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三秒もどせる手持ち時計(3章5話:将来)

5.将来

 真夏の太陽が高く昇り、牧場全体に鮮やかな光を投げかける。草原の緑は一層濃くなり、風に揺れる姿は波打つ海のように見えた。
 秀次たちは、札幌駅から車で三十分ほどの距離にある牧場に来ていた。この牧場では、乗馬体験やバーベキューが楽しめるのだそうだ。
「あー空気がおいしい。こんな場所にいつか住みたいなぁ」
 あやめは、両手を大きく広げて深呼吸をしている。右手には、ごはんパックを入れた袋を下げている。
 秀次も、あやめに倣って深呼吸をしてみた。すると、壮大な景色を見ているせいか、心が広がっていくのを感じた。
「いつか住みたいな。こういう所に」
 秀次は、遠くを見ながら言った。
 二人は、しばらく牧場を見て回ると、乗馬コーナーに辿り着いた。そこは、馬に乗って策に囲まれたコースを飼育員と共に歩く施設だった。
 秀次は、あやめに馬に乗った姿を写真に収めてほしいと頼まれた。彼女は、薄化粧にベージュのキャップを被った姿が、乗馬によく合っていた。
「やっぱり、自然体の方が似合ってるよ」
「昨日の色っぽいメイクより好き?」
「俺はな」
 秀次がそう言うと、あやめはうれしそうに微笑んだ。

 乗馬体験が終わると、日差しが一段と強くなってきた。お昼時を迎えたのだろうか。あやめの腹が鳴り始めている。すると、秀次のスマホも鳴った。それは、聡一郎そういちろうからのチャットだった。
 聡一郎によると、田村が自分と同じ冷泉れいぜいらの被害者を見つけて、週刊誌に垂れ込む計画を立てているという内容だった。
「確かに、それだったら何かしらの決断が必要そうだね」
 あやめが、画面を覗きこんでいった。
 さらに、知り合いの不動産屋から冷泉が過疎地の土地を買い占めているらしいという情報もあったという。
「まぁ、事業の拡大でも目論んでいるじゃないか。ほら、何だかんだで儲けてそうだし」
「そうだね、高そうなネックレスも付けていたし」
 それはさておき、二人は急いでバーベキュー施設へと向かった。あやめが、お腹が空きすぎて元気が無くなってきているからだ。どうやら、食事があやめの明るさや元気さの源らしい。
 バーベキュー施設では、注文カウンターで野菜やチキンを買った。あやめは、いつもながら多めに頼んでいるが、秀次にはそれも愛嬌に思えていた。

 秀次は、注文カウンターから貰った着火済み炭を入れ、野菜とチキンを焼いた。そして、それが焼きあがる頃、あやめはご飯を一パック食べ終えていた。
 結局、あやめはご飯を三パックたいらげ、元気を取り戻したように見える。すると、少し神妙な顔をして言った。
「私たち、もう二十代後半だね。秀次君はさぁ。将来のこと、どう考えてるの?」
「どうしたの、いきなり」
 秀次は、食器を片付けながら、あやめを見る。しかし、彼女は青空から目を逸らさない。
 それは、秀次にとって最大の悩みだった。仕事は嫌いでもないが、好きでも無い。プライベートは充実していると言えば、充実している。
 しかし、何かが足りていない。その何かが、分からなかった。
(それこそが、野望じゃよ)
 なぎさが、突然、声を出す。今日は、一日寝ると言っていたはずだったが。
(目が覚めてしもうた)
 だそうだ。
「そうだなぁ…」
 あやめへの返答を考える。しかし、上手く言語化ができない。
「顔」
 あやめの声が聞こえた。秀次は、何か現実に引き戻された感覚になった。
「また、表情が無くなってるよ。将来の事は、これから二人で一緒に考えていこう」
 あやめは真剣な表情で言った。
「そうだな」
 秀次も、それに同意した。

 駅前に戻ると、美月が待っていた。有名な海鮮の店を紹介してくれるという。
「本当によかったのかい?私に二人の時間を使って」
 美月が、申し訳なさそうに言う。
「いいよ。二人の時間は、これからもずっと続くし。ねっ」
 あやめは、秀次を見つめて言う。
「あぁ。そうだな」
 秀次もそれに同意する。秀次は、人前で照れくさいことを言われると無表情になってしまう。
「あら、あまり乗り気じゃなさそうじゃないかしら」
 聞き覚えのある声が聞こえた。
「桜子ちゃん。何でいるの?」
 あやめは、驚いた声で言った。
「昨日、言ったじゃないの。近々、伺いたいって」
 見ると、桜子は妖艶かつ神秘的な雰囲気に加えて、清らかな透明感も醸しだされていた。『オタサーの女王』の肩書きが無ければ、本当にうつつを抜かしていたかもしれない。
「秀次君。気をつけて、妖狐『オタサーの女王』がいる」
 あやめはそう言って、両手を広げて秀次と桜子の前に入った。
「本当にもう、あやめさんは。桜子の心は、もう限界ですわよ」
「そうよ、あやめちゃん。桜子さんはこう見えても繊細なんだから、甲冑を着ていないと耐えられないくらいに」
 すると、桜子は美月を見た。
「美月さん。それ、少しイジってません?」
「そんな事はないよ」
 どうやら、二人は打ち解けたようだ。
 その時、背後から男性の声が聞こえた。見知らぬ男性である。
「おい、姉ちゃんたち。そんな情けなさそうな男ほっといて、俺らと遊ぼうぜ」
 見ると、かなりチャラそうな男性が三人立っている。
 すると、美月と桜子がガンを飛ばした。そして、美月が彼らの顔に『空言の筆』で隠した何かから水を掛け、桜子が三人の顔に『魔性の香水』を手早く吹きかけた。
 さらに、あやめが周囲に向けて渾身の大声を響かせたため、彼らは退散するしか無くなったのだった。
 この時、秀次の『逆巻き時計』の出番は一切無かった。

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