた。
 それは俺ももう確信していた。ただその割には肝心な所で微妙にズレるという印象があったが、その原因が彼女の“歪んだ記憶”だったとは。


(だから、ですか)

《そうだ。いきなりやったら混乱しかねないからの》

(じゃあ、彼女の受信回路は今まで閉じていた?)

《然様。それも自ら封じ込めとった。今回は閉じ方が不完全だったのが幸いしたがの》

(何故……)

《子供の頃の事だ。杏と同じく必死だったんだろうて》

「……ああ、成程」


 子供だった彼女には、杏との一件が相当ショックだったんだ。喋った事も無い子からいきなり砂を投げつけられたら驚くだろう。
 恐らく今、俺が思っている以上に。

 でも、彼女は『今も』杏を避けてる訳じゃない、寧ろ可愛がってくれてる。当時の事と今をしっかり分けて受けとめられている。
 だからこそ、記憶は戻せると確信を持てた。


「本当、ですか?」


 記憶は戻せると伝えれば、彼女は期待いっぱいの顔になった。怖がったり嫌がったりはしていない。寧ろ、彼女はそれこそ全力で俺達やこの土地そのものを受け入れようとしてくれている。こんなに前向きに。


《さあ、もう大丈夫だろう。教えてやれ》

(御意)


 クスノキの声を彼女がキャッチしてるのを確認してから、彼女自身の能力について説明する。そして、15年前の杏との件の関係、更に当時の記憶が歪んだ原因と思われる事を話していった。


「それは……確かに、一理ありますね」


 一通り聞き終わると、彼女は呟く様に言う。俺の推測も入ってる話ではあったが、どうやら的外れでも無さそうだ。


「納得出来ますか」

「そうですね。それも有りだろうな、って感じで」


 そう答えながら俺を真正面から見返すその瞳がやけに眩しい。『記憶は戻せる』と言った俺の言葉を心底信頼しきってるその眼差しが、今の俺には……ああ駄目だ、また顔が熱くなりそうじゃないか!


「じゃあ大丈夫。夕方、杏が戻って来たら一緒に公園に行きましょう」


 表面上は冷静さを装って、彼女の頭にぽんと手をのせた……よし、この角度ならこっちの顔は見られずに済む。


「そしたら、残りをご案内します」


 なるべく彼女と顔を合わせないようにしつつ、畑へ案内した。野菜たちも騒ぐかと思ったが、クスノキが今までの遣り取りを中継していたようで、皆そよそよと行儀よく風にそよいでた。
 畝ごとの説明もしてみたが、彼女の返事はどこか上の空。さっきの事が未だ頭の中で整理しきれずにいるんだろう。昼メシの時間も近づいてたから、果樹園は入らずに入り口で説明するだけに留め、家に戻る事にした。
 あり合わせの具でサンドウィッチを作り、ハーブティーと一緒に持って行く。


「大丈夫ですか?」

「あ……はい。多分」


 こりゃ駄目だ。午後に改めて案内をと思ったが、別の機会にしたほうが良いな。夕方まではゆっくりしてもらおう。


「杏も16時には戻って来るでしょうから、余裕を見て17時に集合しましょうか」

「分かりました。えっと、玄関で良いですか?」

「そうですね。玄関で」


 彼女が漸くランチを食べ始めたのを見届け、俺はキッチンに引っ込む……視界の端に、無造作に置かれてる彼女のカメラが目に入った。


《……書いて伝える事》


 クスノキは、そう言った。
 彼女のカメラの腕なんか知らないし、知ったところでどうこう言えもしない。だが、自分自身で受けとめた事を自身の言葉で表現するのが、彼女にとってベストな手段なんだと言う事は分かる。

 写真は、刻々と変わりゆく立体世界の刹那を『永遠』に変換して平面に閉じ込める。その説得力の強さも分かるつもりだし、確かに素晴らしい事だが、その瞬間に歪んでしまうものも無数にあると……彼女は、心のどこかで感じているんだろうか。


--------


「え、おねえちゃんは『きこえる人』なの?」


 帰って来た杏に彼女の事を話せば、目を輝かせてそう聞き返して来た。


「そうだ。だけど『話せる人』じゃないし、聞こえると言っても今は未だ短い言葉がぼんやり聞き取れるくらいだから、お前はきちんと声を出して喋ってあげないと駄目だぞ」

「そうなの?どのくらいきこえてるのかなあ」

「たぶん、お前と同じクラスのあの子と同じようなもんだろう」

「あ、るりちゃんの事?」

「そうそう、その子」

「そっか……じゃあやっぱり、ちゃんと話さないといけないね」

「そうだ。分かったか?」

「うん」


 2年生になって直ぐ、杏は同級生の瑠璃という女の子が自分と同じ能力を持っている事に気付いた。花壇のチューリップと『話している』のを目撃した彼は、当時友達らしい友達が居なかった事もあって嬉しさのあまりいきなりその子に話しかけ、事もあろうに泣かせてしまったらしい。『らしい』というのは、担任から説明を聞いただけで、俺は直接その場を見ていなかったから。

 担任に呼び出された俺は、同じく呼ばれた瑠璃ちゃんの両親にひたすら謝った。幸い二人とも気の良い人達で、杏に悪気があった訳じゃない事は直ぐに理解してくれたし、今も仲良くしてくれていて有り難い。

