「山月記」から学ぶ発信の重要性

どうも、ざわきんです。

新年の抱負を投稿してから全くnoteやら技術記事も書いていませんでしたが、無事生きています。

note を書いていなかった理由として、「書く気が起こらなかった」というのが本音なところです。元々、文章書くのが好きで、ウキウキでnoteを毎日書いていた時期もありましたが、最近はもっぱら記事を書くための筆を取る機会も減り、noteを開くことすら無くなっていました。

なぜ文章を書くのが好きなのに、記事を書く気がなくなったかというのを分析してみます。

記事を書く気が起こらない理由

その要因の一つが、仕事です。

現在、ナレッジワークという初期スタートアップに参加しています。幸い、体感時間と実時間が一致しないほど凝縮した時間を過ごすことができていて、充実した一日を過ごしています。プログラムを書くのはもちろん、要件定義もすることができたり、ドキュメントを書いたり、業務の幅も広く、「文章を書きたい欲」は案外満たされてしまっているところがあります。

社内Slackでも、Twitterのように、気持ちをつらつらと綴って良い分報チャンネルがあります。ただ、noteのように分野を限らず、自由にまとまった思考の外部化をするとなると場所も限られてきます。

もう一つの要因としては、noteを読む可能性がある知り合いが読むと考え、記事の内容にうっすらとしがらみを感じてしまったということがあります。

実際、気にし過ぎなところはあるはずなのですが、「この記事を読んだ知り合いがどう思うか」といったところまで考えが及んでしまったのです。

note始めた頃よりもプライベートや仕事の知り合いと Twitter と繋がるようになりました。

「嫌われたくない」的な思考に陥ると、自由に気持ちを発信するのは難しくなります。その強い鎖を解くほどの強い動機も持てず、頭で考えていることを外に出す機会を作れないでいました。

また、中途半端な形で記事を書きたくないと考えて、自分の高い基準を超えられず、気軽に投稿ができなくなってしまいました。

「山月記」って名作やなぁ

とまあ、こんな感じに適当に分析してみました。書いている本人は、案外楽しく文章が書けているので、元来物書き自体は性に合っているのでしょう。

そんなモヤってた自分の背中を押したのは、久々に読み返した中島敦の「山月記」です。

山月記の中で、主人公李徴は、昔から詩の才能を自覚したものの、プライドが高く、なかなか評価されない自分に恥ずかしさを感じて引きこもってしまいます。月日流れて、いつの間にか虎に化けてしまいます。

作中では、「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」という印象に残るキーワードが出てきます。プライドが高い故に、他の人に指摘されるのが怖くなり、作品を世に出すことに対して臆病になると「臆病な自尊心」が芽生えてきます。

自己評価に比べ、認められない自分が恥ずかしいという羞恥心は「尊大な羞恥心」です。

これらの強い「自意識」こそが、虎となる要因です。この自意識の高さは、「世に出せない→評価されない→恥ずかしくて世に出せない→さらに評価されない」のように悪循環を生み出します。

久々に読み返すと、自分も虎になりかけていたと気付きます

文章を出さない限りは駄目だと烙印を押されることもないわけですが、そうして切磋琢磨をしなければ、成長もできず、自分の足りないところに気づくこともありません。

わざわざ自ら進んでそんな恥ずかしい思いをしたくないのが人情ではあるものの、やはりそこを乗り越えないと新しい世界を見ることはできません。

くだらない自意識で記事を書くのを躊躇っているあたり、「虎」になりかけていたのでしょう。

久しぶりに記事を書き切れたので、「人間」に戻れた気がします。

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