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バスケットボールの定理 【第4部】 〜一流の条件〜

ファミレス協定

その団体客は、どことなく奇妙に映った。
ファミレスの禁煙席に座る長身の若い男をさらに若く10代にも見える女子たちが取り囲み、かれこれ2時間近くも気難しい顔で何事か話し込んでいた。
「まだいる……」
詮索好きな店員であれば、いくばくかの怪しさを感じながら、彼らがどんな関係なのか想像をめぐらせたに違いない……。

それは東京医療保健大学女子バスケットボール部監督の恩塚亨と部員たちの一行だった。バスケ部員をファミレスに集めた恩塚は、現在週3日の練習日を4日に増やす交渉を始めた。
選手団側は大学生活の充実を図る権利を主張し、練習の1日延長を断固拒否するも、恩塚も一歩も引かなかった。彼はこれまでも逆境に立つたびに幾度となく発揮してきた持ち前の驚異的な粘り強さで、渋る選手たちを一人また一人と説得し、合意をとりつけていった。
そして2時間に及ぶ折衝の末、ついに恩塚は週に4日間の練習日を勝ち取ったのだった。

この日、東京医療保健大学女子バスケ部は確かに一歩前進した。恩塚が目指す代々木第二体育館に一歩近づいたと言えるだろう。しかし、その歩みはあまりに遅く、この調子ではいつまでたっても渋谷区内にすらたどりつけないのではないかと途方に暮れてしまいそうにもなる。
だが、恩塚は常に自分に言い聞かせてきた。

遠くを見ない。明日だけを見る。

それは、歌舞伎役者、坂東玉三郎の言葉だ。恩塚はこの言葉に出会ってから、「今日と明日の練習をどうやったら最高にできるか」それだけを日々考えてきた。そしてこの時も、今日の話し合いにベストを尽くし、今はもう、明日の練習をベストなものにすることに意識を集中していた。

しあわせの理由

関東大学4部リーグからスタートした東京医療保健大は、2010年に2部リーグに昇格すると、2012年には2部所属ながら初のインカレ出場を果たした。初戦で敗れ、代々木第二体育館のコートには立てなかったが、恩塚はチームが着実に力をつけている手応えを感じていた。
相変わらず恩塚がリクルートできる選手は全国大会とは無縁の選手たちばかりだったが、高校時代に目立った実績がなくても身体能力の高さや精神的なハングリーさなど、大学で大きく成長できる可能性を秘めた選手に声をかけ、チームには少しずつ、本気でバスケットがしたい、大学で選手として成長したいと思って入部してくる選手が増えていた。

この間、恩塚は練習メニューの組み立てから、高校を訪問してのリクルートまで一人でこなし、他にも大学でのオフィスワークや代表絡みの仕事もある。1日のスケジュールは多忙を極めたが、恩塚は疲れなど微塵も見せなかった。
彼は大好きなバスケットで、自分が人から必要とされることがうれしかったのだ

高校でバスケ部の顧問だった頃、子供たちに熱心にバスケを教えれば教えるほど、保護者からは煙たがられた。代表でアナリストを始めたばかりの頃は、徹夜で仕上げた分析レポートが見向きもされなかった。
それが今では、成長したいと願う選手たちから頼られ、自分の分析を待ってくれているコーチ陣がいる。そのことが、恩塚はとてつもなくうれしかった。どんなに忙しくても、彼ら/彼女らの顔を見ると疲れが吹き飛んだ。

2013年6月、関東大学女子バスケットボール新人戦で東京医療保健大は準優勝という快挙をなしとげる。
決勝の試合会場は代々木第二体育館だった。
新人戦なので1・2年生のみのチームではあるが、恩塚はついにチームをバスケットボールの聖地に連れてくることができた。
次の目標は3・4年生も含めたチーム全員で、この舞台に帰ってくることだった。

ラーン・フロム・ザ・ベスト

女子日本代表専属アナリストの4年の任期を終え、いったん大学のコーチ業に専念することになったこの年、少し時間に余裕のできた恩塚は積年の夢を叶えるためアメリカに飛んだ。

2013年夏、ノースカロライナ州ダーラム
恩塚は大学バスケの名門、デューク大学に来ていた。
彼が好きな英語の慣用句に”Learn From The Best”「一流に学べ」という言い回しがある。
デューク大学には、バスケットコーチの”The Best”、コーチKことマイク・シャシェフスキーがいた。
ポーランド系移民の子孫で、アメリカ人には発音が難しいどころか、なんと発音していいかすら見当もつかない”Krzyzewski”という苗字を持つ彼は、イニシャルをとって人々から「コーチK」と呼ばれている。

コーチKはデューク大学バスケットボール部の監督として、NCAAトーナメントで歴代最多の勝利数と5回の優勝経験を持ち、2001年にバスケットボールの殿堂入りを果たすと、2006年に男子アメリカ代表の監督に就任。NBAのスター選手を率いて、オリンピックで3度、世界選手権で2度の金メダルを獲得した名将である。