 後から杏と話してみると、瑠璃ちゃんは『受信』の素質はあるが、本人の自覚は全く無い事も分かった。だから、改めて杏に話して聞かせた。

 誰もが杏みたいに様々な植物の声を聞き分けられる訳ではない事。
 能力を持つ者はいても、そのレベルは様々である事。
 俺や杏のように、『受信』と『発信』の両方の力を持つ人間は更に少ない事。
 そして、彼の能力自体も未だ不安定だから、余計に意識して力をコントロールしないといけないという事。

 それで、杏なりに自分の事を改めて認識したのだとは思う。だが、それから暫くは更に言葉数が減り、人と話す事に臆病になっていた。


(……だから余計に喋れなかったのかもしれないな)


 杏が、子供だった彼女と会ったのは5月だと言ってた。瑠璃ちゃんの事のショックから立ち直り切れずに、未だ人と話す事を警戒し、怖がってた時期。


(このおんなのこはここに居たらダメなんだって気づいて……でも何て言ったらいいかわかんなくて、こわくて)


 怖かったんだろうな。あの頃は本当に。人と話す事が……そして、自身でも掴み切れてなかったその能力が。

 ……でも。


「きちんと出来るな?」

「はい。ちゃんとしゃべります。それと、よーく気をつけます」

「よし」


 一つ季節が進む間に、この子はこれだけ成長した。若竹のように急激に、そして真っ直ぐに。


(男の子は父親の背中を見て育つって……)


 杏の能力は、俺とは桁違い。だから『この土地の管理者』という点では彼の方が適任だ。ただ、未だ子供だから力の使い方やこの街で暮らして行く為に必要な、生活の知恵や人との付き合いを教える人間が不可欠……そう思えば、確かに俺は先達というよりは父親だな。


「……お父さん?」


 そうだ。取り決めをした訳でもないのに、気づけばこの子は俺を『お父さん』と呼んでいた。記憶にも残ってない実の父親を慕う余りの事かと思ってたが……案外、それだけじゃないのかもしれない。


「ん。そうしたら、後で公園のチェックに行こう」

「はい!」

「それと、手入れが上手に出来てたら……」


 杏にも手伝わせて良いだろう。本当は後ろで見てるように言うつもりだったが。


「あの人が子供の頃の『記憶のアルバム』を修理するから、手伝ってくれよ」

「え、いっしょにやって良いの?!」


 ぱっと顔を輝かせる彼に、それでも念押しは忘れない。


「手入れが合格だったら、だぞ」

「はいっ!」

「手伝ってもらうのは『アルバムの台紙を作る』事。気をつけなきゃならないのは?」

「えっと……まっ白の雪、まっさおな空、みどりの森、とうめいな川の水。それだけを思うこと。ぼくの思い出をまぜないこと」

「そうだ」


 本人が封じ込めた記憶を解放させるための、最初の手順。杏くらいの年齢では、未だ理屈で説明するには難しい。だから敢えてイメージで伝え、練習をさせていた訳だが、たまにどうしてもこの子自身の記憶が混入する事がある……ちょっと対策が必要かもしれないな。


--------------


「……お待たせしました」

「いえ、全然」

「じゃあ行こう!おねえちゃん」

「そうね、よろしく」


 17時ジャストに勢揃いして、俺達は早速公園に向かった。杏が彼女の手を取ってぐいぐい引っ張っていく。笑顔で杏のお喋りに付き合ってる彼女の表情は、ふっと不安そうな色を見せる瞬間が会った。
 記憶が戻る事への期待と、少しの不安。葛藤はあって当たり前だ。大丈夫と声をかけてあげたかったが、杏なりの気遣いなのか、いつもの無口ぶりが嘘のようにあれこれと彼女に話しかけているから、俺の入る余地が無い。

 結局俺は彼女と一言も会話を交わす事の無いまま、どんぐり公園に着いた。
 夕暮れの公園は、ひっそりと静かな佇まいを見せている。しかし俺には花壇の草木や樹々の声が次々と聞こえてきていた。杏に話しかけてる花もいる。


《やっと来たね》

《あ、ホントに今日は一人多い》

《クスノキの長老の言った通りだ》

《もう少しで待ちくたびれちゃうトコだったよ》

《朝は枝をはらってくれてありがとう》

《お陰でお日様によく当たれて元気になったよ》


「よし、良く出来てるな、杏」

「うん!今日こそごうかくだよね?」

「さあ、どうかな?」


 早くチェックしろと急かす彼を宥めつつ、手前のリンドウから順番に見て行く事にした。これからの作業を考えれば、より慎重に点検しておくべきだろう。


「すいませんが暫く待ってて下さい。未だ公園には入らないように」

「あ、はい」


 慌てて一歩下がって待機の姿勢。彼女を入口で一人待たせるのは心苦しかったが、チェックが済むまでは仕方無い。


「うん、花壇は大丈夫だな。この前言った事もちゃんと出来てる」

「やったぁ!」

「後は……ほら、ここはちょっと水が足りなかったな。枯れたりはしないが、少し疲れてるだろう?」

「あ、ホントだ。そっか、今日はすごく良い天気だったから」

「そうだ。お前だってこういう日は沢山水を飲むだろう」

「うん、そうだね」


 一応そんな注意はしたが、確かに手入れは良く出来てる。後は植物達としっかり対話しながらやればいけるだろう。


(では、この子に公園の管理を全て託そうと思います)


 俺は、公園の最古参であるケヤキの木に承諾を求めた。


《良かろう》

(ありがとうございます)

《しかし主も大概、心配性だな》

(万が一の失敗も許されませんので)

《案ずるな。もうお前の跡継ぎはこの地にしっかり根付いておるわ》

(恐れ入ります)

《それでも気になると言うなら……そうだな、新月の夜ならば来ても良し》

(夜、ですか)

