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三秒もどせる手持ち時計(3章6話:やりたい事)

6.やりたい事

 最近の秀次は、以前にも増して効率的に仕事を終えることだけに集中するようになっていた。
 少し前は、仕事に面白みを見つけようと試みたが、考えるほどに嫌な部分が浮かび上がってくる。そのため、以前と同じように戻したのだった。
(今日は、あやめはいないのじゃな。なんだか、さびしいのう)
 なぎさが残念がる。それもそのはず、あやめは職場でも周囲に良い雰囲気を伝搬させていた。
 そんな彼女は、今日からの二日間、長崎へと出張している。最近は、同棲に近い頻度で会っているので、彼女のいない日常は久しぶりかもしれない。
 秀次は、改めて自席から周りの様子をサッと見た。水口は淡々と仕事をこなし、一人でそれなりに進めているように見える。飯田は、先日の件以降、やる気を出している様に見えるが、実力が全く伴っていない印象だ。
 千賀は、相も変わらずスマートに業務を回している。しかし、最近は時折、鬼気迫る何かを感じることがある。また、勝山も相も変わらず熱く仕事に向き合っていた。
 すると、隣から声を掛けられた。水口からである。特に、困っているようには見えないが、何か相談事だろうか。
「秋山さん。今、時間ありますか?」
「別にいいけど、どうした」
 秀次は、今日も少し時間に余裕があった。最近は、なぜだか仕事がサクサク進んでいく。
「コーヒー飲みに行きませんか?」
「ん?あぁいいよ」
 秀次は、水口からそんな誘いを受けるなんて珍しいと思った。
 秀次の職場は、二階が職務スペース、一階が食堂となっている。食堂には、自販機が設置されているため、秀次は時折、気分転換のためそこでコーヒーを買う。
 現在は、午後三時半。食堂には、秀次と水口以外は誰もいなかった。二人は、それぞれ缶コーヒーを買った。すると、水口が話し始めた。
「僕、この仕事が向いてないように思うんです」
 秀次は、少し目を見開いた。
「最近、なかなか仕事が上手く進まなくて…」
「そうか?俺には、別にそうは見えないけど」
 これが、秀次の正直な意見だった。しかし、水口はかなり深刻な顔をしている。
「例えば、どんなところが上手くいかないんだ?」
 水口の話では、業務上の至るところで発生する折衝が全く上手くいかないのだという。どんなに丁寧に話しても、分からないと跳ね返される方が多いのだとか。
「あぁ、まぁあるな。そういうのは」
 秀次も、かつて経験した覚えがある。
「僕は、仕様を考えたり、図面に落としたりする仕事は割かし好きなんです。でも、交渉事になると、どうしたらいいか分からなくなって…」
「なるほどな。それ、面談で課長には相談してみた?」
「しました。でも、量をこなせ。場数で慣れろ。の一点張りで、具体的なアドバイスはありませんでした」
 秀次は、勝山なら言いそうだなと思った。
「千賀さんは、どうだ?」
「最近の千賀係長は、少しピリピリしているというか。少し相談しづらくて…」
 秀次は、それもそうかもしれないと思った。最近の千賀は、基本的に柔和な印象は崩していないが、やや攻撃的なオーラが見え隠れしている。
「それも、少しわかるかも。まぁでも、水口は俺よりはこの仕事に向いているんじゃないかと思うぜ」
 秀次は、これも本心だった。
「えっ?どうしてですか?」
「だって、さっき言ってただろ。仕様を考えて図面に落とすのは好きだって。この仕事は、それが醍醐味だからなぁ」
 秀次は、仕事に好きな事を見いだせている水口を羨ましく思えた。
「でも、秋山さんはこの仕事が向いてないなんて事はないでしょう。誰よりも早く仕事を終えて、帰ってるし」
「あぁ、それは水口より長くやってるからだよ。俺は、この仕事が特に好きでもないしな」
 秀次は、自分で言いながら情けなく思えた。プライベートでも、情けないと言われ、仕事でも情けなかったら、もう情けない奴じゃないか。笑えてくる。
「まぁ、でも。さっきの折衝の話だったら、まず結論から話すようにしてみたらどうだ」
 これは、以前に横で水口の報告を聞いていた時に思ったことだ。
「俺の印象は、水口の説明は論理的で丁寧だけど、その分、結論まで時間が掛かるかもしれない。ほら、せっかちな人多いじゃん」
 秀次は、水口に笑いかけた。
「だから、結論を先に言って、理由を説明しながら相手の反応を見て、どこまで話すかを決めたらどうだ」
「そうしたら、話を聞いてもらえるんでしょうか」
 水口は、また自信を無くしていそうだ。
「多少は変わると思うぜ。まぁ要は、相手の表情をよく見て話すことかな」
 秀次は、言いながら悲しくなる。好きでもない仕事の事を語って。しかし、水口の気持ちは少し晴れたように見える。
「ありがとうございます。勉強になりました。…そろそろ戻ります。課長に何か言われそうなんで」
 水口は、そう言って職場に戻っていった。しかし、秀次は戻る気になれなかった。このまま、定時までここにいてやろうかと思った。
(水口という人物も、少しずつ成長しておるのう)
 なぎさが言う。
(俺は、あいつが少し羨ましく思えちまったよ。やりたい事を見つけられて)
秀次は、ため息をつく。
(…秀坊も、先日、お偉方の前で、色々と話していたではないか)
(あぁ、あれはその場しのぎの言い訳だよ)
 とは言ったものの、何かそこに答えがある気もしなくはない。
(とは言え、あれは秀坊の言葉である事には変わりないじゃろ。何故そんなに嫌なのじゃ)
 何が嫌なのかは、すぐ答えられるが、なぜ嫌なのかは答えにくい。そう言えば、あの時は新しい工場に興味があるとか口走ったっけ。
(そうだなぁ。今の仕事の場合は…)
 秀次はコーヒーを飲んだ。既に残りは少ない。
(難しさには差はあるけど、基本的にやることは同じだからな。特に目新しさが無いというか…。それに、難しいと言っても厄介事の量が増えるだけでさ)
(なるほどのう。もしかすると、少し環境が変わると、また変化が生まれるかもしれんのう)
 なぎさの意見には一理ある。それは、あやめと色々な所に行って感じていたことかもしれない。
 すると、電話が鳴った。勝山からである。
「秋山。今、何してる。少し休憩が長くないか?」
 時計を見ると、四時半になろうとしている。
「気分転換してました。今から戻りまーす」
 秀次は、今日は何があっても定時で帰ろうと誓ったのだった。

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