コーチKに学びたい……。
恩塚がついにその願いを叶えたこの年、コーチKは66歳だった。
そして驚くべきことに、彼はチーム練習が休みの日でもビデオを見て研究していた。国内での無数の勝利と栄冠、国際大会での幾多の金メダルを手にしてもなお、彼は寸暇を惜しんでバスケットを学ぼうとしている。
親子ほどに年の離れた老コーチを見て恩塚は思った。
自分はまだまだ、もっと突き詰められる。

このとき恩塚はコーチKから、”Hardwork”と”Follow your heart”という二つの言葉をもらった。
恩塚の中で大事にしたい言葉がまた増えた。

同年秋、東京医療保健大は関東1部リーグへの昇格を決めた。
チーム全員で再びあの場所へ。
その目標はすぐ目の前に近づいていた。

コート上のシンデレラ

2014年5月、東京都渋谷区
関東大学女子バスケットボール選手権大会、Bブロック決勝。
東京医療保健大学女子バスケットボール部は、再び代々木第二体育館にやってきた。今度はチーム全員が揃って、憧れのコートに立つ。

選手たちの多くは、自分がそこに立っていることが信じられなかった。
「夢を見てるみたい……」
彼女たちは大学に入学してバスケ部に入ったとき、まさか自分が代々木第二体育館で試合ができる日が来るとは想像していなかった。自分が入学した大学はバスケの強豪校ではなかったし、自分も決してエリート選手ではなかったからだ。
バスケットボールの聖地でプレーできる喜びにあふれている選手たちを見て、恩塚もまた改めて喜びが湧き上がってくるのを感じていた……。

大学に入ったばかりの頃、彼女たちにはまだ、”お城に着ていくドレスがなかった”。しかし、恩塚にはわかっていた。彼女たちは、”きちんとしたドレスを与えられさえすれば”、舞踏会にひしめく数々のライバルにも負けない輝きを放てる、それだけの魅力を秘めた選手たちなのだと。
そして、彼が魔法使いの弟子であることも、もちろん忘れてはいけない。

なお、この年、のちに東京羽田ヴィッキーズに入団する津村ゆり子が入部している。彼女も高校時代には全国大会の出場経験がない無名の選手だったが、恩塚は入部まもない津村に「ユニバーシアード代表になれよ」と声をかけた。
そのときの津村はぽかんとしていた。
彼女はユニバーシアードの存在を知らなかったのだ……。

それから3年後の2017年、東京医療保健大は関東大学1部リーグで初の優勝を果たすと、その勢いのままインカレ初優勝をなしとげる。

それは、大学バスケットボール界に衝撃を与えた”事件”だった。
5年前にインカレに初めて出場し、3年前に関東1部リーグに昇格したばかりのそれまで名前も聞いたことがなかったような大学が、全国の並みいる名門校、実力校を次々と倒し、一気に頂点まで駆け上ったのだ。

だが、恩塚はつとめて冷静だった。
大事なのは優勝という結果ではない。日々充実した練習ができたこと、選手たち全員が成長し続けられたことが大事なのだ。

それは口先だけの綺麗事に聞こえるかもしれない。だが結局のところ、言葉は「何を言ったか」よりも「誰が言ったか」である。
何度も企画書を書き直しては再提出を繰り返した末にバスケ部を立ちあげ、たった5人の部員から始まって、練習日を1日増やすためにファミレスで2時間説得し、ようやくたどり着いた代々木第二体育館で選手たちと夢のような時間を過ごした恩塚が、「大事なのは優勝という結果ではない」と言う時、私たちは静かに頷かざるをえない。
それはそうだろう。優勝にだけ価値があるというのなら、彼はそもそもこんなことを始めていない。

恩塚は今日と明日、どうしたらチームが良くなるか、どうしたら選手が成長できるかだけを考えてきた。

遠くを見ない。明日だけを見る。

バスケ部創設から11年、恩塚は38歳になっていた。

東京医療保健大のインカレ初優勝については恩塚とキャプテン森田菜奈枝の物語として、ここに詳しく書いた。

一つだけ付け加えるとするならば、この大会でMVPに輝いたのが4年生になった津村である。彼女も大学での4年間で大きく成長した選手の一人だ。
恩塚は入部後すぐに彼女の能力の高さに気づいていた。ただ、当時はすぐに気落ちしてしまう気持ちの弱さがあり、その能力を十分に発揮することができていなかった。恩塚は津村に気持ちの切り替えの重要性を粘り強く説き、一年生の彼女に「ユニバーシアード代表になれよ」と言って高い目標を与えた。
そしてインカレでMVPを獲得した後、彼女は本当にユニバーシアード日本代表に選ばれたのだ。