《そうだ。主一人でな》


 言ってケヤキがゆったりと枝を鳴らす。それを見て杏が期待に満ちた目で俺を見た。


「……お父さん、ごうかく?」

「ああ」

「やった!」


 嬉しさで舞い上がる杏に、俺はすかさず釘を刺す。


「合格という事は、今後俺は一切口を出さないという事だからな」

「……あ」


 途端に表情が曇る。こういう所はまだまだ。だが真の責任感は、これから徐々に持っていくしかない。


《……案ずるな、困った時には儂に聞け。分かったか?》


 すかさず、ケヤキが杏に語りかけた。


「あ、はい。分かりました」

《公園の事、よろしく頼む》

「はい。よろしくお願いします、ケヤキのおじいちゃん!」


 ケヤキから直々に話しかけられ、杏も深々とお辞儀をする。その様子を見てケヤキがふぉふぉふぉと満足そうに笑う。子供好きな好々爺の顔がちらりと覗いた。


《……さ、そうしたらお客人の一件も早くすっきりさせてやろうかの》

(はい)

《わたしもお手伝いさせて下さい》

(……ん?)


 ケヤキとの会話に割り込んで来た声は。


(ハルジオン?)

《はい》


 例の、時を止めているハルジオンの新芽だ。話をするには問題無かったが……やはり、春から姿が全く変わってない。


(まだお前の時間は動いてないのか?)

《はい、あのままです。でも彼を怒らないで下さいね》


 俺の考えを見越したように、ハルジオンがそう言って来た。しかしこのままというのも……。


《いえ、大丈夫です。わたしの時間はもうすぐ、ちゃんと動き出す筈です》

(どうしてそう言い切れるんだい?)


 杏だけのせいではない?


《あの人が戻って来てくれたからです》

(……彼女が?)

《はい。あの人の記憶が戻れば、わたしの時間も動くのです》


 ハルジオンと彼女の時間が共鳴を?


(まさか、彼女の記憶を封じたのは……)

《わたしではありません。あの人が自分で記憶を封じました。それに気づいた私も、自分で自分の時間を止めたんです……時が満ちて、あの人が自分の意志でここに来てくれるのを待つために》

(では、杏が彼女に砂を投げつけた時に『可哀想』と言ったのは?)

《時空に迷い込み、記憶を自ら封じなければならない程に悲しい思いをしたのが可哀相だったので……小さかったから仕方無いとは言え、やはり辛いだろうなと感じて、思わず言ってしまったのです》


 あの言葉は彼女に対してのものだったのか……杏を非難したのではなく。

 彼女が来てくれたから、ハルジオンもやっと杏に言えたんだろう。『もう何も気にしなくても良い、心配しなくて良い』と。
 そうでなければ、そんな言葉もただの慰めにしかならなかった筈だ。ハルジオンも、一緒にずっと待ってくれていたんだな。


(そうか、分かった)

《では早速》

(いや、あと一つ聞きたい事があるんだが……)

《何でしょう?》

(さっき『時が満ちて』と言ったが、今がその時という事なのか?)

《そうです》

(何の?)

《直ぐに分かるわ。あまり待たせんと、早う戻してやれ》


 焦れたケヤキがとうとう口を挟んできた。慌てて彼女を呼び寄せる。


「お待たせしました。どうぞこちらに」

「おねえちゃん、こっちこっち!!」


 杏も両手をぶんぶん振って彼女を呼んだ。ハルジオンと俺は素早く手順の打ち合わせをする。


《あの人の右隣に彼を。その右に貴方。わたしの左側が貴方で、右側があの人という位置関係するのが良いかと思います》

(そうだな、共鳴関係があるのなら、お前と彼女が直接繋がった方が良い)

《パワーの流れる向きも安全度が高いと思います》

(……俺と杏の位置は逆の方が良くないか?)

《貴方とあの人が手を繋ぐと?》

(今言った並びだと、杏の記憶が彼女に逆流する可能性がある)

《貴方程の能力者がついていれば大丈夫でしょう》

(しかし万が一という事も)

《今は、貴方の雑念があの人に伝わる方が問題ですよ》

(……)


 打ち合わせは……まあ、しっかり言葉に起こせばこんな感じだった訳だが。
 その間に彼女がやって来たので、早速紹介する。


「その足下にあるのが、昼に言ってた新芽です」


 指差す方向をじっと見て、彼女は『ハルジオン?』と呟いた。


「そうです。ご存知でしたか?」

「いえ。今、なんとなく」


 俺は『新芽』としか話してなかった筈だ。やはり受信の能力は戻りつつある。
 杏がその様子を目の当たりにして『ホントに聞こえるんだ!』と嬉しそうに彼女を見上げた。


「じゃあ、やりましょうか」


 彼女に座ってもらうように指示を出し、俺達も膝をついて座る。
 杏とまず手を繋いでもらい、俺も彼の右手を取る。そして自分の右手をハルジオンの葉に触れた。準備完了だ。


「では、貴女の左手でこの新芽に触れて下さい。それで記憶が戻ります」

「え、それだけ?」

「はい」


 手順のあまりの簡単さに拍子抜けしたんだろう、キョトンとしたその様子が何だか可愛らしくて思わず頬が緩む……いかんいかん。
 杏の記憶が彼女に流入する可能性を伝えて、俺自身も気持ちを引き締める。ハルジオンは大丈夫だと言ったが、僅かでも有り得る事ならば伝えておくべきだ。無事に彼女からの了承も得て、後は彼女のタイミングでハルジオンに触れてもらうだけになった。


「大丈夫よ。私もちゃんと、自分の事思い出すわね!」


 杏にそう声を掛けてから、彼女はゆっくりと葉に触れた。そして。


(!)


