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人様の合理性ぐらい放っておけよバカものが

 茨木のり子さんの、「自分の感受性ぐらい自分で守ればかものよ」で終わる合理的且つ情緒的な詩が好きだ。

 自分の感受性くらい

ばさばさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさなを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性ぐらい
自分で守れ
ばかものよ

 茨木のり子

 全てを自己で完結する。なんて合理的な考えなんだ。
 読み手の感情に強く訴えるもの凄い情緒的な詩でもある。
 
 つまり、この詩は感受性も合理性も大事なんだよと私は解釈してる。

 別に合理主義者ではないと自負しているのですが、自己責任の塊みたいなこの詩が大好きです。好きな理由の根源には私自身が、自己肯定感の低いばかものだという自負が強くあるからだ。

 自身のツイートや過去のnoteでは、政治家や専門家やインフルエンサー、そして企業等、自分以外の人様を批判しながら自己責任を回避している自己矛盾論者のルサンチマン等々と、、、己を卑下する言葉はどんどん湧き出てくる一方で、自らを奮い立たせる言動も行動もない現状に、喝を入れてくれるのが茨木のり子さんのこの詩だ。(この詩が今あまりピンと来ない人は、感受性も合理性もコントロール出来ているバカものじゃない人だと思います)

 感受性も合理性も極められない中途半端な自己責任論者且つ自己矛盾論者の自分が、「自分の感受性ぐらい自分で守ればかものよ」から、今の時代に想起した言葉がタイトルの、「人様の合理性ぐらい放っておけよばかものが」です。

 最近、度重なる有事下でも経済合理性を追求するあまり合理性バカになった一部の超合理主義者が、日本の日本人の経済合理性の低さを嘆き批判している事に対する自分なりのアンチテーゼが「人様の合理性ぐらい放っておけよばかものが」です。

 他人の合理性をコントロールしたいばかものが増えている現実には、「人様の合理性ぐらい放っておけよばかものが」。そして自分の感受性をコントロール出来ないばかものも増えている現状には、「自分の感受性ぐらい自分で守ればかものよ」と己自身に言い聞かせています。

 沢山の正義が同時進行で降りかかり、ぶつかり合うこの時代に、茨木のり子さんのこの詩はコロナ禍で強い感受性を育くみ尊重した沢山の日本人が、もう一度感受性がバカにならない程度に自己責任で経済合理性を受け入れ、感受性と合理性の落とし所を探る場面が訪れているのではないだろうかと、最近考えます。

 例えば、合理性の高い人、感受性の高い人って、恐らくそれで飯が食えるまで極められる人ですよね。

 感受性が高く稀有な才能の持ち主であるアーティストの人達は、経済合理性を嫌う傾向があります。個人として経済性が高いアーティスト等は、社会の合理性を追求するよりも、個人の感受性を極めると経済性も高まるので、その自己矛盾から批判されがちです。

 そして感受性を極められない多くの人達は、一度は経済合理性を追求しようとします。その過程で経済性を追求するあまり感受性を置き去りにして誤った方向に行く人達も多くいて、ブラック企業を生み出したり働いたりで、結果的に個人の経済合理性も社会の合理性も中途半端なまま頓挫してしまう。

 そう合理性も感受性も中途半端な私のような人間は、これからの時代は何を拠り所に生き抜く事が出来るのだろうか。残念ながら今はこれと断言出来るものが私にはありませんが、過去の絶望のなか生き抜いた人達の言葉は参考にすべきだということは確信している。

 ここで茨木のこ子さんの詩をもうひとつ読んで欲しい。

 わたしが一番きれいだったとき
わたしが一番きれいだったとき
街々はがらがら崩れていって
とんでもないところから
青空なんかが見えたりした

わたしが一番きれいだったとき
まわりの人達がたくさん死んだ
工場で 海で 名もない島で
わたしはおしゃれのきっかけを落としてしまった

わたしが一番きれいだったとき
だれもやさしい贈り物を捧げてはくれなかった
男たちは挙手の礼しか知らなくて
きれいな眼差しだけを残し皆発っていった

わたしが一番きれいだったとき
わたしの頭はからっぽで
わたしの心はかたくなで
手足ばかりが栗色に光った

わたしが一番きれいだったとき
わたしの国は戦争で負けた
そんな馬鹿なことってあるものか
ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた

わたしが一番きれいだったとき
ラジオからはジャズが溢れた
禁煙を破ったときのようにくらくらしながら
わたしは異国の甘い音楽をむさぼった

わたしが一番きれいだったとき
わたしはとてもふしあわせ
わたしはとてもとんちんかん
わたしはめっぽうさびしかった

だから決めた できれば長生きすることに
年とってから凄く美しい絵を描いた
フランスのルオー爺さんのようにね

 茨木のり子

 泣いた。
感受性がバカになってなくて良かったと感じた。

 と、同時に明日の株価も気になる自分がいる。

 良かった。
マーケットをチェックしながら適度に適当に合理性を追求する自分がいて。

 私の様な感受性も合理性も極められない中途半端である意味普通の人間は、合理性と感受性の間の狭間の落とし所/拠り所で生き抜くしかない。

  合理性ばかりを追求すると、感受性に反発され利己的になる。
  感受性ばかりを尊重すると、合理性が欠如して利他的になれない。

 当たり前の結論で申し訳ないが、やはりこれなんだ。

 感受性も合理性も大事なんだ。

 




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