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コロナ禍と今話題のクラブハウスを別視点から考えてみました

突然ですが、話し言葉と書き言葉のどちらが、「継承」という点において寄与するところが大きいと言えるのでしょうか。

ひと昔前の時代の人の考え方になりますが…
例えば書き言葉の重要性を唱える人は、広い意味では「文化遺産の継承」という観点に立っていて、書き言葉は記録に残すことができ、次世代への継承が可能であり、それゆえに言語を固定して伝承することの価値を見出していると言われています。このnoteも、そのひとつと言えますよね。

一方、話し言葉は「一過性のもの」であるため記録に留めることもできず、文化の伝承という観点からは価値は無いものとして、軽視とは言わないまでも重要視はされてこなかったと言われています。

これに対して話し言葉を擁護する人は、文化とは「人間の願望が具現化したもの」の総称であるとして、人間の願望の基盤は「喜怒哀楽の感情」であり、喜怒哀楽の感情は発生音によってのみ伝えられるものであるとして、当然のごとく話し言葉がより優先されるべきものと考えていました。

それゆえに、書き言葉は話し言葉に戻されることによってのみ人間の願望を伝えることができるので、書き言葉の有用性は話し言葉の二次的な意味としてしか認めない、という考え方だったようです。

リモートワークが一般化したことで、オフィスで顔を合わせてコミュニケーションを取りながらの業務推進から、自宅でひとりでメールやチャットメインでのコミュニケーションを取りながらの仕事の仕方に疑問や限界を感じている方は、理解できる考え方になるのかも知れません。

また、このリモートワークによる影響に加えて、なのかも知れませんが、ここ最近話題にもなってきているクラブハウスも、どちらかで言えば話し言葉の分類になりますが、コロナ禍による自粛が続いていたことによる「雑談(話すということ)規制」が大きく影響しているのだと思っています。

言語の世界においては、今でもたまに遭遇しますが、「言葉が乱れている」「美しい日本語を残そう」という議論よりも、「言葉が乱れているのではなく、言葉は世代や時代により発声器官が異なり、そこから生じる発声音の変化が、言葉そのものの変化を生むのだ」という議論のほうが主流だという認識です。

なので、言語の変化を質的低下と捉えるのではなく、その時代その社会の中に生きる人たちの願望の変遷を映し出しているものとして考えていくべきなのだと思っています。

クラブハウスにおいても同様で、特に年配の方に多い印象ですが、「クラブハウスの使い方が間違っている」「自分が正しいルームを立ち上げなければ」と揶揄している方もいらっしゃるようです。

もちろん明らかにおかしな方々もいらっしゃることは確かですが、まだ日本においては始まったばかりですし、色々な試行錯誤を行っている段階でもあると思いますし、頭から斜に構えて否定をするのではなく、これも令和の時代、コロナ禍社会の中に生きる人たちの願望の変遷を映し出しているものとして考えていくべきなのかな、と思っていたりもします。

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