 一瞬の出来事だ。閉じていた彼女とハルジオンの時間の扉が同時に解き放たれ、止まっていた時間が動き出す……いや、それだけではなかった。

 二人の時間が動き出すのと同時に、公園内に数カ所残っていた時空の歪みが完全に修復されたのだ。


「だいじょうぶ?おねえちゃん」


 彼女の右手を杏が握る。くそ、また先手を取られた。


「気分はどうです?何ともない?」

「あ、んーと……そうですね、まだはっきりとはしないんですけど、今までは奥底に沈んでたモノがゆっくり水面に浮かび上がってきてるような、でもまだ中途で漂ってるような……そんな感じがします」


 大丈夫そうだな。長い間封じてた記憶だから、元通りに彼女の中に定着するには少し時間がかかるのが普通。


「ああ、でも少しずつで良いですよ。明日にはすっきりするだろうし」

「そうなんですか?」

「はい。いきなり全て思い出して混乱しないようにしてるんでしょう」

「え、それもマスターが?」

「いえ、それは貴女自身が自動的に行なってる事です。誰でも同じだとは思いますが、一種の防御反応みたいなもんです」

「はぁ」

「明日には戻ってる筈ですから。まあ、楽しみにしておいて下さい」


 これで記憶を戻す作業は終了。彼女も安堵したんだろう、ほぅと息を吐きながらハルジオンに目を留めた。


「あ」

「ああ、戻りましたね」

「ほんとだ!良かったぁ!!」


 ハルジオンは、もう花を咲かせていた。


(早いな)


 『もう大丈夫』と彼女に話しかけてるところへ割って入れば、直ぐに答えが返ってくる。


《本来ならとっくに咲いてる時期ですから》

(まあ、確かに)

《それにこの場所も、夏が完全に終わる前に安定させたいと言ってましたよね?》


 ……杏に公園の管理をバトンタッチした時、彼の能力は不安定そのものだったから、この公園の時空は当然、安定性が一気に落ちた。そこから手入れをしながら能力を強化し、力のコントロールが出来るようにして行くのが最初の訓練だった。
 安定を取り戻すには半年が目処と考えていたが、既に8ヶ月が過ぎようとしていたから、俺が焦っていたのも事実だ。


(まあ、彼にも色々あったし。今回みたいなイレギュラーもあったから仕方無いとは思ってる)

《いえ、彼は順調に後継者として力をつけていましたよ》

(開花が二ヶ月オーバーしてたのに?)

《最近の異常気象を思えば大した事ないです》

(手厳しいな)

《どういたしまして》


 褒めてるんじゃない。


《さて、これでもう解けたんじゃないですか?》

(何が?)

《貴方のもう一つの疑問です》


 『時が満ちた』という、あれか。


(ああ。俺以外にも、彼のフォローをしてくれる存在が彼女だったって事だな?このタイミングで来てくれたのも納得が行く)


 この地に深い繋がりがある人。杏に大きな変化を与えてくれた人……彼は、確実に明るく、意欲的になった。
 更にさっき、残っていた公園の時空の歪みが一気に解消されたのもそうなんだろう。彼女とハルジオンの共同作業が必要だったんだ。

 この公園には彼女の力が必要なんだな。だが15年前の子供のままだったら杏のフォローには入れない。だから今こうして、ここに来てくれたんだ。

 杏のところに。


《……長老》

《何だ》

《どうしたら良いんでしょうか、この場合》

《仕方無い、ここまで鈍い奴にはなかなか、な》


 ケヤキとハルジオンがボソボソそんな事を話してる……俺、何か変な事言ったか?


《……あのな》

(はい)

《本当に分かってないのか》

(何をでしょう)


 はあ、とケヤキの枝が一瞬脱力したように見えた。


《主は彼の母親の帽子を彼女に渡しただろうが》

(はい)

《なら、見ただろう?》


 母親の気配の事、か。


(はい。すんなり受け入れられたようで)

《彼女は彼の母親にだってなれるのだぞ?》

(有り難い事じゃないですか)


 そう言う意味があったのかと納得する俺に、ケヤキはまた溜息一つ。


《……救いようの無い鈍感者だな。彼が父親と慕ってるのは誰だ。主も彼女には好意を持っておろう》


 ……あ。


「良かった、ホントに」


 絶妙なタイミングで彼女のそんな呟きが聞こえ、俺は大いに慌てた。


《何を焦っておる、未だ彼女には聞き取れはせん。落ち着け》


 そう窘められ、辛うじて笑顔を返す……心の中で冷や汗を拭うと、杏がそっと俺の手を握ってきた。


(ぼく、とってもうれしい!おねえちゃんがあたらしいお母さんになってくれるんだね?)


 掴んだままの手を通して、こっそり話しかけて来る。洒落た事が出来るようになったじゃないか。


(本人が良いと言ってくれたら、そうなるかもしれない)

(えー)

(だってこればっかりは本人の気持ちが大事だろう)

(何で?これってお父さんとおねえちゃんが『ふうふ』になるってことでしょ?だったらお父さんのきもちもだいじじゃないか。お父さんが何とかして!)