一流の条件

この年、恩塚にはもう一つの転機があった。女子日本代表のアシスタントコーチ就任である。

「日本では珍しく、一流選手から指導者というパターンではなく、米国式のキャリアを積んでいる」
日本バスケットボール協会のある関係者は、恩塚のことをそう評している。

日本では「選手として一流の経験がないコーチに一流の選手を教えられるのか」と疑問視する風潮が強い。
だが、アメリカでは選手としての能力とコーチとしての能力は分けて考えられている。デューク大のコーチKも選手としては高校と陸軍士官学校でのプレー経験しかないが、コーチとしての殿堂入りを果たしている。
選手として一流であることは、一流のコーチになるための必要条件ではない。一流のコーチになりたければ、一流のコーチから学ぶこと。恩塚はそう考えた。
2013年の初対面以来、恩塚はたびたび渡米してはコーチKのもとを訪れ、デューク大の練習や、時に彼が指揮をとる男子アメリカ代表の練習も見学している。

恩塚はインタビューなどで、「自分が一番尊敬する人のもとへ学びに行ってください」と語っている。大学の教え子にも常に「一流に学べ」と言い続けてきた。これもまた人によっては綺麗事で終わるだろう。だが恩塚の言う綺麗事には彼の人生の重みが乗っているのだ。

「人生は出会いが作る」

恩塚はいまや”時の人”になっていた。
無名の大学を驚くべきスピードでインカレ優勝に導いた知将と呼ばれ、東京医療保健大が短期間のうちにこれほど強くなった秘訣を全国の指導者が知りたがった。また、女子日本代表のビデオコーディネーターからアナリスト、そしてアシスタントコーチへという異例のキャリアアップも話題になっていた。

鈴木良和は、筑波大の受験日に出会った後別々の道を進み、今や日本のバスケット界で注目を集める指導者となった同級生を遠くからまぶしく見つめていた。そしてまもなく、彼は恩塚にあるオファーを出した。

2018年3月、東京都江東区
鈴木が代表を務めるERUTLUCは、年に一度「ジュニアバスケットボールサミット」というイベントを開催している。それは、ジュニア期のバスケットボールの現場をよりよいものにすることを目的に、全国から選手・指導者・保護者を集め、プロ選手やスキルコーチによるクリニック、その他各分野の専門家によるプレゼンテーションなどを行うイベントである。

この年のジュニアバスケットボールサミットでは、Bリーグの元コーチや日本代表スタッフのクリニックに混じって、恩塚によるコーチ向けの戦術クリニックが開かれた。
鈴木のオファーを恩塚は喜んで引き受けた。

恩塚のもとには、体育協会からのクリニックや講習会のオファー、都道府県のイベントへの出席依頼などが数多く寄せられるようになった。そして彼は、対象が中学生でも、ミニバスの選手でも、時間が許す限り全国に出かけて行って指導する労を惜しまず、また同時に大学の練習見学もできる限り受け入れてきた。
それは彼が「人生は出会いが作る」と考えているからだ。

大学時代の恩師、日髙哲朗は、彼に目指すべきコーチ像と自分で自分の可能性を狭めるなという言葉を与えてくれた。
コーチKは無名の日本人である恩塚にわざわざ時間を作って会ってくれた。「HardworkとFollow your heartだ」という言葉をかけ、緑寿を越えてなお衰えぬ探究心を垣間見させてくれた。
彼らとの出会いがあって、今の自分がある。
自分も誰かにとって、そんな出会いのきっかけを与えられるかもしれないと思うと、恩塚はできるだけ多くの現場に足を運びたくなるのだった。

不愉快な命題

ところで、鈴木には指導者になって以来このかた、ずっと心に引っかかっている命題があった。

バスケットボールという競技は日本人には向いていない。

愉快とは言えないが、それが”真”であることは認めざるをえないだろう。半ばあきらめとともに鈴木はそう考え、自分を納得させてきた。
しかし、海外の選手育成に関する知識を深めていくうち、鈴木は次第に疑いが湧いてくるのを感じていた……。
その命題は本当に正しいのか?

彼がバスケットボールの家庭教師を始め、指導者になってからこれまでの歩みの全ては、あたかもこの命題に立ち向かうための準備だったようにも思えた。彼は少しずつ、この難題を攻略するための武器を集めていたのだ。

鈴木は満を持して、この長らく自明だと思われてきた命題に対する反証に挑もうとしていた。
彼はまたしても無謀な挑戦を始めようとしているのかもしれない。その命題を反証できる、その命題が偽である保証はどこにもない。
だが、かつてバスケットボールの家庭教師を始めるときも、「周囲から無理だと否定されればされるほど、それが人生をかけるに値する大きな挑戦であるしるしだ」と思えた彼だ。
周囲から無謀と思われるほどの大それた挑戦は、彼にとって人生に必要不可欠な生きがいのようなものなのかもしれない。
バスケットボールの家庭教師事業が法人化され経営も安定してきた今、鈴木が新たな”生きがい”を求めたとしても不思議ではないだろう。

そして彼が始めた大それた挑戦は、別の大それた試みへとつながっていくことになる。それは、新たなバスケットボールの定理を発見しようとする壮大な試みだった。

(第5部へ続く)



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