 ちゃんと意味分かってんのかな、コイツ。
 でもこれには参った……俺の気持ち、か。


--------------


 記憶が戻りきるまでは意識がぼんやりしがちだし、こっちから関わり過ぎない方が良いから、夕食は部屋でとってもらう事にした。
 杏はすっかり新しい母親が出来ると信じて疑わない。喜び勇んで食事を運んだり洗い物をしたりするのは助かるんだが。


(だからって、そうホイホイと話が進むかってぇの)


 俺を手伝いながら周りをうろちょろして、いつ俺が彼女に話しに行くかと様子を伺ってるのが丸分かり。夜も9時を回った頃、とうとう痺れを切らして聞いてきた。


「ねえお父さん、まだおねえちゃんに言わないの?」

「……あのなあ、杏」

「はい」

「彼女は、未だ記憶のアルバムが整理出来てないんだ。今はアルバムの上に沢山の記憶が散らばってる状態なんだぞ?」

「……うん」

「もしそれがお前だったら、どんな事になると思う?」

「きおくをあつめたり、ならべかえたりして……頭がいっぱいになっちゃう?」

「だろう」

「うん」

「そんな時に、他の事を同じように一生懸命考えられるか?」

「ううん……ムリ。そうだね、ムリだよね」


 とりあえず納得はしてくれそうだな。


「じゃあもう、今日はおねえちゃんのおへやには行かないの?」

「行かない」


 今から行ったら別の意味で問題だ。


「そしたら、あした言うよね?ねぇ、お父さん?」


 それでも杏は必死で食い下がって来る。確実な何かが欲しいんだろう。

 今の彼女はまだ、取材を兼ねて泊まりに来た単なる旅行客。取材が本人の予定通りに進んでいるのかは分からないが、一応ここの概要は話したから、記事を書こうと思えば書けるだろう……もし、明日帰る事になったとしても。

 彼女は、明日の夜も居るとは限らない。


「ああ、必ず言うよ。お前が学校から戻る迄には返事をもらっておく」

「ホント?」

「但し、返事がマルとは限らないぞ?それだけは覚悟しといてくれよ」

「えー」

「えーじゃない」


 俺の気持ちは伝える。でもやはり、彼女の気持ちが最優先だ。


「はい……でも、がんばってね、お父さん!」


 言って、杏は拳をぐいと振りかざした。


--------------


 さていつ言うか、どうやって話を持って行ったら良いものやら……つらつらと考えてる内に夜明けがやって来た。
 これはもう眠れそうにない。さっさと起きて庭と畑の手入れをして、店の掃除をして杏の朝食を作って杏を送り出して、それから改めて彼女と俺自身の分の朝食を作り始める。

 もうすぐ8時になると言う頃、彼女の足音が聞こえて来た。
 何だか慌ただしい。

 ばたばたと足音が近づくにつれ、俺の心臓もばくばく跳ね始めた。ああ何て言えば良いんだ!


「マスター!!」


 彼女は血相を変えて飛び込んで来て、俺の心配は一瞬で吹っ飛んだ。どうやら記憶が戻ったようだが、ちょっと落ち着かせないと。


「お早うございます。どうかしましたか?」


 俺は、敢えてのんびり言葉を返してみたが。


「記憶が……記憶が!!」

「戻りましたか」

「それどころじゃないわ、芋づる状態よ!どんどん出て来るの!!」


 ……記憶が。
 芋づる状態。


《あっは!やっぱこの人サイコー!》

《良いね!分かりやすいったら》

《あははは》

《うっはははは!》


 楓たちがバカウケしてる。そんなに笑ったら失礼だろう……そう思いながらも、俺自身、妙に的確でありながら笑いを誘うその表現に、腹の底からふわふわと涌き上がるものを押さえ切れずにぶはっと噴き出してしまった。


「ちょっと、マスター!!」

「っはい……いや、すいません……っはははっ!!!」


 もう、と膨れっ面になる彼女を見て、またついつい笑ってしまう……ああ、こんなに声をあげて笑ったのなんて何年ぶりだろう。

 心が、暖かい。

 ……それから暫くは笑いが止まらなくなってしまった。幸い(?)彼女はぺたりと座り込んだまま、戻り続ける記憶に気を取られてくれてたから助かったが。

 30分くらいして、漸く彼女も落ち着いて来たようだった。


「じゃあそろそろ朝食にしますか」

「あ……ハイ」


 返事を受けて俺はキッチンに向かう。その拍子に気が緩んで、また笑い出しそうになるのを必死で堪えた。


「もう……そんなに笑わなくても」

「笑ってませんもう笑ってません」

「ウソ」


 落ち着け、笑うな俺。話題を変えないと駄目だ。


「大丈夫だいじょうぶ……それよりも」

「え?」

「今日はどうしますか」


 記憶が戻った今、本当は改めて彼女に端から端まで見て貰いたい。


「昨日は色々予定外な事で一日終わってしまいましたからね。見たい場所があればご案内しますが」

「そうですね……」


 少し待ってみたが、どうやら考えが纏まらないらしい。急かすのは止めて、先に朝食の仕上げだ。トーストとベーコンエッグを作り、冷蔵庫からサラダとヨーグルトを出してトレーに二人分セットした。


「まあ、食べながら考えて貰ったら良いですし」

「はぁ」

「……ご一緒させて貰っても?」


 杏が居ないと、こんな一言でも緊張して声が上擦りそうになる……さり気なく、さり気なく。
 幸い彼女は嫌がらず承知してくれた。


「いただきます」

「はい、どうぞ」


 トーストを口にした彼女の顔が、ぱっと輝く。


「わ、あまい」

「でしょう」

「自然の甘さですよね。しかも噛む程に甘みが広がる」


 味覚も確実にクリアになっている。どんどんこの土地に馴染んでいる証拠だろうな。


「契約先の農家で作ってもらった小麦が原料ですからね、格別です」

「それとこれ、全粒粉も入ってますよね?健康にも良さそう」

「無農薬の小麦をそのまま製粉してます」


 聞かれる侭答えていく。ちょっとした食材談義だ。


「そう言えば昨日は枝豆がありましたよね。あれも此処の畑で?」

「そうです」

「このベーコンや卵は?酪農まではされてないですよね?」

「鶏は何羽か飼ってますけどね」


 質問の方向が変わり始めた事に気付く。次に宿や喫茶店経営の話を聞かれて、あぁ取材モードに入ったなと合点がいった。と言う事は。


「……こうした地産地消の活動を広める為に始めたんですか?」


 今の世の中、こういう事をやっていれば大概そんな言葉を掛けられる。特に若い世代は(こんな言い方だと俺がジジイみたいだが)カタカナ文字でエコだのロハスだの。そうやって、言葉の狭い枠に全てが閉じ込められて行く。
 読者受けを狙うからだろうが、記者達は目の前の事象を自分達の都合の良い言葉に置き換えてしまう。それが俺には我慢ならない。

 だが、今尋ねてくれているのは彼女だ……やっと俺達の世界に追い付いてくれた人。
 彼女にだけは、ここを彼女自身の感覚で見て、聞いて、感じ取って欲しい。その回線は既に開かれたのだから。


「……地産地消?」


 既成概念に囚われないで、耳に心地良い音に惑わされないで……祈る思いで彼女の言葉を鸚鵡返しすれば一瞬怯んで言葉に詰まった。


「ひょっとして、こっちに来られる前にどんな話を聞いてましたか?この土地の」


 ケンカをふっかける訳じゃないから、出来るだけ穏やかな口調で。そうしたら何だか少しだけ杏を諭してるような気になって、そんな事を思った自分にまた笑いが込み上げる。


「……うちの編集長からなんですが」


 言葉を探していたんだろう、暫く黙った後に彼女はゆっくりと話し始めた。曰く、所謂エコ活動の一環でこんな店をやってると上司から聞いたらしい。


「まあ、このご時世ならそんな風に受け取られるのも妥当なところでしょう」


 実際それ自体に悪いイメージがある訳でもないから、個人的にそう思っておいてくれるなら構わない。だが『そういう場所』として宣伝されるのは困る。

 本質は違うのだから。


「……記事にされるのは嫌ですか?」

「絶対に嫌なら、そもそも取材依頼を頂いた時点で断ってますよ」


 だからと言ってここを秘境めいた場所にする気も無い。主旨を違えずに書いてもらえるのなら、それはそれで良い。ただ現実には、それが予想を超える難しさだったわけで。
 それでもクスノキが『たまには取材を受けてみろ』と言うから、取材の条件をタイトにしてみた。連泊する事と、きっちり宿泊費用を払ってくれる事。これだけでぐっと取材の申し込みが減ったのにも、最初は驚いたけどな。


《だから『色眼鏡を外せ』と言うただろう。もう主の中で答えは出ておる》


 クスノキの声が聞こえた瞬間、俺の中でずっと落ち着かなかった何かがストンとあるべき位置に収まった。

 俺は『ここを分かってくれる記者に記事を書いてもらいたい』わけでも『記者である彼女に取材して欲しい』わけでもない。彼女自身の言葉で、ここの事を周囲に伝えていって欲しい……そうだ、つい今しがた思ったじゃないか。ここを彼女自身の感覚で感じ取って欲しいと。


「貴女自身はどうですか?ここの何を記事にしたい?」


 昨日、あった事。見た物。感じた事。自然からのメッセージ。


「前情報から抱いたここの印象と、今の貴女がここに対して感じてる事……それは同じ?」

「いえ……かなり違うと思います」

「思うだけ?」


 彼女の考えは読み取れない。だからこそ音で、言葉で、教えて欲しかった。
 記者としてではなく、彼女自身がどう思い、何を感じ、どうしたいのか。そして、それは今俺が願っているものと同じであってくれるのか。

 2・3の問答の後、彼女は緊張と……恐らくは内心で激しい葛藤を繰り返したために頬を紅潮させながら、途切れがちに……それでも最後まで自身の考えを語ってくれた。


「……ここでされてる事も活動の一つの形として記事にしようと思いました……でも……今までに見せて頂いた事や体験した事や……杏くんの事を思うと、これまでみたいには……書けません」


 もう駄目だ。俺は彼女を手放せない。


「慌てて書かなくても良いんじゃないですか」

「でも、期限が」

「会社のでしょう?貴女のじゃない」


 そう切り返せば、彼女は泣きそうに顔を歪めて黙り込んでしまった……ああどうしたら良いんだろう、彼女を困らせたい訳じゃないのに。
 我ながら聞き分けの無い事を言ってるとは思う。でも、それでも。


「貴女は自然からの言葉を受けとめ、言葉で人々に発信する才能がある。そして私達の生活と、何よりも杏の事を理解してくれる」


 これは本音だ。


「今まで取材に来た人達は、この土地や私達を理解する気など無かった……やっと、この地域の方々とも連携が取れるようになってきたんです。地味で良いから着実に、この土地の事を理解してくれる人を増やし、杏が安心してここを守って行けるようにしたい。それだけなんですよ」


 その最大の理解者である貴女に、傍に居てほしい。
 どうか気付いて。


「そして……貴女もね」

「え?」

「良き理解者になってくれると、そう確信してるんです」


 言葉はこれが精一杯だった。言いながらこれじゃあ押しが弱いと気付いて、せめてもと俺なりに目一杯の笑顔を送ってみたんだが。


《あーもう!》

《何でそこで終わっちゃうんだよー、全然足んない!!》


 すかさず楓のブーイングが来た。これでも足りないのか?


《あったりまえ!そんなんで分かってもらえる訳ないじゃん》

《二人とも、おんなじようなトコでニブいんだからさあ》

《あーあ、空振りー。ざ-んねーん》

《だねー》


 そんな辛口コメントを証明するかのように、彼女は『あ……どうも』と言ったきり、トーストを黙々と食べる。はぁ、振り出しに戻っちまったか。


「……今日はゆっくりして下さい。記憶も戻ったばかりだし、考えを纏める時間も必要でしょう。私は畑に居ます。ハーブ園でも畑でも果樹園でも、好きに見て頂いて結構ですから」


 また後で、彼女が外に出て来たら改めて告げよう。そう決めて、先に食べ終わった俺は皿を持って立ち上がった。


「写真は?」

「どうぞご自由に」


 もう何も気にせず撮ってくれたら良い。寧ろ何でも撮ってくれ。ハーブも野菜も楓も長老たちも喜んで応じてくれるに違いないから……。


「それと、マスターのお仕事の様子も撮って良いですか?」


 ど、と心臓が一回大きく打った。チクショウ不意打ちだ。


《あ、チャンス来た!》

《きたー!!》

《もう、言っちゃってよー早くー》


 楓たちに両側から肘でウリウリされてる気分だ。悔しいが、これ以上悩んでいる場合じゃない。最後のチャンス。


「……あの」

「構いませんよ、撮ってもらっても」


 せめてあと一言、言わないと。伝えないと。
 このまま彼女が帰ってしまったら、もう引き留められない。


「……良ければこれから先も一緒に居て、ずっとここを撮って下さい」


 気は焦るのに、結局言えたのはそんな言葉。おまけに彼女のリアクションが怖くて顔を見られない。
 言った後の沈黙に耐え切れず、頭をがしがし掻いていたら。

 ず、と鼻をすする音が背後から聞こえた。


「え?!」


 まさかと彼女を見たら、また両目から涙をボロボロ零して泣いていた。


「え、あ……あのその悪かった、勝手な事を言いました。その……」


 やはり駄目か……そう思って無礼を詫びようとした俺に、彼女は首を横に振り。


「いいえ、びっくりして……でも、何だか……嬉しいんです。これ、嬉し泣きなんです」


 そこまで言うと今度は俺の腕にしがみついてワンワン泣き出して……今回はハンカチを出す間も無かった。


---------


「……大丈夫ですか?」


 食べかけだったサラダが干涸びるんじゃないかと思い始めた頃。
 やっと彼女の肩の震えが収まり、俺の声かけに反応してくれた。だが。


「はい……いえ、あの、あんまり大丈夫じゃない、かもしれません……」


 戻って来た記憶と、俺のいきなりの爆弾発言と。
 そりゃそうだろうなあ……。


「あの」

「……はい」

「もう一度、言わせてほしいんですが」

「はい」

「さっき言ったのは、本当の私の気持ちです。本音です」

「はい」

「それで、ここで私と一緒に暮らして、その……出来ればいずれけ、けけ結婚して欲しいと」


 ああ、何で一番肝心なとこで吃るんだ俺。


「……杏くんは、何て言ってますか?」


 暫くして、彼女がおずおずと聞いて来た。一番気になる部分だろう。


「喜んでます。貴女が新しいお母さんになってくれたら嬉しいと……そう言ってます」

「そうです、か……」


 一言呟いて、彼女はそれきり涙目のまま黙ってしまった。そして『部屋に戻ります』とぼそっと言って、ふらふらと階段を上って行った。途中で二度躓いてたが、気付いてもない。


「……まいったなあ」


 と、すかさず楓たちがぎゃーぎゃー騒いだ。


《でも言えたじゃん》

《そうそう、伝わってるっぽかったよね》

《後は『果報は寝て待て』って事で》

《あ、でも寝てらんないよ》

《そうだったそうだった》

《果報かどうかも分かんないけどね》

《そうだったそうだった》

《取り敢えず畑行かなきゃねー》

《だよねー》

《がんばれー》


 んな事言われて頑張れるかよ。


---------


「ただいまあ!」


 惰性でいつもの作業を黙々と進めていたら杏が帰って来た。もうそんな時間か。


「ねえお父さん、おねえちゃんに言ってくれた?」


 いきなり本題。見るな見るな、そんな期待に満ちた目で俺を見るんじゃない。


「……言ったよ」

「そうなんだ!ねえ、おねえちゃんはそれで何て言ったの?」

「んー……」


 嫌がられた訳じゃない。嬉しいとさえ言ってくれた。だが、それがイコール受諾とは言えない……。


「まさか、ダメだったの?」

「いや、そうじゃ無いけどな」


 何と言ったら良いんだろう。とにかく、俺にはもう手持ちの駒が無いんだ……と、それまで黙ってた楓たちがいきなり話に加わってきた。


《そうそう、お父さんはもう言える事は全部言ったんだよ》

《“ふうふ”どうしの話は終わってるから、後は“むすこ”になる人が言わなきゃね》

《キミもあの人にちょくせつ言ってあげなよ》

《君が言えばチョロいもんさー》


 口が悪いな。子供にチョロいとか言うな。


「ぼくの、ことばで?」

《そうそう!ハルジオンも大丈夫だって言ってたじゃん》

《前の事は気にしなくて良いんだよ。お母さんになる人に遠慮するなんてオカシイさ》


 杏の中で、前の事が未だ引っ掛かってるのかもしれない。そして彼女も……少なくとも、彼がどう思ってるのかを殊更気にかけていた。
 そうか……遠慮か。

 楓たちの思惑が何となく見えて来たから、俺も彼の背中を押してやる。


「そうだな。お前からも言っておいで」

「ぼくが?」

「そう。俺達は三人で家族になるんだからな。お前も、あの人にお母さんになって欲しいなら、そう言えば良いんだ。 
 お前はもう大丈夫。ちゃんと言葉で伝えられる」


 不安顔な彼の頭を撫でながらも、俺から手を離してやる。
 これは確かに俺の問題でもあるが、同時に杏の問題でもあるんだ。人と意思疎通を図るのに、いつまでも俺を頼ってちゃ話にならない。


「……うん、わかった」


 半分は渋々、半分は恐る恐るといった様子で杏は階段を上って行った。その時間が俺にも重くのしかかる、それこそ1秒が10分にも1時間にも思える程に。

 じりじりと待つ。恐らく実際には数分だっただろうが……そして。


 『わあい!!』という杏の歓声が階上から聞こえて来て、途端に俺は廊下にべったりと座り込んでしまった。
 何てこった、腕すら上げられなくなるなんて。


---------


 翌日の彼女の行動は早かった。実家の両親に連絡をして(直ぐにOKを出す彼女の両親というのも凄い人達だが)、次に駅前のレストランの店長に挨拶に行く。
 夕方に戻って来た時には、ちゃっかり取材を一本取ってきていた。何とまあ、大した手腕だ。


「それで、明日は?」

「上司に連絡を入れます。今後の事……っていうか、退職の話をしようと思って」

「そこまで?良いんですか?」

「自分でもビックリしてるんですけども」

「会社としても唐突でしょう」

「そりゃもう。でも丁度、この後の担当記事が決まって無かったんです。だからまだマシなんじゃないかなと……それに」

「それに?」

「私も、一日も早くここで暮らしたいし」

「え?」

「あの!その、この街に住みたいなって……本当にそう思って」


 頬を染めて大慌てで言い繕う。またじんわりと、胸の奥が暖かく幸せな気分になった。


「では是非。もちろん、宿代なんて野暮な事は言いません。昨日までの分もね」

「え」

「貴女の家です、自由にして下さい」

「やったあ!おねえちゃん、そしたら明日はおねえちゃんのおへやを決めようね!」


 杏が早速その話に飛びついて大喜びする。そんな彼の頭をよしよしと撫でる彼女も嬉しそうだ。


「うん、そうね。学校から帰ってきたら手伝ってね」

「うん!」


---------


 翌朝、彼女は一番で会社へ連絡を入れ、俺はじりじりと待つ事10数分。
 漸く、電話を終えた彼女が階段を下りて来る音がした。


「どうでした?」


 待ち切れずに結果を聞けば『とりあえずOKです』と返って来る。


「そう。それは良かった」


 言いながら自分の頬が緩んで行くのが止められない。嬉し過ぎて、次に何を言ったら良いかも分からない。


「……ちょっと外出してきます」


 ふいと視線を逸らし、彼女はそんな事を言った。ひたすらニヤニヤしてる俺は、変なオッサンだと思われているかもな。


「取材?」

「散歩!」


 照れ隠しに混ぜっ返せば、彼女も即座に言い返して来た。真っ赤な顔で。


(そうか、照れくさいのはお互い様だな)


 じゃあ彼女も今、俺みたいなふわふわした気持ちになってるのだろうか。そう思ったら、また笑いが込み上げてきて仕方無い。


「行って来ます!!」

「はいはい」


 麦藁帽子を掴んで駆け出す背中が、それでも楽しそうに弾んでる。きっと午前中は、戻った記憶と一緒にこの街を一巡りしてくるんだろう。


《あ、早速だね》

《ホントだ。みんな大喜びだ》

《そりゃそうだ。戻ってきてくれたんだもんねえ》


 楓たちのお喋りに合わせるように、近所の樹々の歓声が聞こえて来た。それだけで、彼女が今どの辺りを歩いてるかが分かる程だ。


《めでたいねえ》

《めでたいめでたい》

《お祝いだねえ》

《お祝いお祝い》


 浮かれる楓たちの声を聞きながら、勝手口を出てクスノキのところに向かった。行けばクスノキは面白そうにゆらゆら笑っていた。


《良かったのう、すれ違ったままにならずに済んで》


 笑いながらも開口一番、キツい一言。


「その……どうも、ありがとうございます」

《これでこの地も一層安定して正しく栄えるじゃろうて。大事にしてやれ。主の為にも、彼女自身の為にもな》

「御意。この土地と同じく……いやそれ以上に、命の限り守り大切にします」

《よし》


 無事承諾を得てホッとした俺に、クスノキが更に言葉を続けた。


《それと、ケヤキから言伝だ》

「何でしょう」

《『前言撤回。新月の夜は二人で来い』と。忘れるな》

「承知致しました」


 一礼して踵を返し、作業道具を取りに倉庫へ向かう。
 次の新月は来週。それまでに、出来るだけ彼女の生活環境を整えてあげたい……まあ、あの様子だと引越しやら書類手続きやらは手際良く済ませてきそうだが、荷物運びくらいは手伝わせて貰わないと俺も格好がつかないぞ。
 そうそう、その前に先ずは今夜の部屋決めからだな。


「……賑やかになるのも、良いもんだ」


 一つ伸びをしてから道具を抱え、俺は畑に向かって歩き出した。


(了)


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